第十三話 芽生えた気持ち

 妙な好奇心が湧いてきた雪蓉は、中がどんな造りになっているのか見たくなって、身近にあった大木に登り始めた。


外は暗くなっていて、遠くまで見渡すことは困難だ。しかし、ぼんやりとだが、有り様を見ることができた。


 中はまるで樹海のようだった。不気味な木々が茂り、棘のある毒花が屋敷を囲っている。


一言でいえば薄気味悪い。こんなところに住む人物は、どんな人なのだろうとしばらくの間見下ろしていると、屋敷の中から一人の女性が出てきた。


 漆黒の上襦下裙に、腰下まで靡くたわわな黒髪。年齢不詳の顔立ちで、血を舐めたような赤い紅(べに)が強烈に際立っている。


 女は雪蓉の気配に気づき、大木を見上げる。


「そこにいるのは誰じゃ!」


まさか気付かれると思っていなかった雪蓉はびっくりして木から落ちそうになった。声はしわがれた老婆のようで、見た目との差に更に驚かされる。


雪蓉は大慌てで木から下り、まるで命からがらといった様子で逃げ出した。


      ◆


「妖女(ようじょ)がいた?」


 雪蓉の道草のせいで、遅い時間に夕餉を食べることになった劉赫は、文句も言わずに料理を食べながら雪蓉の話を聞いていた。


「そうなの。声や雰囲気は妖婆に近いんだけど、顔立ちは艶めいて美人だったから、なおさら不思議で……」


 対面しながら劉赫と共に夕食を食べていた雪蓉は、今しがた起こったことを、まるで怪奇談のように語って聞かせた。


「……うーん」


 劉赫は考え込むように歯切れの悪い返事をした。雪蓉はさらに続ける。


「広大な敷地で立派な建物だったから、身分は相当高いはずなのよ。後宮に興味がないあなたでも、いくらなんでも知ってるでしょ?」


「まあ、思い当たるふしがないといえば嘘になるが……」


「さっきからどうしてそんなに曖昧な返事ばかりなのよ。何か都合の悪いことでも……あっ!」


 雪蓉が、分かったという顔で、しかも少し引いているような表情をしたので、劉赫は眉を顰めた。


「その顔、俺がその妖女の元に通っていたと思ってるな。知っているだろうが、俺が後宮に行ったのは一度きりしかない。しかもそのお渡りは、女からの拒絶で終わった」


 言葉にして聞いてみると、劉赫が不憫に思えてくるが、拒絶したのが他でもない雪蓉自身なので口を噤んだ。


しかも、入室早々、棒で殴りかかろうとしたことは……思い出さないことにする。


「ああいう女性が趣味なのかと思っただけよ」


「その白くて柔らかそうなほっぺた、餅みたいに引っ張ってやろうか?」


 これ以上言うと、本当に頬を摘まれそうなので自粛する。


 劉赫はわざとらしく大きなため息を吐いて、その女性のことについて教えてくれた。


「恐らく、父帝の皇貴妃、麗影(れいえい)様だと思う。月麗宮(げつれいぐう)に今も住んでいると聞いている」


「どうして先代の皇貴妃様が後宮にいるの? 普通、帝が変われば後宮の妃妾たちは一新するのではないの?」


「住み慣れた土地を離れたくはないとおっしゃられるのでな。麗影様だけでなく、俺の母上も後宮にいるし……。


改めて考えてみるとおかしな話だよな。今まで後宮にまるで興味がなかったからなんとも思わなかったが」


「先代の皇貴妃ってことは、あの方は何歳なのかしら」


「父帝と同年代だから、御年七十四歳じゃないか?」


「嘘! 絶対違う! 人違いよ!」


 雪蓉は大きな声で否定した。腰も曲がってなかったし、髪もたわわで黒かった。あれで七十四歳というなら、雪蓉の中で常識が破壊する。


「俺もほとんど会ったことがないから分からないのだが、麗影様は心を壊してから時が止まったように老けることがないと聞いている」


「心を壊した?」


 劉赫は言いにくそうに、ほんの少し顔を歪めた。


「ああ。父帝と麗影様は幼馴染で互いに恋をして結ばれたと聞いている。


麗影様の身分も申し分なく、二人の婚姻は誰からも祝福されるものだった。


けれど、麗影様にはお子が生まれなかった。十年以上連れ添ってきたが、父の立場もあり、新たに妃を後宮へ入れた。それが俺の母上だ。


年若く輿入れした母上は、すぐに子供をもうけた。


そして父帝の愛情も、麗影様から母上へと移っていった。嘆き悲しんだ麗影様は、徐々に心を壊していったという話だ」


 麗影様に同情する気持ちは生まれるも、仕方のないことのようにも思える。

 一般の男性ならともかく、相手は皇帝なのだ。


「先代は一途だったのね。後宮にはたくさんの妃妾がいるのに、この人と決めた女性以外、相手にしなかった」


「真に一途なら、麗影様以外の女性と子供は作らないだろ」


「でも、世継ぎを作る責任があるわ。皇帝だもの」


「俺なら、誰がなんと言おうと愛した女性を守る。責任だろうが使命だろうが関係ない。愛した女性と共に生きていけるのならそれでいい」


 熱っぽく語る劉赫の言葉は、なぜか胸にじんときた。


「案外、情が深いのね」


「生涯愛する女性は一人でいい」


 劉赫は、真っ直ぐに雪蓉を見た。なぜか気恥ずかしくなって、雪蓉は目線を逸らした。


「愛する女性が見つかるまで女遊びはやめないと真実味がなくなるわよ」


「女遊びなどしていない」


 心外だ、と言外に訴えかけている。


「しようとしていたじゃない」


「いつ? 誰に?」


「私によ」


 劉赫は開いた口が塞がらないといった様子で、雪蓉を見つめた。


(まるで気が付いていないのか、俺の気持ちに)


 大きな石で殴られたような衝撃だった。


(好きだと伝えようか、今、ここで)


 しかし、告げたとしても振られることは明らかだ。断言してもいい。告白すれば間違いなく失恋する。というか、もうすでに振られている気がする。


「さあ、もう食べ終わったことだし、私は後宮へ戻るわ」


 雪蓉が立ち上がると、劉赫はハッとして顔を上げた。


「……もう、行ってしまうのか?」


 劉赫の切なげに見つめる瞳が物寂しくて、雪蓉の胸はぐっと詰まった。


「ここにいても仕方ないし、もう用は済んだし。それに、あまり長くいると私の身が危険だし」


 弁解するように早口でまくしたてる雪蓉に、劉赫は肩を落とした。長くいれば触れたい気持ちを自制することが難しくなるのも事実だった。


「……分かった」


 劉赫はまつ毛を伏せ、物憂げに頷いた。


 とても残念に思っていて、我慢をしている様子がありありと伝わってくる。


 雪蓉は自分がとても悪いことをしているような気持ちになってうろたえた。


両親と引き離され、心を閉ざした幼子が、雪蓉にだけ心を開いたにも関わらず、暗い寝屋に置いて出ていかねばならないような、後ろ髪ひかれる思いがする。


 そんな時雪蓉は、幼子が安心するように胸に抱きしめ、朝まで一緒に眠ってあげるのだ。


すると幼子は徐々に明るくなって、雪蓉以外の人にも心を開いていけるようになる。


しかし、それを劉赫にしてしまっては、話がおかしいことになる。


 劉赫の過去を知ってしまっただけに、彼も孤独を抱え、傷付いた心で必死に生きているのだと分かる。


なんとかしてあげたい気持ちは芽生えたが、彼はもう子供ではない。


「私の料理、美味しかった?」


 雪蓉が問うと、劉赫は一瞬ためらうように逡巡してから、コクリと頷いた。


「……ありがとう」


 とても素直にお礼の言葉が劉赫の口から出てきたので、雪蓉は驚いた。


そして、この部屋を出ることが名残惜しくなった。もっと一緒にいてあげたいという気持ちになった。


 でも、それは自分の役目ではない。


「どういたしまして。じゃあ、また明日」


 雪蓉は劉赫の顔を見てしまったら部屋から出られなくなりそうなので、下を向いたまま踵を返した。


 部屋から出ると、どっと脱力感が襲ってきた。劉赫と離れることに、とても気力を使ったからだ。それに、どうしてだが急に寂しくなって胸が痛んだ。


 苦しそうに胸元を抑える雪蓉を見て、部屋の外で待機していた明豪が声をかけた。


「どうした、具合でも悪いのか?」


 明豪の存在をすっかり忘れていた雪蓉は、慌てて顔を上げた。


「いえ、なんでもないの」


 劉赫の顔を頭から降り払い、歩き出した。


(私の役目は、劉赫に美味しい食事を食べてもらうこと。私ができるのはそれしかない)


 雪蓉はまるで自分に言い聞かせるように胸の中で呟いた。


(昔は臆病で甘えん坊だったと聞いて、今とは正反対と思ったけれど、昔の名残はなくなったわけではなかったのね。あんな顔を見たら、放っておけなくなる)


 母性本能をくすぐる男だ。しかも無自覚だからたちが悪い。


普段は弱いところを一切見せず強気な態度だから、その開きがさらに心を掴む。


(私、なにやってるんだろ。早く帰らなきゃいけないのに)


 小さな女巫たちと、仙婆の顔を思い出した。


(ごめんね、皆。私、もう少しここにいるわ)


 劉赫をこのままにして帰れない。彼の心の傷が癒えて、雪蓉以外が作った料理でも美味しいと感じられるまで……。


 それは、雪蓉が帰りたい一心でというわけではなく、劉赫のことを心から案じての気持ちだった。

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