第5話 別れ 5

ヒサリはマルの手紙を手にし、動揺した。だが同時に「無理もない」とも思った。マルは幼い時からイボと一緒に暮らしてきたのだ。イボのせいで人に避けられ、手足がうまく使えなかった。しかし同時に、イボがあるおかげで、多くの危険から身を守る事が出来たのだ。イボの無い生活など考えられないのだろう。

しかし、ヒサリ自身の胸にも、時間が経つにつれて戸惑いが生じてきた。あの時はただ、マルを救いたい一心で特効薬の注射をさせた。というのも、イボイボ病の研究をしているウォン先生から思いがけない話を聞いたのだ。

「イボイボ病っていうのはね、君も知っての通り、感染力は極めて弱い上に命を奪うという事はあまり無い病気なんだよ。イボイボ病にかかるのはたいがい、衛生環境が悪く、栄養状態も悪い貧しい者だからね。飢え死にしたり、他の病気で死ぬ人間が圧倒的に多いんだ。発症すれば見た目が気持ち悪いからみんな恐れているが、実際はそれ程恐ろしい病気ではない。だがね、私はこの地域のイボイボ病患者の血液を採取して調べると、どうも『白24型』という極めて悪性のタイプを患っている者が多いんだよ。この『白24型』の保菌者は何かのはずみで急速に悪化して死に至る事がある。君のかわいい教え子もその可能性が高いね」

 ヒサリはそれを聞いて悲鳴を上げそうになった。そういえば、マルも、自分の父親はイボイボ病が悪化して全身が腐って死んだと聞言っていたではないか!

「先生! どうにかならないんですか! あの子を助けて下さい! お願いします!」

「私はオモ先生を絶望させるためにこんな話をしに来たんじゃないよ。実はこれは、絶対に口外しないで欲しいんだがね、今、最新のイボイボの特効薬が開発されたところなんだよ。これを打てば病気の進行は止まる。そして二度とかかることはない。それどころか、体のイボは魔法みたいにきれいさっぱり無くなる」

「どうか特効薬を打ってやってください! いくらお金がかかっても! お金なら私がなんとかします!」

「まあ、そう興奮しなさんな。実は今、カサン軍がなるべくたくさんのイボイボ病患者を集めて、無料で特効薬の接種を行っているところなんだ」

「カサン軍が……? 無料で……? それじゃあ、あの子も……?」

 でもなぜカサン軍がそんな事を? いぶかりつつ、ヒサリはウォン・カン先生の言葉を待った。

「勿論、公衆衛生上の問題、というのはある。間違いなくね。だがそれだけじゃあない。この背後には、重大な計画があってね、これは絶対に外には漏らせない情報だ。オモ先生も軍属の教師だから言うんだが、カサン軍が今力を入れているのが、細菌兵器の製造なんだよ」

「細菌兵器……!」

 ヒサリは、そのおぞましい言葉の響きに思わず息を呑んだ。

「ヒサリ先生も薄々はご存じでしょう。我々の敵、ピッポニアの悪辣な連中が今一番力を入れているのが細菌兵器だ。奴らは恐ろしい細菌兵器でカサンに攻撃を企てている。我々はその対抗手段を持たなくてはならん。それで私の医療チームが目を付けたのがイボイボ病の患者なんだよ。なにしろイボイボ病というのは見た目に強烈だから人々に恐怖心を引き起こす。私はこの国のイボイボ病の患者の多さを好条件と考えている」

「どういう事ですか?」

「イボイボ病の患者をなるべく集めて菌を採取する。様々なタイプのイボイボの菌を集め、より強力な感染力の高い、急速に進行して罹患者を死に至らしめる細菌兵器を開発するために研究しているというわけだよ。そしてこの計画には、特に『白24型』を持っているこの地域の患者の菌が重要なのだよ」

「そんな……! それはとても恐ろしい話です」

 ヒサリは声を詰まらせながら言った。

「オモ先生、国力というのは軍事力ですぞ。国を守るためには武器が必要です。しかし銃や爆弾に比べて細菌兵器は残酷と言えますかな? 細菌兵器は人々を殺すためではなく、恐怖心を与えるためにあるんですぞ。『あそこの町でイボイボ病が蔓延している』と聞いたら人は怖気づくでしょう? そして戦意を喪失する。そうなれば無用な戦は行われない。細菌兵器はむしろ兵士の犠牲を少なくするためのものですぞ」

 ヒサリは、ウォン先生の話を聞いているうちに少しずつ気持ちが落ち着いてきた。「細菌兵器」という響きはいかにもおぞましいが、他の兵器に比べ格別に忌み嫌うべきものでもないのかもしれない。

「この研究は急がなければならん。ピッポニアはアジェンナを諦めてはおらんからね。アジェンナを取り戻すために、奴らはどれだけ残酷で卑劣な手を使うか分からん。我々は頭を使って先手先手で連中を出し抜かねば。しかしだ。細菌作戦は諸刃の剣だ。下手をすれば我々の軍にも甚大な犠牲を出す。作戦には防疫も重要で、我が軍を守るための薬の開発も急がれる。私が軍に進言したために、今、軍の予算で極秘に様々な強力な薬が開発されている。その効果を君の教え子の体で試したい」

「そんな! あの子を薬を試す実験台になれと!?」

「心配はいらんよ。軍の計画だからね、多額の開発資金が投じられた最高の薬だ。既存の粗悪品とは訳が違う。今打っておかないと、明日には別の患者に渡るよ。そしてうかうかしているうちにあの子の体内のイボイボ菌が暴発して手遅れになる事も……」

「分かりました! でも……恐らくあの子は納得しないでしょう。真相を話すと、あの子は特効薬を受ける事を拒否すると思います」

「どうして? 何も問題無いじゃないか」

「あの子は何というか、武器とか軍隊に対して特殊な考えを持ってるんです。ああいったものをとにかく問答無用に嫌がるようなところがありまして」

「心配はいらん。あの子に伝える必要は無い。いや、伝えてはならんのじゃ。これは軍事機密だからね。いやはや、しかし面白いねえ。あの子は兵器が大嫌い。でもあの自身子が強力な兵器そのものなんだからね。ハッハッハ」

 ヒサリは、ウォン先生がマルについてこんな風に言うのは気に入らなかった。しかし今はそんな事を言っている時ではない。これは実に願ってもないチャンスなのだ。

(あの子の病気が治る! 命が助かる! そうすればあの子は高等学校に進学出来る!)

 そして注射はあっさり終わった。

「あと一か月もたてはイボはすっかり消えて無くなる」

 ウォン先生のその言葉を聞きながら、ヒサリはまるで夢の中にいる心地であった。ヒサリは今では、マルのイボだかけの姿にすっかり慣れ、気持ち悪いと思う事も無くなっていた。しかしマルはひと月もすれば今と全く違う姿になっているのだ。その事を思うと、ヒサリは何だか恐ろしい、と思った。

ヒサリは、数年前に見た夢の記憶があった。それは、マルの兄だと名乗る青年が現れ、ヒサリを抱きしめる夢だった。あの時の魂が震えるような、まるで自分が自分でなくなるような感覚をヒサリは今もはっきりと覚えていた。そして、あの青年の、この地の森を思わせる美しい不思議な瞳も。今のマルの瞳はイボで半分つぶれてよく見えない。しかしもし彼があの夢の中の青年と同じような瞳を持っていたら、自分は果たして冷静でいられるだろうか?

 ヒサリは手紙を置いて姿を消したマルをあえて探す事はしなかった。ヒサリ自身もまた心の準備が出来ていなかった。ヒサリは、彼が戻って来るのをゆっくり待とう、と思った。

 教室では、マルがいない事に気付いた生徒のうちの一人がさっそく尋ねた。

「先生、マル……ハン先輩はどこに行ったのですか」

 マルのカサン名は「ハン・マレン」。ヒサリが名付けた。教室ではマルの事を「ハン先輩」と生徒達に呼ばせている。

「ハン・マレンはイボイボ病の治療に行っています。彼が戻って来る頃には、病気もすっかり治っているでしょうよ」

「エエーッ」

 生徒達はみな興奮したように互いの顔を見た。

「彼はイボイボ病が治れば、おそらくアロンガの高等学校に行く事になるでしょう」

「エエー」

 今度は落胆の溜息だった。ヒサリの事を怖いと思っている生徒達は、優しいマルに懐いているのだ。

「あなた方はハン・マレンに頼り過ぎないこと。彼は自分でたくさんの本を読んでカサン語を身に付けたのですからね。彼のそういう姿勢こそ見習うべきです」

 ヒサリはそう言うなり、壁の無い教室の外に視線を移した。マルがいつの間にかそこに立って、教室の様子をじっとうかがっているのでは、ふと、そんな気がしたのだ。

 マルが戻って来ないまま、五日が過ぎた。

「今日ね、来る途中にね、ハン先輩の歌が聞こえました! 『雪の散歩道』の歌でした」

「ハン先輩が『トアンの春』を歌っているのが聞こえました!」

 学校にやって来る度に子供達は口々にそんな事をヒサリに報告した。「雪の散歩道」も「トアンの春」もカサンの古い歌だ。ヒサリは、マルが「自分は無事だ」という事をヒサリに伝えるために歌っているのだろう、と確信した。

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