第二十六話 新たな問題

後宮の庭園に幕が張られる。部屋の扉は開け放たれ、中に設えた豪奢な背板のある椅子に皇帝である劉赫が座る。


その隣には、いつもよりも着飾った姿の、貴妃である雪蓉。庭園の隅には、数人の宦官と女官が立っていた。


 華延は後宮を出る準備をすっかり終えて、後宮の外には馬車が用意されていた。


これから、実家のある華南の万寧(まんねい)へと下り、静かな余生を過ごすのだという。


 華延が庭園の真ん中に、進み出る。頭を下げ、拱手の姿勢で皇帝のお言葉を待つ。


皇太后である華延の身分を考えると、わざわざ頭を下げる必要はないにも関わらず、華延は礼に従った。


華延の中では、息子というよりも皇帝という意識が強いのだろう。


 劉赫もそれを感じ取り、皇帝として妃嬪と相対する様を崩さない。


「顔を上げよ」


 皇帝から許しを得て、顔を上げた華延は、以前会った時よりも清々しい表情をしていた。


華延は、目を細めて劉赫を見つめる。その穏やかな表情からは、子を愛しく思う母の喜びが溢れ出ていた。


 対する劉赫は、皇帝の威厳を保つためなのか表情がまったく変わらない。


母を目の前にして思うところが多くあるにも関わらず、表情を崩さない劉赫を見て、華延は頼もしく感じ、さらに喜びに満たされるのだった。


「実家に下がるらしいな」


「はい。これまで先帝が崩御したにも関わらず後宮に長く居続けてしまい、申し訳ないと常々思っておりました」


「そんなことは構わない。後宮は広大ゆえ、余っている土地も多い。それに今は妃嬪の数が少なく、今後も増やす予定はない」


 口早に言う劉赫を横目で見て、もしかして引き止めたいのかなと雪蓉は思った。はっきり言えばいいのにとじれったくなる。


皇太后が後宮にいるのを好ましく思わない者もいると聞いたことがある。


先帝が崩御した後に後宮の妃嬪を一新するのは、残しておくのは縁起が悪いと言われているからである。


 しかし、生母が後宮に居続けた例は過去にもあり、特に気にする必要はないと雪蓉は思っている。


「いいえ。喜ばしいことに寵妃もできたことですし、母は下がります。それに、今まで残っていたのは、麗影様がいたからなのです」


「それは、どういうことだ?」


 華延はニコリと笑って、理由は話さなかった。この場では、相応しくないことと判断したのだろう。


 言わなくても不思議と劉赫と雪蓉は意図が読み取れた。


 華延は、十四年前の皇位継承儀式の時、神龍に宝玉を与えた人物が誰なのか分かっていたのかもしれない。


 子ができず、寵愛を華延に奪われ、心を壊した麗影。


皇子を殺す理由は彼女には余りある。しかし、証拠がない以上、問いただすことさえできない。


 華延はずっと、後宮に残り続けながら麗影を見張っていたのだ。母として、劉赫を守るために。


「……一つ、聞きたいことがある」


 劉赫は華延が後宮に残っていた理由について問うことをやめた代わりに、別の質問を投げかけた。


「なんでしょう?」


 劉赫は、一拍間を置いて重たい口を開いた。


「今でも、余の顔が神龍に見えるか?」


 雪蓉と華延は、ハッとして劉赫を見つめた。


 華延は、何かを堪えるように下を向いた。


握りしめた拳が、密かに震えていた。


 そして、意を決したように顔を上げた華延の表情は、明るく輝いていた。目に涙を溜めながら、笑顔を浮かべている。


「いいえ。麗しく凛々しい御顔が、よく見えております」


 その言葉に偽りはなかった。


逞しく立派に育った息子の顔を、華延は脳裏に焼き付けるように、しっかりと見つめた。


「……そうか」


 劉赫は落ち着いた声音で、一言だけ吐き出した。


 こうして、短い時間だったが、母子の別れの挨拶は終わった。


 雪蓉は清々しい気持ちだった。いいことしたな自分、と心の中で褒めたたえた。


 華延がいなくなり、劉赫は寂しがっているかと思いきや、案外普通にしているのが意外だった。普通に見せているだけかもしれないが。


 しかしながら、華延がいなくなった余波は、思わぬところで表出した。


 それは、三公九卿が一同に会する会議でのこと。


 全員に配られた茶に、劉赫が口をつけた際に発せられた一言に、その場にいた者たちが一瞬で固まった。


「まずっ」


 皆が驚いたのは、皇帝が茶を不味(まず)いと評したことではない。


会議に出される茶は、確かに不味かった。


しかし、味の分からぬ劉赫は、その茶を何杯も飲むので、茶が不味いと苦言を言いだす者はいなかった。


 会議に出る茶は不味いという共通認識を皆が持っていたとしても、それが仕事に差し支えるわけではないのでそのままだった。悪しき風習のようなものである。


 皆が驚いたのは、味が分からない皇帝が、初めて茶を不味いと認識したこと。


 つまり、味覚を感じるようになったという事実についてである。


 このことは、瞬く間に宮廷中に広まった。


中でも大喜びしたのが宮廷料理人たちで、皇帝が食す料理を作るという名誉を、ぽっと出の妃に横取りされた形となった彼らは、当然不満を抱えていたが、雪蓉の作る料理だけなぜか味がするらしいと聞き、渋々仕事を譲り渡していたのである。


 それが此度の朗報で、ぜひ我らの料理を皇帝に召し上がっていただきたいと考えた彼らは、それを饗宮房の料理長、鸞朱に告げた。


何も知らずに饗宮房にやってきた雪蓉に、鸞朱は、皇帝が味覚を取り戻したことを告げた。


「あなたはもう、用無しね」と嫌味を付け加えて。



 さて、味覚が戻ったことに頭を抱えているのは、治った張本人、劉赫である。


 仕事を終え、臥室で一人、椅子に座り休んでいた劉赫は、ある悩みが頭を支配し、寛ぐことができずにいた。


(どうしたものか。あんな約束などしなければ良かった)


 激しく後悔しているのは、雪蓉と交わした一つの約束事。劉赫の味覚が治れば、雪蓉を帰すというものだった。


 まさか治るとは露ほども思っておらず、このことを雪蓉が知ったら狂喜乱舞して駆けつけてくるだろうと思った。


(……しらを切るか)


 男として、いや、人としてそれはどうよと突っ込みたくなるようなことを真剣に検討している劉赫に、まさに狂喜乱舞し駆けつけてきた雪蓉の足音が聞こえてきた。

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