6 三人の軍隊

 居酒屋は盛時をむかえた。盃がぶつかり、笑い声が絶えない。音のひどくはずれた歌声があがり、褌一丁で踊っているものもいる。そこらじゅうから紫煙がのぼり、料理や人の湯気と混じって店内はかすんでいた。

 入り口の戸が開き、表の雨音がもろに響いた。

 泥水に汚れた足が、店の灯りに浮かびあがる。一方の足はすり切れた草鞋を履いているが、もう一方は裸足だった。

 足は水音をたてて店に入ってきた。ふいに店の喧騒がやむ。嘲笑まじりのヒソヒソ声がした。

 足は店の中ほどで止まった。裸足のほうの足が、反対の足を掻く。

 奥の暖簾を分けて、店のオヤジが出てきた。いらっしゃい、と言いかけたが、しかめっ面になった。「またおめえか」

 店にやってきたのは、酒臭い男だった。ぼろぼろの段袋にぼろぼろの脚絆を巻き、百姓ふうの上衣ボロを着ている。肌は酒焼けが染みついたように赤黒い。縦長の顔には無精髭が生い茂っていて、目はいまいち焦点があっていない。口元にだらしのない笑みを浮かべている。歯は何本かなかった。

「酒をくぇ」男がいった。ろれつが回っていなかった。

 オヤジは大きく鼻を鳴らした。「ふざけろ、カラッケツのくせしやがって。俺は神や仏じゃねえんだ。呑みてえならゼニこさえてから来やがれってんだ」

「たのむよ、オヤジ」男がいった。微笑みを浮かべる。ゆっくりと、言葉を選ぶようにして、「一杯だけで、いいんだ。じき、返すから」

「おとといきやがれ」

「おう、オヤジ」アル中男の左後ろに坐っていた人夫が声をかけた。意地の悪い笑みを浮かべている。「呑ませてやれ、俺が払ってやるよ」

 アル中男がよろめくように振りかえった。「ありがてえ」

「いいってことよ」人夫は巾着から銅貨を抜きとった。「ほらよ」投げる。

 銅貨は痰壷の中に落ちた。人夫たちが嘲りの笑い声をあげる。アル中男は壺の中を見つめた。茶色い粘液が半分ほど溜まっている。

「どうしたよ、たそがれ呑兵衛」べつの人夫が囃した。「おめえのゼニだぜ? 取れよ、取れったら」

 アル中男は人夫たちのほうに向きなおり、笑みを作った。情けない笑みだった。膝を折ってかがみ、左手を痰壷のほうに伸ばす。

 と、誰かが痰壷の口に足をおいた。革靴だった。見上げる。

 茂木だった。アル中男を見つめている。怒りと哀しみの混ざった目だった。鼻から息をつき、ゆっくりと首を振った。

 アル中男は言葉を失った様子だった。

 人夫たちが机を叩き、立ちあがった。アル中男をはね飛ばし、茂木をとり囲んだ。各々が顔を近づけ、興奮で荒くなった鼻息をのっぽの伊達男に浴びせかける。

「おう兄ちゃん」背の低い人夫がいった。「何してくれてんだ」

 茂木は微笑んだ。「何って」平然とした声で、「痰壷に足かけただけだが」

「わけわかんねえこと言ってんじゃねえよ」のっぺりとした顔の人夫がいった。

「そんなクズになんか優しくしてやるな」と、馬面の人夫。「クズをクズ扱いして何が悪い? なんか文句あんのか」

「それとも何か、キチガイ」と、再びのっぺりした人夫。「喧嘩売ってんのか?」

「売った?」茂木が訊ねかえした。「俺が喧嘩売った?」唇をめくりあげ、犬歯を覗かせる。低く、呻くように笑いだす。「俺は喧嘩売ってねえさ」

「はあ?」

 痰壷から足をおろす。「いいかモグラ《ドカタ》ども、俺はな」壺に痰を吐きすてる。「買ってやったほうなのさ」

 のっぺり顔の人夫は歯を喰いしばった。隙間から、引きつった声を洩らしている。飛びかかろうとする。が、脚だけが前に進んだ。上体はついてこない。

 書生ふうの若者が、のっぺり顔を羽交い締めにしていた。

「やめろ!」書生がいった。

 すぐにほかの人夫が二人で引きはがした。両腕を固める。

 のっぺり顔はうしろを振りむいた。毛が逆立たんばかりに目を剥いている。懐から短刀を抜き、身体ごとぶつけるようにして書生の鳩尾を突いた。若者は崩れおちた。次いで茂木のほうに向きなおる。右足で床を蹴り、飛びかかろうとする。

 茂木の腰元で火が噴いた。鉛の拳はのっぺり男の歯を砕き、喉を喰い破った。仰向けに吹き飛ぶ。

 人夫の仲間たちが息を呑んだ。目は仲間の死体をちらりと見てから、伊達男のほうに移った。

 茂木はかれらを見て、薄笑った。「ひとごろしをひとごろし扱いして何が悪い?」笑みは口元だけだった。目は沈んでいた。

 人夫どもは異様な大男に目を向けたまま、そそくさと去ろうとした。茂木はそれを呼び止めた。

「ちょい待てちょい待て」足元の痰壷を拾う。オヤジの前まで進み、目を合わさずそれを差しだす。「水を、こいつに入れろ。半分ほどな」

 オヤジは震える手で壺を受けとり、甕から水を入れた。人夫どもは何も言わず止まっていた。揺れる息づかいだけが聞こえた。オヤジが戻ってきた。

 壺をとって、背の低い人夫に向ける。「ゼニを忘れてるぞ」

「あ、ああ」背の低い人夫は笑みを作った。「すまねえな」そっと茂木に近よってゆく。壺の中に手を入れようとする。

「おっと」茂木は壺を肩の上あたりまで上げた。首を振る。「手で取るのはやめとけ。ばっちいぞ」

「そ、そうだな」小柄な人夫は短く笑った。オヤジのほうに首をまわし、「おい、箸かなんかくれねえか」

「いや、その必要はねえ」茂木はいった。壺を人夫の顔のあたりまで下げて、「呑め」

「へ?」

「呑むんだよ」抑揚のない声だった。「手いれるのはまずい、病気になってしまう。口から出たものだ。呑んでもどうってことないはずだ」壺で人夫の顔を小突く。「そら、呑めよ。酔い冷ましにちょうどいいぜ」

「い、いや、遠慮さしてもらいやさあ」

「遠慮なんかするな。おごりだ」さらに壺を押しつける。「それとも、鉛漬けのほうがよかったか?」人夫の胸に銃口をあてがう。「おっ死ぬくらい旨いぞ」

 人夫は生唾を呑んだ。細かく震える手で壺を持ち、胸の前まで下ろす。目がちらりと下がる。壺の中身は、茶色く濁っていた。表面には食いカスや油のようななにかが浮かび、てらてらと光っていた。顔が引きつりきって固まる。歯の隙間から浅い息が洩れる。ためらいがちな目で茂木を見あげて、壺を持ちあげた。勢いよく中身を口に運ぶ。口の端から汚水が垂れる。

「そうだ、呑め呑め」茂木は口角を歪めた。目は悦んでいる。左手で痰壷の底をおさえ、角度をつける。「いい呑みっぷりだ。ぜんぶ呑め」

 人夫は目をつむり、荒々しく鼻で息していた。嗚咽を洩らすのと同時に、口から液がたくさんこぼれた。顔は苦しげで、だんだん紫色になっていた。目尻には涙が溜まっていた。それでも茂木は壺の底をおさえていた。声のない笑いを洩らしていた。

 やがて、口から汚水が垂れてこなくなった。茂木は手をはなした。人夫は身体を前に折り、咳込み、反吐をはいた。膝から崩れ、四つん這いになった。鼻水とヨダレが床に滴り落ちる。むせび泣きだした。

 茂木は二歩ほど離れていた。顔をしかめている。ほかの人夫が、這いつくばる仲間を引きずっていった。

「さて」茂木は振りかえった。アル中男に目を合わせ、微笑む。「久しぶりだな〈碇屋の荊蔵ばらぞう〉」

 アル中男は口をぽかんと開けたまま茂木を見つめていた。目に光が灯ってくる。懐かしげで、恍惚とした光だった。口角がゆっくりと吊りあがってゆく。小さくかすれた声で、「兄貴」

「こっちこい」手招きする。「おごってやろう」

 店の右隅にある席に向かう。木吉のカズもいた。隠しきれない嬉しさが、笑みとなってこぼれていた。カズは手をあげて挨拶した。荊蔵は軽くうなずいてこたえた。夢か現かわからない、といった表情だった。

 茂木は椅子代わりの空桶を引いてやった。「さ、ここ坐れ」

 荊蔵は会釈して腰かけた。茂木はその隣に坐った。オヤジに酒を持ってくるよう言いつける。

 荊蔵の目は落ち着かないようすだった。しきりに隣と向かい側の男にまなざしを配っていた。「あー」口を開く。うまく声が出なかった。唇を結び、舌で湿らせてから声を絞りだす。「兄貴……あの」

 オヤジが駆け足で酒を運んできた。

 茂木は左手で徳利を受けとりながら右手をヒラヒラと振った。「ああ、ありきたりな仁義は抜きだ」右手で盃を持ち、酒を注ぎ、隣にわたす。「まあまずは呑め。それからだ」

 荊蔵は盃を受けとった。が、呑まなかった。うつむき、酒に映った天井の洋燈の光を見つめている。手が震えていた。

「どうした、義兄弟きょうだい」カズが訊ねた。「呑みねえ呑みねえ、兄貴の酒だぜ?」笑顔がすこし陰る。「呑めねえってのか」

「そうじゃねえんだ」うつむきながら首を振る。「そうじゃねえ」

「じゃあなんで呑まねえんでえ」

 荊蔵は顔をあげた。盃を置き、茂木の顔を見る。哀れっぽい目だった。かしこまった声で、「兄貴、あっしの所においでなすったってことは、また一旗揚げようってんでしょうが」右手を持ちあげる。小刻みに震えている。「見てくだせえこいつを。酒が入ってなきゃこうなっちまう。もう血が酒になっちまったんだ」手を下げ、頭も下げる。顔に力ない笑みが浮かぶ。「覚えてやすか? あっしは紙で煙草を巻いて喫るってな、キザな特技がありやした──ありやしたが、もういまじゃ、そんなことできねえ。紐すらまともに結べねえ。ましてや、鉄砲なんて──」

「荊蔵」茂木がさえぎった。

「へ?」荊蔵は顔をあげた。

 茂木は両手をのばし、弟分の手をつかんだ。柔らかく包み、胸のあたりまで上げる。「俺はおまえに来てほしいだけだ。手が震えるのなら、俺が煙草を巻いてやる。銃は撃てなくたってかまわん。もちろんタダとは言わん、一千圓の大仕事だ。どうだ、付いてきてくれないか」

「兄貴」

 荊蔵はつぶやいた。瞳と唇も震えだす。口を結んでうなずく。やや乱暴に茂木の手をほどくと、盃を持ち、一息に呑み干した。顔を心地よくしかめ、歯の隙間から声を洩らす。音を立てて酒盃を置き、兄貴分のほうに身体を向けた。

「兄貴」はっきりとした表情で微笑む。「どこまでも、お供させていただきやす」

「ああ」茂木はやさしく微笑んだ。

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