第十八話 狙われた男

饕餮が結界を抜け出し、宮廷に向かっていることは、すぐに城内に知れ渡った。周知徹底された命令は、とにかく動かないこと。


 禁軍は万一のために配備されているが、戦うためではない。饕餮を見たら、速やかに皆を避難させろと言われている。


 後宮内も不気味な静けさが漂っていた。


禁軍が後宮の外を守ってくれているとはいえ、饕餮が後宮内に入ってきたらと思っているのか、怖くて震えあがり、女たちのすすり泣く声が聞こえた。


 雪蓉は劉赫を信じ、後宮で待つことを選んだ。


宮廷内にいる、一番の弱者は後宮の女たちだ。だから、彼女たちを守るため後宮にいることが、雪蓉の唯一できることだった。


 饕餮が近寄ってくる気配を感じる。饕餮はもうすぐそこまで来ていた。


(劉赫……お願いよ)


 祈りながら、気配を消して、ただじっと待つ。


 饕餮が来る方向には、饕餮の大好物の鶏の生き血をたらし、劉赫の待つ大廟堂に進むようにしている。


大廟堂の中に入りさえすれば、劉赫は神龍を放てる。


 それまでに一人の犠牲もなく、饕餮が大廟堂に入ることができれば作戦は大成功となる。


 逆にいえば、饕餮が宮廷内で暴れまくり、やむなく神龍を外に放てば、被害は甚大なものとなる。


 神龍が饕餮だけを襲ってくれればいいが、宝玉を手にした神龍は我を忘れて暴れ狂う。


儀式の時に、三人の皇子を殺したように、人間に襲い掛かる可能性は非常に高い。


 そうなれば、被害は饕餮一匹が宮廷に入り込んだものよりもさらに大きくなる。


 このまま何事もなく饕餮が大廟堂に入ってくれることを、ただただ祈るのみだった。


(きた……。饕餮が宮城内に入ったわ)


 饕餮は、鶏の生き血を嗅ぎ、真っ直ぐに大廟堂に向かっている。


(そう、いい子よ。そのまま進みなさい)


 雪蓉は、まるでその様子を見ているかのように感じ取ることができた。


 大廟堂に入りさえすれば……。雪蓉は手に汗をかきながら祈り続けた。


 饕餮は夢中になって生き血を舐めながら、ゆっくりと進んでいく。


 雪蓉が成功の手応えを感じ始めたその時だった。


 静寂に包まれていた宮廷内が、突如、怒号や剣の打ち合いの音が響き渡る。


(何事⁉)


 雪蓉は後宮の大門まで走っていくと、外では舜殷国軍同士が戦っていた。


(一体どういうことなの! 味方同士で争うなんて!)


 物音に饕餮は気付くが、幸いこちらに来る様子はない。


 しかし、人間の血の匂いがすれば、興奮して駆けつけてくることだろう。


 混乱に乗じて、雪蓉は後宮を出る。饕餮が襲ってきたときのことを考えて武器は用意してある。


といっても、後宮に武器は持ち込めないので、雪蓉が握っているのは、柄のついた鉄製の丸い調理器具。


……そう、平低鍋(フライパン)である。


 雪蓉は戦闘している集団を目指して走った。


(動きやすい服を着ておいてよかった。でもまさか、味方から反乱者が出るなんて)


 平低鍋も、動きやすい服装も、対饕餮のためであって、対舜殷国軍相手ではない。劉赫が体を張って守ろうとしている人々が、自ら危険を冒そうとしている。


(なんでこんなことを。饕餮が来たら、皆死んでしまうというのに!)


 息を切らしながら、戦いの前線に到着すると、異様な光景であることに気が付いた。


 禁軍を攻撃しているのは、後宮の警備を主とする十二衛四府の通称十六衛と呼ばれる組織の南衙(なんが)禁軍で、戦の最前線に立つ十二衛の直轄軍とは格が違う。


 なぜ雪蓉が一目で南衙禁軍と分かったかというと、なんてことはない、腰紐が衛ごとに分かれているからだ。


十六衛なので十六色あり、後宮警備を任されている右玉鈐衛(うぎょくけんえい)は、桃色という可愛らしくも分かりやすい色となっている。


武力としては十六番目、つまり一番弱い軍なので桃色部隊と揶揄されてもいる。


 北衙禁軍と呼ばれる正規軍とは、大人と子供ぐらいの力の差がある。勝てるわけがないにも関わらず、右玉鈐衛の武官たちは剣を振り回している。


 対して北衙禁軍は、彼らを傷つけたり殺したりしては、饕餮が血の匂いを嗅ぎつけてこちらに向かってくることを恐れ、防戦一方となっていた。


 衛兵たちの目は、真っ赤に充血し、低いうめき声をあげている。明らかに正気ではない。


 北衙禁軍を指揮する総司令官は、明豪だった。


 明豪は、明らかに戸惑っていた。切り殺すわけにもいかず、かといってこのまま騒ぎを続けては、饕餮がいつ来てもおかしくはない。


 正気を失った衛兵たちに叱責の怒号を上げるも、彼らはまるで聞こえていないかのように攻撃してくる。


 焦る気持ちは雪蓉も同じだった。このままでは作戦は失敗に終わり、全滅してしまう。


「ううっるさぁぁい!」


 雪蓉は頭に血が昇って、持っていた平低鍋で、正気を失って攻撃してくる衛兵の頭を叩き落した。


「静かにしていろって命令が下ったでしょうが!」


 頭を平低鍋で殴られた衛兵は、地面に横たわると、体から赤い蒸気が昇り、風と共に消えた出てきた。そして、気を失ったのか、指一本動かなくなった。


 倒した衛兵を見つめながら、ハアハアと肩で息をする雪蓉に、明豪が気付く。


「貴妃ではないか! なぜこのようなところに!」


 明豪は恐ろしい形相でこちらに向かって来た。


 怒られると思って萎縮したが、叱責が怖くて戦えるかと思って、気持ちを立て直す。


「見て分からない? 参戦しに来たのよ」


「邪魔だ! ここは妃が来るようなところではない!」


「あら、そうかしら。これを見て。血も出さず正気を失った衛兵を倒したわよ」


 雪蓉は地面に倒れ伏す衛兵を指さして言った。


「これは……」


 明豪は片膝をつき、武官の口から吐き出された赤い実を摘んだ。


「言っておくけど、殺してはないからね。気を失ってるだけだと……」


「違う、寝ているだけだ」


「寝てる?」


 雪蓉は、自分が倒した衛兵の顔を覗き込んだ。目を瞑ったまま動かないが、息はしている。 

 

 気を失っているのか寝ているのか、雪蓉には分からなかった。


「こいつに何をしたんだ?」


「何って、平低鍋で頭を思いっきり殴ったのよ」


「すると、この実が出てきたってわけか……」


 明豪は興味深げに赤い実を見つめた。


「それ何?」


 雪蓉が明豪に聞くと、答えは思わぬ方向から聞こえてきた。


「それは、仙術のかかった毒実じゃ」


 上から声が降ってきて、雪蓉は顔を見上げた。


 すると、真上にある木にちょこんと乗った小さなお婆さんがそこにいた。


「仙婆!」


 驚いて雪蓉が声を上げると、仙婆はひょいと木から飛び降りて、くるりと一回転して地面に着地した。


あまりの身のこなしの軽さに、雪蓉は開いた口が塞がらなかった。


「な、な、な、なんでここに……」


 色んな意味で驚き過ぎて声が震える。


「饕餮が結界を破って逃げ出したからな。饕餮を鎮める仙としては、黙って待っていられなかったのじゃ。責任持って、饕餮を連れ帰らねばならん」


「饕餮を追いかけてきたの⁉」


「いかにも」


 仙婆は、何でもないことのように頷いたが、霊獣の速さに追い付くということは、仙婆って足が速かったのね、で済む話ではない。


さっきに身のこなしといい、人間離れしている。


 いつも、「あー、腰が痛い。足が痛い」と言って女巫たちに肩や足を揉ませている人と同一人物とは思えなかった。


 驚いている雪蓉を尻目に、明豪は冷静に赤い実のことを訊ねる。


「仙術の毒実だとすると、やはりあいつらは誰かに操られているというわけか」


「恐らく饕餮を結界から解き放った人物と同じじゃろうな。並みの人間にそんなことができるはずはない」


「じゃあ、この実を吐き出させれば、あいつらは元に戻るのか?」


「さよう。深い眠りに落ち、起きたら何も覚えていないだろう」


「よし、分かった。頭を殴ればいいんだな」


 防戦一方で衛兵と戦い続けている北衙禁軍に、指令を出そうとした明豪を雪蓉が慌てて止める。


「待って! これ以上騒いだら饕餮がこちらに来てしまうわ!」


「大声出して平低鍋で頭をぶん殴ってた奴が言うか?」


 明豪は呆れたように言った。


 雪蓉はもっとも過ぎて言い返せなかった。でも、腹が立ちすぎて、気が付いたら体が動いていたのだ。考えてやったことではない。


「大丈夫じゃ。饕餮はまっすぐに大廟堂に向かっている。饕餮の目的はそもそも皇帝じゃからな」


「饕餮の目的が、劉赫?」


 雪蓉は納得いかないといった顔で仙婆を見た。


 どうして饕餮が劉赫を狙うのだ。


「仙術をかけた者の狙いが皇帝だからじゃろ。饕餮も仙術にかけられている」


「一体、誰が……」


 雪蓉の問いに応えられる者はいなかった。


 明豪は気を取り直して、仙婆に言った。


「じゃあ、思う存分暴れてもいいってことだな?」


「騒いでもいいが、血は出すなよ。人間の生き血の匂いを嗅いだ饕餮は、自分の目的を忘れてこちらに来る可能性がある」


「分かった」


 明豪は力強く頷き、北衙禁軍に向かって指令を高々に告げた。


「剣の柄で後頭部を思いっきり殴れ! くれぐれも斬りつけるなよ!」


「「はいっ!」」


 総司令官からようやく反撃の指令を受けた北衙禁軍は、水を得た魚のように生き生きと動き出した。


 元々武力には、歴然とした力の差がある。数刻もすれば、騒ぎは収まるだろう。


 まだ終わってはいないが、とりあえず事態の収束が見えてきたので、雪蓉はほっと安堵した。しかし、仙婆の次の一言で、再び緊張感が走る。


「饕餮が大廟堂に入りおった」


 ……ついに。雪蓉はごくりと唾を飲み込んだ。

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