第八章 広子の告白

高田が何やら騒々しく、広子に話しかけながら歩いている。

空が薄曇りになっているせいか、川の色も重い緑がかったグレーで、水面に歴史を感じさせる建物郡を写している。


ヴェッキオ橋は一口に言うと、古代のショッピングモールと言えばいいのか。

橋全体に金細工店が並んでにぎわっている。 


すっかり高田のぺースに乗せられたさゆりは、隣を歩いている背の高い男を見上げた。


(それにしてもこのスーツ、何とかならないのかしら・・・。

何度見ても目がチカチカするわ。

それに、全然しゃべらないし・・・。

女の子と話した事、ないのかしら?)


その通り、卓也はさっきからこのチャンスに、さゆりの気をひく事を話したいのだが、中々切り出せない。


高田が時々振り向き、目配してプレッシャーをかけている。

日記の中では結構オシャレな言葉で、さゆりを描写しているのに。


父譲りの文章はなかなかレベルが高く、ラブレターでも書けば少しはこの男のカブも上がるのだが。


「そんな訳で協力していただけませんか、広子さん。

あいつは会ったばかりなんですけど何か憎めなくてね。


本当に純情そーで、女の子に惚れたの今度が初めてらしいんですよ。

あんな変なカッコウしているけど、サングラス取ると結構ハンサムなんですよ。

何とか、さゆりちゃんと仲良くなるように、したいんだけどなぁ・・・」


「お優しいのね、高田さん」

広子に言われて照れたのか、少し顔を赤くして言った。


「いやーっ、ただのスケベ中年ですよぉ・・・さゆりちゃんの言うとおり。

女房にも逃げられちゃったし・・・」


「お子様はいらっしゃるの?」


「えっ残念ながらいないんです。

逃げられて十年にもなる。

侘しい一人暮らしですよ・・・」


「そう、私と同じね。

私、子供・・・好きなんですけどできなくて。

もう年だからダメね・・・」


力なく笑ってうつ向く広子に、高田はムキになって言った。


「そんな事ないですよ。

こんな美しくて魅力的な女性・・・」


言いかけて目が合った高田は改めて広子の美しさに、声が出なかった。

今日は先日ローマで買った白のパンツにTシャツ、というラフな格好であったが、薄いブルーのジャケットをはおった姿は、均整がとれたプロポーションを強調していた。


「ありがとうございます。

高田さんこそ、口で言うほど悪い人じゃないみたい・・・。

いいわ、協力します。

でもこれは、さゆりさんの気持ち次第だし、私なり・・・の、ね」


いたずらっぽく笑う広子の前で、口数が多くなる自分に気づく高田であった。

四人の靴音が心地よく響く午後だった。


一行はシニョーリア広場に行って記念写真を撮ったり、ヴェッキオ宮殿のルネッサンスの内装にため息をついたりと、素直にフィレンツェ観光を楽しんでいた。

さゆりもいつの間にか、この四人の旅が楽しく感じられる自分に気づいていた。


何もしゃべらない卓也であったが、たえずさゆりの行動を気にしてくれているようで、くすぐったいような不思議な感覚を味わっていた。

やがて日も暮れてきて、うっすら空がピンク色になりだす頃。


「夕方で美術館もすくけど、今日はもう疲れたし、この辺でホテルに帰りますか」

高田が提案すると、一行は又川沿いにホテルへの道をたどっていった。


街中を歩いてもいいが、この川沿いの景色が四人は気に入っていた。

四人の様々な想いをのせてアルノ川はゆったり流れていく。


やがて、そこそこに灯るあかりが水面に写りだしていく。

フィレンツェの一日目の夜は、静かに始まろうとしていた。


    ※※※※※※※※※※※※


「あーッ、いいお湯・・・気持ち良かったぁ・・・・」

ラフなトレーニングウェアを着たさゆりは、タオルで顔をふきながら言った。


いつ携帯で他の客に呼び出されるかわからないので、パジャマやネグリジェでは寝られないのである。


「わーっ、おいしそう・・・」

広子はカンビールを飲んでいた。


「さゆりさんの分もあるわよ」

そう言うと、冷蔵庫から冷えたのを取り出して渡した。


「うれしい。冷たーい・・・」

さゆりはビールを頬にあてて、プルトップを外すと一気に飲みだした。


「あーっ、おいしい・・・。最高っ―」

「ふふふっ・・・」


広子は楽しそうに、さゆりを見つめている。


「もうー、高田さんったら、人を自分のぺースに乗せるの、うまいんだからぁ。

結局夕食も一緒にしちゃいましたね。

おごってもらったから良かったけど・・・」


舌を出して、いたずらっぽくさゆりは言った。


「でも、楽しかったわ。

こんなにおもしろい旅になるとは思わなかった・・・」


広子の言葉に、さゆりも素直にうなずいた。


「そうですね。

何だかんだ言ってイタリアの事、詳しいし。

大西さんもあまりしゃべらないけど、すごく気を使ってくれるし・・・。

何だか、変ですよね・・・あの二人?

要注意人物だと思っていたのに・・・」


「明日はゆっくり市内をまわるし、今日は飲んじゃおうか・・・

さゆり・・・ちゃん。


ふふっごめんなさい・・・・高田さんみたいだった?

でも、あなた可愛いから『ちゃん』の方がイメージ合うのよね。」


広子に褒められて、さゆりは顔を赤らめた。


「あっ、じゃあ私、廊下のアイスボックスから氷取ってきます」

「いいのよ、もうルームサービスで、ウイスキーと氷のセット頼んだから。」


言い終わらない内に、ボーイがワゴンを運んできた。

広子はチップをボーイに渡すと、ウイスキーの封を開けて香りを楽しんだ。


「いいにおい・・・・。

ねっ、今日は女同士、少しハメ外しちゃお」


「はい、そうですね、飲みましょう。

私、結構強いですよ・・・」


二人は笑いながら、薄くした水割りを飲みはじめた。

フィレンツェの街並みが、濃いシルエットで星空を切り取っていた。


とりとめのない話をしながらはしゃいでいた二人であったが、時折広子はさびしげな表情をみせて、窓の外の景色を眺めていた。


「どうかしたんですか、広子さん?」

さゆりが心配そうに広子の顔を覗き込んだ。


広子はため息をつくと、目に涙をにじませて微笑みながら言った。

窓の外を眺めながら、独り言のように。


「新婚旅行はイタリアだったの。

このフィレンツェにも来た・・・・。


さっきのアルノ川を二人見ながら歩いたの・・・

あの頃あの人も私を愛してくれてたわ。

私も幸せだった・・・・


でも仕事が忙しくて、結婚生活もあまりうまくいかなかったの。

主人は若くして会社の社長で、家をあける日も多かったし・・・。


子供でも生まれていれば気もまぎれていたんでしょうけど、

私も若かったからいつもケンカばかりしていたわ。

その内あの人は家に帰らなくなって。

別に好きな人がいたのね。


気づいた時には、その人に子供ができていて・・・・

一年前に別れたの・・・・。

ずっと別居みたいなものだったし・・・・・。


やっと気持ちの整理ができて、今回のツアーに参加したんだけど、ダメね。

別の所にすればよかったわ。

イタリアに来れば、何か本当にふっきれる気がして・・・。

あの・・・人を・・・」


広子の目から大粒の涙がこぼれ出してきた。

さゆりが広子の肩に手をかけると、肩を震わせて顔を胸にうずめてきた。


何も言わず優しく広子を抱きしめてあげた。

何年かの歳月の中でたまっていた広子の悲しみが一気に噴き出したようで、子供のようにさゆりの胸の中で泣いた。


不思議と涙が心地良かった。

悲しいはずであるのに、心が温かく感じる。


さゆりの胸は柔らかく、いい匂いがした。

さゆりの小さい手が優しく頭を撫でてくれる。


広子はこの幸せな涙を、いつまでも流していたかった。

時間がゆっくり流れていく。


さゆりは母になったように優しく広子を抱いていた。

窓の外に広がる夜景は、ローマ程光は多くないのだが心にしみいってくる。


やがて嗚咽も納まり、広子はさゆりの胸にもたれながら囁くように言った。


「温かい・・・。

さゆりちゃん、いい・・・匂い・・・・・。

うふっ、ごめんなさい・・・・。

私・・・子供みたい・・・・」


さゆりは何も言わず、広子の柔らかい髪をもてあそんでいる。


「でも、このツアーに参加してよかった・・・・。

好きよ・・・さゆりちゃん」


広子は顔を上げさゆりの瞳を見つめた。

美しい唇が母のように微笑んでいる。

広子の潤んだ瞳がさゆりをジッと見つめてくる。


「広子・・・さん・・・」

まつ毛が涙で濡れ、口唇から白い歯を覗かせ、妖しさを漂わせていく。


ゆっくり、広子の顔が近づいてくる。

さゆりは見つめられたまま、身体が痺れ胸の動悸が高鳴るのを覚えた。


「さゆりちゃん・・・」

広子はさゆりの柔らかい頬を、しなやかな指で包み込みながら顔を寄せた。


二人は見つめ合いながら、うすくまぶたを閉じた。

唇がそっと触れ合った。


さゆりにとって、殆どファーストキスに近いものであった。

だが、その柔らかな感触から逃げる事が出来なかった。


触れ合ったまま、二人は互いの香りに酔いしれるように暫くジッとしていた。

顔を離し見つめ合ったまま、二人は切ない息を吐き、さゆりは広子の胸に抱かれた。


静かな時間が流れていく。

今度は、さゆりが広子の温かさを感じていた。


(ああ・・・・あたたかい・・・。

私・・・すごい・・・キス、しちゃった。

でも、気持ち・・・良かった・・・)


「さゆりちゃん、ごめんなさい・・・。

でも、好きよ・・・。」


もう一度顔を起こし見つめ合った時、さゆりの携帯電話が鳴った。

慌てて我に返り、広子から離れると、あたふたと電話を開いた。


「もしもし・・・えっ・・・は、はいっ・・・わかりました・・・

。すぐに行きます。

507号室・・・ですね?」


広子は心配そうに見つめている。

さゆりは部屋のカードキーを取り出しながら言った。


「山本さんの部屋のお風呂がお湯を出しっぱなしにして・・・・

カーペットに漏れちゃったんですって・・・・。


私、行ってきます・・・。

たぶん、時間がかかると思いますので先にお休みになって下さい」


さゆりは駆け出してドアの向こうに消えてしまった。

残された広子はふっとため息をつくと、笑みを浮かべてウイスキーのグラスを取り、外の景色を眺めた。


窓に写る広子の瞳が、潤んで小さな光をいくつにも分散させている。

フィレンツェの1日目の夜が、妖しく更けていった。

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