さよならを忘れて

湊咍人


「罪の対義語アントは、何だと思う?」


 肌を緩慢に焼く西日が、色褪せたカーテンの隙間から零れ落ちて目に刺さった。

 凸レンズへと中途半端な角度で入射した熱に、思わず顔を顰めてしまう。


 放課後。

 グラウンド側の窓ガラスを振動させる野球部員のくぐもった声が響く、まるで人の手が入らない洞窟のようにひんやりとした図書室。

 冷房機器から吹く風によってたなびくカーテンを固定しようと、席を立った自分へと質問を投げかけたのはある一人の同級生だ。


 彼女の名前を、僕は知らない。後書きを捲る手を止め、もう司書すら居ない静まり返った空間で声量を抑えて問うた。


「まさか、君はそれを聞くために僕を呼んだの?」

「ええ。私も、この質問だけで相手の人となりが分かる気がするの。何も知らないあなたは、どう答えるのか興味がある」

「......そんな期待されても、生まれたての僕は大した答えを持ち合わせていないよ」

「私は、あなたの答えが聞きたいの」


 見つめる、よりも覗き込むと言ったほうが正しいような動作。眼球よりも洞と言ったほうが適切に思える、真っ暗な瞳。

 今回は初めて会ったはずなのに、本当は彼女に対する記憶だけは残っているのかもしれないと思えるほど、僕は彼女をすぐに受け入れた。


 空っぽで抜け落ちた彼女と、傷だらけで欠け落ちた僕。

 全然違うはずなのに酷く似ていたから、彼女の言葉を何の抵抗もなく信じた。


「善には悪。神にはサタンというアントが存在する。罪と罰は、或いはアントとして繋がれたものではないかと、かの作家は考えた。作中では、答えに辿り着くことはできなかったけれど───」

「彼の死は、彼ごとあの小説を完成させた。結果としてはそう捉えることはできるけれど、やっぱりあの答えを求めてしまうのは読者の性なんでしょうね」


 文豪、太宰治。

 かの作家の代表作であり、たった今読了したばかりの「人間失格」にて登場したのが、先に彼女が切り出した対義語アントニム当て遊び。


 作中では、黒、白、赤、花、女、臓物、恥のアントが登場した。それらに正解はなく、ただお互いの価値観や思考を瞼を開かずに手探りで言語化していく遊びであった。

 

 その最後に登場したのが、罪であった。罪のアント、一見簡単に見える問だが、その本質は回答者の全てが分かる、と作中では語られるほどの「重み」を持っている。このシンプルな問は、答える人間の根底にある倫理、根源である思考パターンを形作る「何か」の片鱗すら覗かせると、一読者に過ぎない僕も漠然と思ったほどに。

 

「罪と罰は、作用と反作用だ。罪も罰も人間が作り出したものだけれど、概念としては善悪と違って最初から存在していたように思える。

 罪に振るわれる報いを、罰と呼ぶのだと。そう、思った。

 でも違う。そんな簡単な問じゃない」

「なら、どう思っているの?」


 罪と罰。氷炭相容れざるもの。

 アントニムなのか、あるいは類義語シノニムであるのか。その答えに、17年の人生の上に生後1日の自我を乗せた僕は少しずつ近づいていったように思える。


「罪のアントが罰だとして、は何なのか。ある意味では、それを知ることが正解に辿り着く唯一の道筋なのかもしれない」

「それは、面白い考えだね。罰のアント、それは何だと思う?」

「───抛棄ほうき、かな」


 罰のアント。

 罰してすらもらえない。赦しですらない。

 ただ無関心に放逐される事は、罰のアントに最も近いと感じたはずなのに。

 

 それこそが、罰そのものであるようにも思える。


「愛、光、祈り、悔い、救い、告白、そして抛棄。罪の類義語シノニムは数多くあれど、まるで遍く全てが罪を背負っているかのようにアントだけは見つからない。これって、素敵なことだと思わない?」

「......そうだね」


 まるで舞台で踊る役者を思わせる仕草で、彼女は何かを受け入れるように両手を広げた。僕は、あまりにも真っ直ぐな彼女を直視できずに窓へと目を向ける。


 カーテンの裏側。想像を絶する熱量を放出し僕らを照らし続ける水素の塊は、まるで神様みたいだと思った。


 罪と罰。

 もし神様が、僕を作ったのなら。

 それは、罰なのだろうか。


「......もし、この世に存在する全てが何らかの罪を背負っているとすれば───」

「ヘンペルのカラス、ね。確かに、そうであるならば罪のアントは存在しないことになってしまう」


 ヘンペルのカラスとは、対偶論法の一つだ。

 仮に「全てのカラスは黒い」ことを証明したい場合、世界中の「黒くないもの」を一つずつ調べるというものだ。

 この場合、カラスを一匹も調べることなく「全てのカラスは黒い」ことを証明できてしまう。もし、世界中の「罪を背負うもの」を一つずつ調べればどうなるか。


 罪を背負うものは、当然ながら罪のアントになり得ない。───いや、違う。今、何かが分かりかけた。結晶化することなく思考の海を溶媒にして溶け落ちていった何かを、どこか見つからないという確信をもって探してしまう。罪のアントとは、一体何だ───?


「罪を背負わない事と、罪を自覚できない事の差は何だと思う?」

「───当事者にとっては、同じことだ。罪は、当事者以外の観測者が認識することで初めて『罪』として実体を持つ───それなら」

「それ単独で存在することができない『罪』は、もしかすると対義語アントなんて根本的に存在できないのかもしれないね。それを踏まえたうえで、もう一度君に質問してもいいかな」

 

「罪のアントは、何だと思う?」







 僕は、病気らしい。

 前向性健忘症。新しい記憶を覚えられず、数日おきに記憶が消えてしまう。

 

 今からおよそ一年前、僕は事故に遭ったらしい。

 その際、脳は大きなダメージを受けた。家族や友人だけでなく、自分の名前も何もかもを忘れた。●●●●という人間は死に、僕が生まれ、また死んでゆく。


 記憶が消える頻度は、およそ3日。ただ、最近は少しずつその頻度が減っている。

 一年前は、ほぼ毎日のように消えていたというから僕の母親だという女性もさぞ大変だったに違いない。


 何も覚えていないし、これからも覚えることはできない。そう絶望していた時期もあったらしいが、今は違う。少しずつ減っている記憶消失の頻度と、小さな手帳が僕に希望という小さな篝火を灯してくれている。


 今日の手帳には、何を書こうか───







「今日の君は───うん、変わっているね」

「君は、変わっていないんだろうね」


 空が泣き出したのは数時間前。目の前の椅子に腰かける少女と前回会ったのは、窓ガラスも歪みそうな夕日が差していた日らしい。


 ここに来た理由は他でもない、僕が彼女を呼び出したからだ。

 

「僕は、手帳に記憶を記しているんだ。次の僕が円滑に物事を運べるように、もし記憶が消えなくなった時に不便がないように、できるだけ必要な情報を纏めている」

「うん、前回の君も別れ際に言っていたよ」

「だからね、こんなことは初めてなんだよ」



 8月29日

 罪の対義語(アント)は何か。■■さんに問われた。

 僕は、答えられなかった。次の僕、君なら答えられるのかな。



「書いてあったのはこれだけだ。前回の僕は、情報よりも君の問いを優先したらしい。その理由は分からなかったけど、ここに来て君と話して分かったよ。

 前回の僕も、どうやら答えを知りたかったみたいだ」

「......そう。あなた、いえ彼らしい」

「僕も、必死で考えた。本を読んで、目を閉じて考えた。でも、分からなかった」


 この問いは、その人の本質をいとも容易く露呈させる。罪深い僕たちが、罪を自覚しその根源と向き合うことが、罪の対義語アントを見つける必要条件なのだろう。


 僕の罪は、何だろう。

 僕は、結局のところ分からなかった。前回の僕と同じ体で、新しい記憶という人格や思考回路に新しい影響を与える要素ファクターが無い以上、大きく異なった答えはそもそも導き出せない。


 少なくとも、己の罪すら自覚できないままではスタートラインにすら立てないのは自明の理だろう。


「前回のあなたは、最後にこう言っていたわ。

 『僕の罪は、罪を忘れてしまう事だ』ってね」

「それはまた、僕、いや彼らしい答えだ」

「ええ、本当に彼らしい答え。私も思わず答えに窮してしまうくらいに」


 ───今、何かが分かりかけた。罪という概念、それが取り巻く自己という曖昧で酷く都合のいい揺らぎの周期性......だめだ、届かない───


 光の届かない万華鏡。沈殿する角砂糖。錆び落ちた蝶番。

 何かが欠け落ちていた。核心に届くには、何かが足りなかった。


「今の僕では、答えられないみたいだ」

「......そっか」

「だから、明日の僕にも聞いてみてほしい。明後日も、忘れても、何度でも僕は考え続けるから」

「......いつか、君の答えを教えてくれる日が来たら。その時には───」


 彼女は、泣いていた。

 僕が、好きだったらしい彼女。彼女も、僕のことが好きだった。らしい。

 視界が酷くぼやけているからよく見えないけど、泣いているのだろう。

 

「その時には、私の答えを、受け止めて......」


 零れ落ちた涙は、板張りの床に少しの間だけ染みになった。

 図書室を満たす空気は少しの間、外気との気温差を残したまま流れた。


 彼女は、この日から少しずつ変わってゆき。

 僕は、変化の残滓を取り込んで極僅かに変化し続ける。


 記憶ごと、僕は数日おきに死に、また生まれる。

 手帳に記載される事柄も、日が経つにつれ目減りしてゆく。

「これまでの僕」との相違点と、罪のアントに対する考察が、アスファルトに降り積もる粉雪のように蓄積されていった。

 

 そんな中、手元に残った一冊の小説だけが、何よりも正確に時を刻みながら擦り切れ、小さな傷を「次の僕」へと引き継がせていった。

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