第二十九話 仙婆の過去

 普通に考えれば、頼れる両親も、身分もない女が、後宮に上がることなどありえない話だ。


さらに寵愛を受け、貴妃という最高位に近い位を与えられたのだ。小さな女巫たちが、雪蓉は最高の幸せを掴み取ったと思うのは当然のことだろう。


 そしてそれを我が事のように喜んでくれていた。ありがたいと思うべきなのだ、本当は。


(でも私は、妃になんてなりたくなかった)


 ……皆と一緒に暮らしていたかった。


 劉赫にほのかな恋心を抱いたのも事実だ。


でもその気持ち以上に、ここでの生活が恋しかった。


いうなれば、それまでの気持ちだったのだ、劉赫への思いは。


全てを捨てて、彼の側にいたいと思うほど強い気持ちではなかった。


(私、皆のお荷物になっちゃったのかな)


 雪蓉は、膝を抱えてうずくまった。


 必要性を感じないだけで、居場所がないわけではないと思っていたのは思い上がりだった。


雪蓉の居場所なんて、もうどこにもない。十歳近くも年が離れている子供たちに心配されては、雪蓉の立場がなかった。


「珍しく落ち込んでおるな」


 誰もいなかったはずなのに、声が聞こえて、雪蓉は驚いて顔を上げた。


 すると、雪蓉の隣にいつのまに来たのか、仙が両手を後ろに組んで立っていた。


(全然、気配がしなかった……)


 ぎょっとしながら仙を見ると、仙は雪蓉の隣にあった大きめの石に腰を掛けた。


仙は、小さな女巫たちと背丈が変わらないので、見下ろす形となる。


「仙婆は、私が帰ってきたこと、どう思った?」


 雪蓉が帰ってきて第一声が「出戻ってきたのはお前が初めてだよ」と呆れたように言われたことを思い出す。


「別に、どうも思っておらんよ」


「迷惑だった?」


「迷惑ではない。お前がいると助かることも多い。あの子たちは、今でこそ多少は使えるようになったが、最初は酷いものだったんだよ」


 あの子たちというのは小さな女巫たちのことだ。


 雪蓉は黙って仙の話を聞いた。


「饕餮に捧げる料理は、ほとんどわしが作っておった。


家事も畑仕事も家畜の世話も、一日働いても終わらない日が続いたよ。


大変だからなのか、お前がいなくなって心細かったのか、夜中にすすり泣く声も聞こえたのう。


でも、頼れる者が抜けたとしても、案外なんとかなるのが世の常だ。短期間であの子たちはよく成長した」


「私が今まで、あの子たちを甘やかせていたのかな」


「そうかもしれぬ。だが、ゆっくり丁寧に成長していくことも、悪いことではない。将来自立できるようになりさえすればいいのだ」


 ……自立。それができていないのは、実は雪蓉自身なのではないかと思った。


 いつまでも仙のところで甘えているわけにはいかない。ここにいたいならば、それなりに覚悟しなくては。


「……仙になるしか、ないか」


 ポツリと雪蓉が零した言葉に、仙は眉を顰めた。


「仙はお前が思っているより、いいものでも、甘いものでもないぞ」


「分かってる。人間ではなくなることも。人の心が消えていってしまうことも」


「分かっておらぬ。仙は本来、悪しきものなのだ。業(ごう)の塊じゃ」


「私は、仙婆が悪しきものには見えない」


 むしろ尊敬すべき対象だった。自分が楽をしたいから、老体のふりをしていると分かっても、卑怯だなとか嫌な気持ちは一切生まれなかった。


仙らしいと笑って済ませられる程度だった。


それに、長生きするために、仙術をなるべく使わないためとはいえ、身よりのない孤児を育てているのは、尊いと思う。


来る者拒まず、去る者追わずで淡泊な性格だけど、子供たちを気にかけてくれているのは十分伝わってくる。


 子供たちが困っていたら、必ず助けてくれる人だ。


こうして雪蓉が落ち込んでいたら、話を聞いてくれる優しい人だ。


「わしが饕餮を鎮める仙となったのは、饕餮がわしの息子だからじゃ」


「え……?」


 目を見張り、仙の言葉を理解できずにいる雪蓉に、仙は淡々と告げる。


「饕餮の本当の名は峻櫂。


峻櫂はわしの一人息子じゃった。


父親が幼い頃に亡くなり、わしは女手一つで峻櫂を育てた。


峻櫂は気弱で優しい子での。食べることが大好きじゃった。頭も運動神経も良くない峻櫂は、幼い時からよく虐められておった。


わしはそんな峻櫂が心配だったけれど、仕事が忙しくて手をかけることができなかった。


そして峻櫂が二十歳になる頃、仕事も人間関係も上手くいかない峻櫂は、ある教祖様に心酔していった」


「教祖様……」


 初めて聞く仙婆の昔話に、雪蓉は真剣に耳を傾けた。


そして、教祖様という言葉に、妙な胸騒ぎを感じた。


「教祖様はとても美しい男の人らしい。


わしは暗闇の中で一度だけ見たので顔はよく分からなかったのじゃが、腰まで届く絹糸のように美しい銀髪は今でも覚えておる。


どんなことを布教していたのかは分からない。


ただ、峻櫂は溺れるように急激に教祖様を慕っていた。


まるで何かに憑りつかれるように」


 雪蓉の喉がごくりと鳴った。おどろおどろしい怖さと不気味さが話から伝わってきた。


「峻櫂の異変に危険を感じた時にはもう遅かった。


気弱で優しいあの子はすっかり変わってしまった。


そして心酔していた教祖様の手によって、峻櫂は自ら饕餮になることを選んだ。


そしてわしも、一人息子と共に地獄に落ちることを選んだ。


仙になることを自ら望んだ。恐ろしい魔物を生み出してしまったわしの償いでもあるのだ。


あの子を助けられなかったわしの罪じゃ」


 仙の目は遠くを見るように悲しみの色に濁った。


「仙婆のせいなんかじゃない。本当に悪いのは、その教祖様じゃない」


 雪蓉の言葉をまるで聞こえなかったかのように、肯定も否定もせず仙は話を変えた。


「四凶はどれも、元は人間だったのじゃ。


欲に溺れ、悪しき心に支配され霊獣となった。


わしは、化け物に変わった息子を抑えているだけじゃ。


お前に、それほどの覚悟が持てるのか? 全てを捨て、同じく化け物となっても饕餮を鎮める覚悟が」


「それは……」


 無理だ、と率直に雪蓉は思った。そこまでの覚悟は持てない。饕餮に対して、そこまでの思い入れもない。


 私は今まで、なんて浅はかに考えていたのだろうと思った。


饕餮を鎮める仙になりたいと思っていたこと自体が愚かだと恥ずかしくなった。


「ごめんなさい」


 口から出たのは謝罪の言葉だった。仙になりたいだなんて、仙からしたら不快だったに違いない。私は本当に、何も分かっていなかった。


「謝ることはない。それより、今後どうするのじゃ?」


「どうしよう。結婚なんてしたくないし、そもそもできないだろうし」


「まあ、お前の性格を知ったらな」


 仙は否定をせず、むしろ力強く肯定した。


「女手一人で生きていくには、伝手もお金もないし」


「あれの元に戻れば良かろう」


 あれとは、皇帝である劉赫のことだ。雪蓉は口の端を引きつらせた。


「もう無理でしょう」


「あれなら喜んで迎え入れると思うがな。お前の性格を知っていて、それでも好いていてくれるのは、あれくらいしかおらぬぞ」


 雪蓉は唸った。正直、迷う。劉赫を好きな気持ちは変わらない。でも……。


「やっぱり無理。だって劉赫は皇帝だもの。妃にはなれない」


 礼儀作法を学び、綺麗な衣装を着て、穏やかに笑みを浮かべながら過ごすなど、雪蓉にとっては拷問だ。


人には得手不得手というものがある。妃は間違いなく、雪蓉には向いていない。


「劉赫が皇帝ではなかったらどうなるのじゃ?」


「それは……」


 彼の元に行きたい。彼と一緒に過ごしたい。でも、劉赫は皇帝だ、もしもなどない。


 目を伏せ、暗くなった雪蓉に仙は静かに声を掛けた。


「考えるだけ、無駄じゃな」


 そう、考えるだけ無駄。


劉赫は皇帝で、劉赫と結婚するということは、後宮の妃になるということだ。


そして、それができない自分は、そこまで劉赫のことを好きではないのだろう。


 雪蓉は考えを振り払うように首を振り、笑顔で顔を上げた。


「……ということで、仙婆、これからもお世話になります」


 雪蓉は深々と頭を下げた。仙は、まあそうなるかと半ば諦めたような顔を浮かべた。


「しっかり働いてもらうぞ」


「喜んで!」


 こうして、雪蓉は気持ちを新たに女巫として働き始めた。 


雪蓉のことを心配していた小さな女巫たちも、雪蓉はずっと女巫であり続けるのだろうと受け入れた。


当然、雪蓉もそう思っていた。


事態が再び急展開するのは、ある晴れた午後のことである。

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