第1話 別れ 1

 マルは、泥を含んだ温かな川のそばの大木に小さな背中を預け、一人カサン語の本を読んでいた。

しばらく時が過ぎるのも忘れて読みふけっていたが、やがて本を閉じ、川の面に視線を移した。マルの足のすぐ下の水面には、絶え間なく大きな波の輪がやって来ては岸に砕けて消える。川の中では、きっと龍蛇が、ゆっくりと川下に向けて散歩をしているところだろう。波を見詰めているマルの口から自然に歌がこぼれ出した。

「おお龍蛇よ川の主よ 私の思いを対岸の あの娘に届けてくれないか あの艶やかな褐色の 素足を優しく温かく 包む柔らかな波と一緒に」

 これはマルが幼い頃、母から教わった歌である。今、マルが足を浸している母なる大河チャヤテー川流域の村々に昔から伝わる歌だ。

歌い終わると目を閉じた。少し風があった。マルは皮膚病で、全身が醜いイボに覆われている。それでも彼の肌は風の心地よさを感じる事が出来た。アジェンナ国の、特に南部は一年を通して暑い。ここスンバ村も例外ではない。しかしこの時期には時々風もあり、一番過ごし易い季節であった。

「ねえねえ、マル」

 マルの耳元に女の子の声が聞こえた。マルが常に連れ歩いている弦楽器のスヴァリだ。かつてこの楽器を弾いていた女の子がかつてチャヤテー川の洪水で死んだ後、その魂がこの世に留まり、小さな楽器に宿っているのだ。マルにはその声を聴くことが出来た。

「久しぶりにアマン語の歌、歌ったわね! カサン語の本ばっかり読んでるから、もうとっくにアマン語の歌忘れちゃったのかと思った」

「母ちゃんから教わった歌は忘れられっこないよ」

「じゃあ、じゃあ、お願い! もっとアマン語の歌歌って」

「分かった!」

 マルはスヴァリを撫でると、再び歌い出した。マルは末っ子で弟も妹もいない。学校でも一番年下で、みんなに甘えてばかりだった。でもお喋りな楽器のスヴァリは、マルにとって無邪気な妹みたいだった。

 十四歳になったマルは、もう学校の生徒ではない。一緒に勉強したダビ、トンニ、ラドゥ、テルミ、メメ、アディ、シャールーン、ミヌー、ニジャイ、カッシ、ナティもみんな卒業した。今、マルは学校で、恩師、オモ・ヒサリ先生を手伝い、新たに入学した幼い子ども達の勉強を手伝っていた。はじめはイボだらけのマルを気味悪がっていた子ども達も、マルがいくらか甘すぎる位優しいお兄さんだと分かると、マルに懐き、厳しいオモ先生に言えないような事を話したり、勉強で分からない事を尋ねるようになった。マルは、自分がこうしてヒサリ先生の役に立てる事が嬉しかった。しかしヒサリ先生はこう言うのだ。

「でもこの事は秘密です。あなたは教員の免許を持っていないから、授業のアシスタントをしている事がばれたら罰せられます。あなたには高等学校に行ってぜひ教員の免許を取って欲しい。そうしたら安心して授業も任せられるのに」

 だがマルは、高等学校には行きたくなかった。高等学校に行くためには故郷スンバ村を離れ、アロンガという大きな町まで行かなくてはいけない。

「ダビやトンニも行くから心配いりませんよ」

 ヒサリ先生は言う。しかしマルは気が向かなかった。スンバ村を離れたくない。そして何より、ヒサリ先生と別れたくなかった。しかしこれからもヒサリ先生の手伝いをしたいと思ったら高等学校に行くべきなのか? そうはいってもお金もない。代わりに自分には人から忌み嫌われる醜いイボがある。そもそも高等学校なんか行けっこない。親も兄達もいなくなり身寄りの無い自分はこの先どうしたらいいのか……。そんなことを思い悩み、夜もなかなか寝付けない日が増えていた。

「よう、マル」

突然声をかけられ、マルは振り返った。そこにはニジャイがニヤニヤ笑いながら立っていた。マルは驚いた。ニジャイはヒサリ先生の学校で一緒に勉強したクラスメイトだ。しかし彼とはあまり親しくない。学校に顔を出す事もだんだん少なくなり、たまに現れたかと思うと良い着物や手や首にじゃらじゃらと巻き付けた高そうな金鎖などをみんなに見せびらかすようになっていた。なぜ彼がこんなに金を持っているのか不思議だった。あまり人を疑う事のないマルも、いくらかニジャイの事を気味悪く感じていた。苦手なニジャイに間近に寄られ、マルはとっさに視線を落とした。しかしそんなことをしたら彼を嫌っているみたいだ、と思い返し、ニジャイの顔をまっすぐに見返した。

「お前にちょっといい話があるんだ。稼げるぜ」

 マルは、「別に自分は稼ぎたくない」と言おうとして、ふと思い返した。ニジャイは一体何を考えてるんだろう? 何か良く無い事を企んでいるのでは? ニジャイのしている事が、遠からずヒサリ先生を傷付ける事にはならないだろうか? マルはすぐに返事をせず、じっとニジャイの顔を見詰めながら言った。

「稼ぐって? 誰かの前で歌物語をするの?」

 マルは「歌う物乞い」という家系の生まれだ。辻や市場で小唄や節を付けた長い物語を披露して投げ銭をもらう、あるいは人に呼ばれて祝い唄を献じたり、退屈な人々を波乱万丈の物語で楽しませる、それがマルの父母や祖父母、さらにその前の先祖から受け継がれてきた仕事であった。

「そうじゃない。カサン語を読んで何が書いてあるか説明するんだよ」

 これを聞いたとたん、どういうわけかマルはギョッとした。もちろん、ニジャイの仕事を受ける気はない。けれども彼が一体何を企んでいるのか、ぜひ知りたい、という気にかられた。

「どういう事をするの? 詳しく教えてよ。おら、出来るかどうか分からないから……」

「出来ねえこたあねえよ。普通のカサン人が読んでんだから。イボだらけのお前にゃ、こんなに稼げる仕事、他に無いぜ」

 ニジャイはニヤリと口角を持ち上げ、「ついて来い」という風に手で合図し、クルリと向きを変えて歩き出した。


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