5 三人目

 料亭〈風林亭〉の門には〈本日貸切〉という貼り紙がはってあった。店の奥、一等いい部屋だけが賑わっていた。存曽奈県を占めている、森田三十二もりたみそじとその子分たちが、酒宴をもよおしていた。

 やくざたちの笑いを誘っているのは、部屋の中央の二人──芸者と幇間だった。幇間は、身の丈六尺はある大男だった。がっしりと締まった身体つきをしている。顔に白粉を塗りたくり、頬と鼻に薄く紅をつけ、薄茶色の女物の着物を羽織っている。右手に三尺ほどの竹棒、左手に扇子をもち、侍の真似ごとを滑稽に演じている。

 侍は、肩に竹棒を担いだ芸者を見つける。下卑た笑みを浮かべ、舌舐めずりして言いよろうとするが、女はそっぽを向いて取りあわない。ちょこまかと動き、何度も声をかけるが、相手にされない。

 とうとう怒った侍は地団駄をふみ、刀を振りかざして斬りかかろうとする。が、女は避け、ぶざまに転げる。それでも立ちあがり、ふたたび斬ろうとする。と、芸者は肩に担いだ竹棒の先を侍に向け、ダーン、と声をあげる。

 侍は竹棒を落とし、くるくると回って、仰向けに倒れた。

 戊辰の戦さを模しているらしかった。芸者は幇間の腰のあたりに足をおき、「思い知ったか朝敵め」といった。

 笑い声と歓声、拍手がおこった。

 幇間がむくりと起きあがった。両拳を床につき、下半身をひるがえして正座の姿勢になり、深々と頭をさげた。「いやいや、お粗末さまでござんした」

「おまえも良かったぞ、寅吉」森田がいった。ウナギの化物のような顔をした男だった。

「へへっ」もういちど頭を下げ、顔をあげる。満面に笑みを浮かべ、「ありがたきお言葉」また頭を軽く下げる。「しかし、ひとつ申し上げたいことが。じっさいでは、戊辰の戦さ、幕府方は兜に甲冑、槍・刀というわけではなく、仏蘭西式の──」

「ああ、いらんいらん」森田は顔の前で左手を振った。渋い表情で、「おまえの言うことはわけがわからんし、つまらん。さっさと下がって、その小汚ねえツラ洗ってこい」

「こ、こりゃあ」あわてて額を床に当てる。「とんだご無礼を」

 森田の傍から、男が声をかけた。芸者をふたり侍らせた色男だった。

「わかったら──」猪口を投げる。「とっとと下がれや乞食野郎」

 猪口は幇間の額に当たった。傷になり、血がにじみ出る。

「へえ」幇間は顔をあげた。へりくだった笑みを浮かべている。「では」

 膝を床につけたまま、うしろに下がってゆく。襖を開け、廊下に出ると、また深々と頭を下げた。両手で静かに仕切りを閉じる。

 血が、唇のあたりまで垂れてきた。幇間はそれを舐めとると、立ちあがり、唇を動かして、床に吐き捨てた。表情から、へりくだりの色が消えていた。吊りあがっていた口角が垂れさがり、目には行き場のない憤りが浮かんでいる。口から息をつくと、控えの間に向かった。

 控えの間──という名目の、物置部屋──には、格の高くないやくざどもがたむろしていた。野郎どもの熱と体臭が充満し、煙草の煙が霧のように立ちこめている。兄貴分のを肴に、自分たちで買ってきた安酒をあおっている。所々で、花札やサイコロの即席賭場があらわれていた。

 幇間──茂木寅吉もぎとらきちは、その部屋の隅、古く、薄汚くにごった鏡台の前に腰を下ろした。化粧箱を引き寄せる。中からボロ布を取りだし、荒っぽく顔をぬぐいだす。

 横から声がかかった。「よっ、寅吉っつぁん」

 だらしのない顔つきをした中年男がやってきた。頬と耳の先が赤く、酒臭い。手には徳利と猪口を持っている。茂木の隣にどっかりと坐った。

「どうでえ、景気は」酒をそそぐ。

「良くねえ」茂木はこたえた。

「そらそうだ」顔をあげ、酒を干す。「今日びはどこも──ん?」額の傷に気づいて、「どうしたんでえ、その傷はよう」

「林蔵だ」首筋をぬぐいながら、「猪口をぶつけられた」

「またあのガキか」男は吐きすてるようにいった。「たしかにいけ好かねえガキだが、どうして寅吉っつぁんばっかし」

「チビだからだろ」茂木は鼻を鳴らした。「俺のタッパを妬んでやがんだ」

「難儀だな、寅吉っつぁんも」

「お互い様だろ」茂木がいった。「とっつぁんはずっと三下、俺も十五年、男芸者だ」首まわりをこすり続けながら、「ことに、とっつぁんは、瓦解前まで同心だったってえじゃねえか。それがずっとやくざの三下だ。まったく、ままならねえな」短く笑う。乾いた響きだった。

「同心も三下も変わらねえよ」男も力なく笑った。首をふり、酒をそそぐ。「それはそうと、寅吉っつぁんは、瓦解前はなんだったんでえ? そういや訊いたことなかったな」

「忘れたよ」抑揚のない声だった。「もう大昔の話だ。忘れちまったよ」

「それが一番だ」男はうなずいた。ひと口呑んで、「忘れちまうのが一番だ。俺ももう、刀の重さなんざ忘れちまった。ありゃ枷だったな、一種の」

 即席賭場のほうから声がかかった。

「やめろやめろ、辛気くせえ!」

 二人は振りむいた。花札をしている一団が睨んでいた。

「あ、こりゃすいやせん」中年男が謝った。

「乞食どもが」髭面のやくざがいった。「せっかく勝ってるってのに、運が逃げちまわあ」

「こっちは景気のいい話をしてんだ」ダルマのような大男がいった。「不景気な話はよそでしろってんだ」

「へ、申し訳ありやせん」中年男は情けない笑みを作り、頭をさげた。

 やくざどもは花札と話を続けた。

「まったく、なんであんな乞食がいるんだか」

「戦さに負けて扶持無くして、よくもまあ、おめおめと生きてられるもんだ」

「ああいうのがいるから景気が悪くなっちまう」

「へっ、乞食に景気の良し悪しがわかるかってんだ」

「一〇万圓の値打ちもわかるめえよ」

「ちげえねえ」

 笑いが起きる。

 茂木が手を止めた。つぶやく。「一〇万圓?」

「よせよせ」中年男がささやいた。「俺らが首つっこめる話じゃねえよ」

「どんな話だ?」茂木が訊ねた。目には光があった。

 中年男は背後を見てから、茂木に顔を近づけた。口元に右手をそえて、「昨日だ、森田親分が〈蒲生屋〉の大旦那のところで聞いてきたって話だがな──なんでも、伊村ナントカって野郎をふん捕まえたら、褒美に一〇万圓いただけるそうだ。だが、こういう話は俺ら三下ごときが絡めるもんじゃねえ。勝手に離れることも許されてねえんだからな」

「そらホントか?」

「ホントだ。親分が言ってんのを聞いた」

「なるほど」茂木がいった。口元に自然な微笑みが浮かぼうとしている。「しかしだ、一〇万だぞ? いい響きじゃねえか」

「莫迦、やめとけって。袋叩きにされんのがオチだ」

「だが、考えてもみろよ、とっつぁん」茂木も顔を近づけ、「一〇万だぞ、一〇万! そんな大金がありゃあ、もう莫迦にされなくて済むんだ。ヘコヘコ媚びへつらって、なんとか食えるかどうかのお情けをいただくような、しみったれた生活からおさらばできるんだ。もういちどやり直すことだって、夢を見ることだってできる額だ。ほらじゃねえんだろ? ホントなんだろ? だったらタマ張る値打ちはあるぜ? もちろん俺は張るつもりだ。ここで張らなきゃ、死んでもこのままだ。そうだろ?」

 中年男は、哀れっぽい目で幇間を見つめたまま黙っていた。やがて、唇の間から息をついた。

「若いな」うつむいて、首を振る。「俺には、寅吉っつぁんみてえな気力は、もう残っちゃいねえ。くすぶってたモンも、もう消えちまった。行くんなら、手前だけで行きな。俺はもう、老いすぎた」

「そうかい」茂木がつぶやいた。。眉間にしわがよる。歯を噛みしめ、ボロ布を床に投げる。化粧箱の中身を掘りかえしはじめる。「だったら俺は行く。とっつぁんみてえに、死んで生きるのはゴメンだからな」

 さまざまな化粧道具や着物が放りだされてゆく。板が見えた。両手でつかみ、それを引っぺがす。口角が吊りあがり、犬歯がのぞく。

「さあ起きろ。目を覚ませ。ひさびさに仕事だぞ」箱の中に手をつっこみ、引きだす。桜の紋様が施された拳銃──コルトM1851ネイヴィー──だった。ひとつだけではない。二つ、三つと取りだしてゆく。どれも油の臭いがした。「原、村瀬、辻村──また働いてもらうぞ」帯に三丁、懐に二丁押しこみ、一丁は手元に残しておく。

 中年男は唖然とした目で見ていた。「寅吉っつぁん、そりゃあ……」

「とっつぁん」茂木がいった。目は据わっている。「ちょいと行ってくら」

 中年男は、うなずくだけだった。開いた唇は、わなわなと震えている。

 茂木は親指に紅をとり、目の下、隈に沿って線をひいた。

 やくざたちは気にも留めず、博奕に打ちこんでいる。

 茂木は立ちあがり、ふたたび座敷に向かった。口元は、凶々しく吊りあがっている。

 廊下は暗かった。茂木の目と、右手の拳銃だけが光っている。

 笑い声が近くなる。

 舞うように身体をくねらせ、回し、足を踏み鳴らす。

 座敷では、林蔵が芸者にちょっかいを出していた。

 なめらかに手を伸ばし、帯の拳銃を二丁、傍の花壺に隠してゆく。

 森田と子分たちが、腹を抱えて笑っている。

 口笛が鼻歌になり、座敷が近づくと、声に出しての口ずさみになった。


 高砂や この浦舟に帆を上げて

 月もろ共に 出汐の

 波の淡路の島影や

 遠く鳴尾の 沖こえて

 はや住ノ江に つきにけり


 座敷の前につく。中のだれかが気づいた。襖が開こうとする。

 恍惚とした表情で、最後の一節を歌いあげる。


 はや住ノ江に つきにけり


 襖が開く。薄っすらした口髭のやくざが顔を出す。その目に、八角形の筒が写った。橙色の光が飛び散った。

 薄口髭のやくざが吹き飛んだ。手は最後まで、襖を開けようとしていた。

 お囃子が止まり、まなざしが集まる。

 入口には、幇間が立っていた。

 腰を落として拳銃をかまえ、口元には憤りと喜びの入り混じった笑みを浮かべている。目は笑っていなかった。

 撃鉄に左手をすべらせる。銃口が連続して火を噴きだす。

 森田の胴体に、三つ穴があいた。顔に戸惑いを浮かべ、血を噴きながら倒れてゆく。

 銃声は止まらない。残りの二発は森田の左側にいた二人を殺した。

 弾が切れる。帯からすかさず一丁取りだし、撃つ手を止めない。

 芸者たちが叫びながら倒れ、飛びかかろうとするやくざが後ろに吹っ飛ぶ。

 茂木の顔から笑みは消え、無感動になっている。銃は鉛玉を吐き続ける。屏風絵は紅く鮮やかに染まり、膳には生肉料理がならぶ。殺しは平等だった。男も女も虫の息になっている。

 座敷の中ほどまで進む。呼吸はとくに平静だった。

 茂木の目が、床を見下ろした。林蔵はまだ生きていた。腿に花が咲いている。芋虫のように這って逃げだそうとしていた。

 茂木はゆっくりと撃鉄を起こし、芋虫を撃ち殺した。

 森田のほうを向く。存曽奈を占めるやくざは死んでいた。撃鉄を起こし、最後の一発をその額に撃った。

 死体に向かってつぶやく。「世話になったな」

 廊下に出ると、控えの間から子分どもが走ってきた。血まみれ姿でうっとりと立っている幇間を見て、あわてて止まる。

「な、何があった!」先頭のひとりが訊ねた。花札のやくざだった。

 茂木はこたえずに、歩きだした。やくざどもがじりじりと退いてゆく。

「言え!」やくざがいった。上ずった声だった。「なにがあったんでえ!」

「なあに」茂木がいった。顎を上げて上のほうを見る。「礼をいってきただけだ」ゆっくりと、抑揚のない調子だった。「世話になったからなあ」

「なんだと」

「そういえば」花壺の陰から拳銃をとり、顎を下げる。「あんたらにも、ずいぶんと、世話になったなあ」

 やくざどもは息をのみ、立ちすくんだ。

「だ、だったら」太ったやくざがいった。唾を飲んで、「どうしてくれるってんでえ」

「ああ」微笑む。「礼を、いってやるよ」

 立ち止まり、連続して六発、やくざどもに鉛玉を叩きこんだ。先頭にいた五人が、一度に倒れた。

 野太い悲鳴がわき起こった。腰を抜かし、小便を漏らしているのもいた。

「道を開けろ!」茂木が怒鳴った。「男の門出を阻むんじゃねえ!」もう一丁の拳銃を振りかざし、「阻もうって野郎は、どこまで追ってこようがぶっ殺す! まだ弾は残ってるぞ!」

 やくざどもは散りぢりになった。茂木は笑った。大股で、控えの間まで戻ってゆく。

 控えの間には、中年男がひとりだけいた。呆然とした様子で立っている。かつての三下仲間を見る目は、恐怖に震えていた。

「とっつぁん」茂木は微笑んだ。「旅に出る。すこし手伝ってくれないか」

 中年男は震えながらうなずいた。

 化粧を落とし、着替える。替えの服は、洋式の軍服だった。赤い側章が走った濃紺の上下に脚絆ゲートル、革製のブーツを履き、皮帯ベルトを締め、ホルスターをつける。舶来の黒いテンガロン・ハットを被り、上からもともと着ていた着物を、外套マントのようにして羽織る。

 白塗りでなくなった顔は、彫りが深く、魁偉だった。鏡の前で右を向いたり左を向いたり、背中を向けたりしている。表情は、満足げな、懐かしげな様子だった。

「と、寅吉っつぁん」中年男は恐る恐る訊ねた。「こ、これから、ど、どうしようってんだい?」

「うん?」鏡を見たままこたえる。「取り戻しに行くんだよ、来るはずだった、輝ける明日をな」

「そ、そうかい」

「しかしまあ、とっつぁんよ」茂木は振りかえった。近くまで寄り、中年男を見おろす。「あんたには、本当に世話になったな」

「あ、ああ」中年男は笑いだした。とりなすような笑いだった。

「だから、礼を受けとってほしい」静かで、温かみのある声だった。「俺に今できる、精いっぱいの礼だ。受けとってくれ」

「い、いいよぅ」中年男は頬を掻いた。「照れくせ──」

 茂木は、中年男を熱く抱きしめた。覆いかぶさるような形だった。

「よ、よしてくれやい、寅吉っつぁん」中年男がいった。恥じらう色があった。「あんたみてえな好い男に抱かれんのは悪くねえが、俺は見ての通りの呑んだくれジジイだ。家賃が高すぎらあ」

「ありがとよ、とっつぁん」茂木がいった。中年男の肩に顔をうずめている。おだやかな声だった。「本当に、ありがとよ」

 くぐもった雷声がした。中年男が目を剥き、短い嗚咽を洩らした。茂木の手の中からずり落ちてゆく。目は、困惑に満ちていた。膝が床につき、横にうつぶせに倒れた。

 茂木の手は、拳銃を握っていた。銃口から灰色の煙がのぼっている。

 しゃがみこみ、かつての仲間を仰向けにしてやる。右手でその顔を撫で、瞼を閉じさせる。

「これしか、思いつかなかった」茂木がつぶやいた。低く、色気のある声だった。立ちあがり、死体に微笑みを向ける。「じゃあな、とっつぁん。地獄で待っててくれや」

 表に出る。夜の空気の冷たさに目をしばたたかせる。息が白い。辺りを見回す。通りには誰もいなかった。歩きだす。凍って凹凸のはげしくなった地面は、すこし歩きにくかった。

 馬小屋から森田の馬を牽いてくる。飛び乗り、腹を蹴り、一〇万圓が待つところへと駆けだした。

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