第二十二章 さようなら

男の子が庭の芝生で寝転びながら、おもちゃで遊んでいる。

ビー玉を使ったおもちゃを口で効果音を出したり、セリフを言ったりしている。


高く幼い声が、かわいらしかった。

母親がその傍らで洗濯ものを干している。


束ねられた髪と白いうなじが、きれいだった。

自分の好きな唄を鼻歌まじりに口ずさんでいる。


ひとみは向かいの家の植え込みから、身を潜めるようにして眺めている。

心の中は後悔の念でいっぱいであった。


どうして、ここにいるのだろう。

自分は何をしたいのであろうか。


このささやかな幸せを享受している二人の運命を自分は握っている。

最後のカードを使ってしまったら、二人はどうなってしまうのだろう。


当たり前の事なのだ。

明らかな事なのだ。


自分は若い。

別の恋を探せばいいのである。


人生の重い十字架を背負ってまで、貫く恋なのだろうか。

かわいい幼子から、父や母を取り上げる事など出来るはずはない。


父を亡くした悲しみは、痛いほど知っている。


思い出にすればいい。

人生の大切な想い出に。


会社を辞めようと思った。

このまま青井と仕事をしていけば又、感情が吹き出すに決まっている。


母の店を手伝おう。

いつも言われていたではないか、一緒に・・・と。


青井には、はっきり言おう。

やはり、無理だと。


どんなに愛していても、ダメなのだ。


先に男は妻と出会った。

ひとみとは遅れて出会ったのだ。


「好き」と言ってくれた。

「愛している」と言えた。


それで十分なのだ。


男の匂いを想い出に人生をやり直そう。

青井ならきっとわかってくれる。


(でも・・・)


涙が溢れてくる。

さっきあんなに泣いたというのに。


ひとみは力なくしゃがみ込んでしまった。

もう会えなくなるのだ。


キャッチボールのような楽しい口喧嘩も、しみ込むような優しさも、胸をふるわす憧れも、全て無くなってしまうのだ。

この世でただ一つの恋など存在しないのであろうか。


自分はこれからの人生で他の男を愛せるというのか。

出来やしない、したくないと思った。


もう一度、せめてもう一度、男の匂いを確かめたかった。

熱い思いを唇に託して男に送り込みたかった。


植え込みの葉っぱを握り締め、手の中で砕いていく。

忘れようとした感情が再び沸き起こってくる。


帰らなきゃ、早く帰らないと、どうなってしまうか判らない。

ひとみはヨロヨロと立ち上がり、後ろを向いた。


すると目の前に大きな胸があった。


「どないしたんや、こんなとこで・・・?」 

青井が目の前に立っていた。


しゃがみ込んでいる、ひとみを心配して見ていたのだ。

ひとみは顔を真っ赤にして立ち去ろうとした。


青井は女の細い手首をつかんで言った。


「おい、待てよ。

本当に、どないしたんや?」

 

ひとみは無言で必死になって、その手を振り解こうとしていた。

男の胸を小さな手で叩いている。

男はその手をつかむと、ひとみを引き寄せようとした。


「いやっー、は、はなして・・・。

だめー、もう、だめなのぉ・・・」


女は涙を溢れさせて力なく抵抗している。

男は女の涙に戸惑いながらも、震える肩を抱き寄せた。


男の匂いに包まれる幸せを感じながらも、ひとみは尚も逃げようとする。

その時、庭で遊んでいた幼子が二人を見つけた。


「あっ、おとーちゃんや・・・。

あれっ、あの女の人、誰やろ・・・ママァ?」


母親はいぶかしげに二人をながめると、驚いて言った。


「まあ、もしかして・・。

ひとみさんやないの、どうしたんやろ?」


男の子は母親の言葉に、喜んで叫んだ。


「やったー、ひとみねーちゃんや。

おとーちゃーん・・・」


ひとみは勇太に見つかったのがわかると、ますます顔を赤くした。

もう逃げるのはあきらめた。


母親がおずおずと男に言った。


「そんな所におらんと、

中に入ってもろてーな、お兄ちゃん・・・」


「おお、そうするつもりなんやけどぉ・・・」


男が照れながら、白い歯をこぼした。

ひとみは男の腕の中で一瞬、身を固くした。

 

(えっ・・・お兄・・・ちゃん?)


母親は、幼子と庭から出てきて言った。


「もう、お兄ちゃんったら、

こんな可愛い人、泣かして何やってんのよ・・・。

ごねんなさいね、ひとみさん・・。

兄が何かしました・・・?」


ひとみは慌ててハンカチで涙を拭うと、青井の服の袖を引っ張って言った。


「あのぉ・・・もしもし?

お兄・・・ちゃんっ・・・て?」


男は不思議そうに、ひとみを見て言った。


「兄ちゃんは、兄ちゃんやないかぁ、

美都子は俺の妹やもん・・・。

けったいな、やっちゃなぁ・・・」


ひとみはようやく事態が飲み込めたのか、顔をさらに赤くして言った。


「でも・・・勇太君、あの・・・

お父ちゃんっ・・・て・・・」


「まーまー、

こんなところで話していても何ですから、

家に入って下さいよ・・・」


美都子がそう言うと、勇太が小さな手でひとみの手を取り、ぐいぐい引っ張る。


「そーや、早よー、行こー・・・

お姉ちゃん」


夏の日差しが眩しく照り返し、洗濯物の白さを強調していた。

今日も良い天気、である。


※※※※※※※※※※※※※


テーブルにつっぷして、男は苦しそうに笑っている。

肩が小刻みに震え、嗚咽をあげて、まるで泣いているようにみえる。


ひとみは耳元まで顔を赤くして、下を向いている。

美都子は眉をひそませて、厳しい口調で言った。


「もー、お兄ちゃん。

そないに笑ろたら、

ひとみさんが、かわいそーやろ・・・。

あっち行って、勇太と遊んでて下さい」


男が勇太につれられて隣の和室に消えると、美都子は優しい口調で言った。


「本当にごめんなさいね・・・・。

無理もないわぁ・・ご近所でも、うちら、

本当の家族と思われとるもん・・・」 


「はー、そ、そうですかぁ・・・」

ひとみは、アクセントが移りそうになって言った。


「うちの人が一年間ロサンゼルスに単身赴任したんで、

兄が転勤してきた時ちょうど女、子供だけやと不用心やいうて、

一緒に住んでもろたんです。


兄もあの年やし、ほとんど結婚は諦めてたみたいで・・・・

勇太の事、自分の息子のように可愛がってくれて・・・。


そやけど、うちの人がパパって呼ばれているから、

自分の事はお父ちゃんって、呼ばせていたんです。


勇太も寂しかったんやろね、

すぐ本当の父子のようになついて・・・。


そんでもパパってゆうたら、うちの人に悪いっていうて・・・。

そうやねー・・・・やっぱり、誤解するやろなあ、

他人さんはぁ・・・。


顔かてそっくりやし、私の血をひいたんでしょうね、

男の子は母親に、似るゆうしぃ・・・」


ひとみは居たたまれないはがゆさに、モジモジしている。

頭の中は沸かしたてのお湯のように沸騰していた。


何が何だかわからなかった。

ただ言える事は自分一人勘違いをしていて、ここ数ヶ月程、言い知れぬ不安の中に身を沈めていたことだった。


だんだん落ち着いてくると、何だか無性に腹がたってきた。

人が死ぬほど思いつめていたのに、男は腹をかかえて笑っていたのだ。


自分のさっきまでの決意は何だったのだろう。

すると勇太がこちらへ来て、小さな手でひとみの手をとった。


「おねーちゃんも遊ぼー・・・。

あっち、いこー・・・」


ひとみは和室に行くと、青井と目が合った。

男は照れくさそうに鼻の頭をかいている。


ひとみは言いたい事が山程あるのだが、あり過ぎて言葉にならなかった。

そのかわり、憎らしい腕を思いっきりつねりあげた。


「いたー・・な、何、すんねん?」


男は目をつぶって痛がっている。

勇太はそれが遊びだと思ったのか、キャッキャッと声をあげて参加してきた。


「よーし、勇太君。

くすぐっちゃおうー・・・」 


ひとみが悪戯っぽく言うと、二人で男をくすぐり始めた。


「や、やめーて・・・な、何すんね・・・。

ガハハハ・・・そ、そこは・・・

イ、イカン・・・て・・・」


男は身をよじって笑っている。

幼子は余程楽しいらしく、男の上に乗っかかり、一生懸命くすぐっている。


「よーし、もう怒ったぞー・・・」

男は二人を両腕にかかえると、思いっきり抱き寄せた。


男の子はキャッキャッ言いながら、腕にからまっている。

女は男の腕の中で、静かになってしまった。


男の子が男の腕からスルリと抜けると、母親の元へ逃げていった。

母親の後ろに隠れて男を待っている。


しかし、男は出てこなかった。


もう一度戻ろうとすると、男の子をつかまえて、美都子は人差し指を唇に当てた。

そして、静かに二人で二階に上がっていった。


和室ではシルエットが重なっていた。

庭からの風がカーテンを吹き上げている。


車のクラクションが遠くで鳴った。

洗濯ものがヒラヒラと庭で揺れている。


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