第3話  ~「ちいや」というコウモリの話~

昔々その昔、とまでは昔ではないけれど、すこし昔のお話し。


 下の子どもが幼稚園に通い始めた頃。

梅雨の終わり頃のことだったと思います。

その時は集合団地の一階に住んでおりました。団地内には5階建の建物が6棟あって子どもたちのための小さな公園には、滑り台と砂場があって端っこには子どもたちが座れるくらいの小さなキリンの像がありました。


 ある日の幼稚園からの帰り道、自宅の階段下で息子が

「何か落ちとる。」と、小さな黒っぽいモノを拾いました。

「枯れ葉じゃない?」

「動いとる。」


 それは小さなコウモリでした。

子どもの手の平の半分よりも小さなコウモリ。乾いた臍の緒がまだくっついています。薄茶の毛。犬のような顔つき。大きな尖ったよく動く耳。黒っぽい皮膜の羽で繋がった針のように細い手足と尻尾。手足の先には細い細い面相筆でチョンと書き加えたような爪もありました。そして、オスでした。

四方に顔を振って「ちちち。ちちち。」と鳴く口には、これまた小さな牙まで生えていました。


 団地の階段のすぐ上にはお風呂とトイレに続く換気口があって、夕方になるとそこからコウモリが次々に飛び出してくることは知っていました。そこから転げ落ちたのでしょうか?今ではどうやって調べたのか思い出せませんが、おそらく家にあった動物辞典ででも調べたのでしょう。コウモリの子どもは自力で飛べるようになるまでは母親のお腹にしがみついて生活するということでした。

では、換気口に出入りするときに母親から落ちてしまったのでしょうか?

このままにもしておけないので、連れて帰ることにしました。


 「ちいや」と名付けたチビのコウモリは息子の手のひらの上に四つん這いになって首だけを持ち上げ「ちちちち、ちちち。」と鳴いています。

お腹がぺたんこだったので、ミルクをやろうということになりました。

さてそこからが大変です。


 この小さな小さな口にどうやってミルクを飲ませましょう?

スプーンでは大きすぎて無理でしょう。

爪楊枝の先を潰してみましたが、「ちいや」のお気には召しませんでした。

ティッシュペーパーを紙縒りのようにしてミルクに浸してみましたが、縒ったところがほどけてしまって「ちいや」の口まで持ちません。


 娘が綿棒を持ってきました。

これなら!と思いましたが、小さな小さな口には綿棒でも大きすぎました。我が家でこれ以上小さな物も思いつかないので、綿棒の先の棉を巻き付けてある部分を半分ほど引き千切って細くしてみました。

これは成功!

「ちいや」の口に入りますし、ミルクをしっかり吸ってくれます。


 人肌にしたミルクを小皿に移して、小さい綿棒を浸けます。ミルクを吸った綿棒の先を「ちいや」の口元にもっていくと、顔を振りながら「ちちちち、ちちち。」と鳴いて綿棒に勢いよくかぶり付きました。綿棒のミルクはみるみるうちに消え、反対に「ちいや」のお腹がまるく膨らみます。何度も綿棒が小皿と「ちいや」の間を往復しました。


 お腹いっぱいになると、「ちいや」のお腹ははち切れんばかりにまぁるく皮膚は白っぽく見えるようになりました。

人間の赤ちゃんと同じで、牛乳を飲み終わるとゲップをします。その時、いつも鼻の穴からぷひっと牛乳が出てくるのですが。子どもたちはそれが楽しいようでした。


 「ちいや」はお腹いっぱいになると、うとうと眠ってしまいます。

ミルクをやるときは掌に乗せていたのですが、お腹がいっぱいになるとそのまま手の中で寝てしまうのです。気持ちよさそうに寝ている「ちいや」を住処として作っていたハンカチを敷いたお菓子の箱に返すのも忍びなく、「ちいや」が起きるまでそのまま握っていることが多かったです。


 この「ちいや」を握ったままというのが子どもたちのお気に入りで、競争のようにミルクをやりたがりました。子どもの手は体温も高くすぐに汗ばみます。梅雨のころのことで、子どもの手の中で「ちいや」の薄茶の柔毛は汗で濡れてしまいます。濡れると「ちいや」は一人前に獣の匂いがしていました。


 この頃「ちいや」は子どものせいか後足の爪で逆さまにぶら下がることはありませんでした。いつも体のわりに大きい前肢の爪で床を引っ掻けるようにして四つ足でのそのそと歩いていました。コウモリの子どもはさほど動くこともなく、まだ飛ぶこともなく、子どもたちの手のひらか机の上を歩き回るか、住処の箱のなかでおとなしくしていました。

この頃の子どもたちのお気に入りの遊びは、家族の背中にくっついて両肩に指一本でしがみつき、「ちちちち!」と鳴き真似をする「ちいや」ごっこでした。


 8月に入った頃から「ちいや」は後足でぶら下がるようになりました。

ミルクのあと「ちいや」は自分で向きを変え子どもの指に後足でぶら下がるのです。子どもたちはクッションや本に手首をのせて、「ちいや」が気のすむまでぶら下がれるように頑張っていました。


 その頃、そろそろ離乳食ではないかと言うことで、ササミを細かくして口に持って行ってみましたが、「ちいや」は食べません。それならと、息子が虫取網を片手に草むらに向かいました。網のなかに入った羽虫をピンセットで「ちいや」の口許に差し出します。毎日毎日子どもたちは虫取りをしましたが、「ちいや」が虫を食べたのは三度ほどで、相変わらず牛乳でお腹を満たしていました。


 お盆になり田舎に帰省することになりました。

もちろん「ちいや」も一緒です。

「お泊まりセット」付きでコウモリを連れて帰った孫たちに、義両親はそれはそれは驚きました。義母は動物が好きではないのですが、孫が嬉しそうに「ちいや」を紹介してミルクを飲ませてみせると、笑顔になりました。


 その日も夜暗くなるまではいつもと変わりはありませんでした。

それが夜になり寝る頃になると「ちいや」は今までになく落ちつきがなく箱の中でガサガサとして外に出たがりました。

窓の外ではコウモリが飛び交い、「ちちちち!」というより「かかかか!」という音を立てていました。


 箱から抜け出した「ちいや」は家族分並べている布団の上を、今まで見たことのないスピードで走り回り、ぴょんぴょんと飛び回ります。

私たちは驚いて部屋の明かりをつけて「ちいや」を追いかけました。

窓の外でコウモリの声が聞こえなくなったとたん、「ちいや」はいつものように落ち着いた様子になりました。

そろそろ独り立ちかもしれないねと、家族で話してその日は休みました。


 翌日の夜。

ついに「ちいや」の独り立ちの日がやってきました。


 この日も夜になって窓の外にコウモリたちが飛び回り、「かかかか!」という声が聞こえ始めると「ちいや」は昨晩と同じように布団の上を高速で走り回り始めました。

子どもたちとも、もう空に返してやろうねと話し合っていましたのでカーテンを開けました(当時は網戸はなかった)。

「ちいや」は迷うこともなく、窓の外へと飛んで行ってしました。

明け方帰って来るかもしれないと期待していましたが、そんなこともなく今日に至っています。子どもたちは「ちいや」は田舎の言葉がわからないかもしれないと心配していましたが大丈夫だったのでしょう。


 そんなことがあってから、梅雨の時期になると換気口の下を気にしていますが、もうコウモリの子どもが落ちていることはありませんでした。



はい

 これでお話は お し ま い。


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