第十話 闇の記憶

 大廟堂(だいびょうどう)の天井には、麒麟(きりん)、鳳凰(ほうおう)、霊亀(れいき)、応竜(おうりゅう)といった四霊の生き物が鮮やかに描かれている。


板張りの床には何も置かれておらず、ただ広い空間が広がるばかりだ。


 その大廟堂の中に、四人の年若い男たちが固唾を飲んで一点を見つめている。


 若者はいずれも年が近く、二十代頃かと思われるが、一人だけ少年が混じっていた。


まだあどけなさの残る少年は、恐怖で怯え震えている。


そして、彼を守るように三人の青年は盾となり、巨大な神龍を睨み付けていた。


 大廟堂の片隅に現れた神龍は、大蛇のような長い肢体に、鰐(わに)のように獰猛で大きな口を持ち、五本の鋭い爪には宝玉が握られている。


 神龍は大廟堂を出ようと、天井に頭を打ちつけたり、壁に突進したりしている。己の意思を見失い、混乱しているようだ。


『大丈夫だ、劉赫。心配ない、私が治めてみせる』


 恐怖に怯える一番下の弟に向かって、一番上の兄は胸を張り、一歩前に出た。利発で屈強な体を持つ頼もしい長男は、腰に差した大剣を抜いた。笑みを浮かべているが、額には小粒ほどの汗が浮き出ている。


『さあ、神龍よ! 私の体に宿るがいい!』


 一番上の兄は、大廟堂に響き渡る大声を張り上げた。神龍が声に気付き、一番上の兄を見下ろす。


 太剣を振り上げ、神龍に向かって突進していった一番上の兄を、神龍は怒りの形相で一飲みした。


 あっという間に消えた一番上の兄を見て、劉赫は悲鳴を上げた。


『創紫(そうし)兄ちゃん!』


 声を揃えて叫んだのは、双子の兄弟だ。


彼らは同じ顔をしているが、雰囲気が正反対であり見間違える者はいない。


二番目の兄は、女性のように線が細く美しい男で、三番目の兄は、やんちゃそうな瞳に、野性的な雰囲気を醸し出している。


『うああああ!』


 断末魔のような叫び声を上げながら、神龍に剣を突き刺したのは、野性的な三番目の兄だった。


 しかし神龍は、針が刺さった程度にしか損傷していない。神龍の目が、三番目の兄に向けられる。


『甲斐(かい)!』


 女性のような面立ちの二番目の兄が、三番目を助けるために身を盾にすると、神龍は大きな尻尾を払い、二人を壁に打ち付けた。


二人は衝撃で、首が後ろ側に曲がった。あっという間に息絶えた二人の兄を見て、劉赫が叫ぶ。


『甲斐兄! 春摂(しゅんせつ)兄!』


 神龍は無情にも、息絶えた二人を食べる。非情で野蛮な神龍の姿を見て、吐き気がした。


 こんな化け物を神と敬っていたのかと劉赫は怒りを覚える。


しかし、怒りは力となって湧いてはこなかった。強い兄をいとも簡単に殺した神龍に、自分が勝てるはずがない。


 劉赫は、大好きな兄たちを失った悲しみと、確実に殺される恐怖で、涙が溢れて止まらなかった。


 五本の爪に宝玉を持った神龍は、最後に劉赫を瞳に捕らえた。


(ああ、死ぬ……)


 劉赫は抗う気力を失っていた。


床に座り込みながら、神龍が大きく口を開き、自分に向かってくるのを、身動き一つせず見つめていた。


悲鳴を上げる。


それが、幼き頃の劉赫の悲鳴なのか、夢から覚め寝台の上で寝ている劉赫の口から発せられたのか、彼自身にも分からなかった。


(また、あの時の夢か……)


 劉赫は上半身だけ起き上がり、前髪をかきあげた。動機と息切れが激しい。背中や額にも汗をびっしょりとかいていた。


 ふと、寝台の横の小さな卓子を見ると、水差しと杯が置かれていた。水差しは、磨き上げられた白色の陶器で、朝の光の反射できらりと光った。


 そして、陶器に映った自分の顔を見て、劉赫は青ざめる。


光と陶器の形でぐにゃりと揺れている自らの首より上の顔は、兄たちを殺した神龍の顔だった。


 体だけ人間で、顔は神龍の姿を見て、劉赫は怒りに任せて水差しを投げる。


大きく飛び、壁に当たった水差しは、甲高い悲鳴のような音を立てて砕け散った。


 劉赫は、自分の顔を両手で押さえて俯く。


手の平の感触は、人間の顔だった。鱗もなければ、鋭く尖った口先もない。自分の顔は神龍ではないと頭では分かっているが、気持ちが悪くて仕方なかった。


 大好きな兄を殺した憎き敵が、自分の体の中にいると思うと、自分が呪われた醜い化け物のような気がするのだった。


   ◆


「おはよう、朝餉持ってきてあげたわよー!」


 陽気な雪蓉の声と共に扉が開き、お盆を持った宦官が臥室に入り、丸卓子に二人分の朝餉を置く。


 そそくさと退出する宦官に、「あなたも一緒にどう?」と声をかけるが、宦官は雪蓉の言葉に返事もせずに出て行った。


「あの人、私が話し掛けても絶対答えないのよ」


 と雪蓉は不満そうな顔を浮かべる。


 元気そうな雪蓉を見て、劉赫は心が晴れていくのを感じた。


「あら、床が濡れてる。どうしたの?」


「……別に、何でもない」


 ふいっと劉赫は顔を背ける。割れた水差しは、官吏がすぐに掃除した。しかし、大量に零れた水は、まだ乾いてはいなかった。


(何でもないってことはないでしょう。よく見ると壁が凹んでるし)


 一体何があったと怪しむも、劉赫は答えてくれそうもない。それに、なんだかいつもより元気がない。


「まあ、いいわ! それより冷めないうちにいただきましょう」


 対面し、腰をかけ、二人で朝餉を共にする。


 雪蓉が劉赫の食事を作るようになってから、一週間が経った。毎日顔を合わせているので、劉赫の少しの変化も勘づくようになっていた。


 少し青ざめていた顔も、雪蓉の料理を食べるとみるみるうちに赤みが差す。


(本当、美味しそうに食べるわよね。でも、美味しいとは言わないんだけど。褒め言葉が照れくさいのかしら)


「ねえ、美味しい?」


 雪蓉は小首を傾げて、ニヤニヤしながら聞いた。


「……見れば分かるだろ」


「分からないわよ」


 数秒黙ったのち、小さく呟いた。


「……まあ」


「まあってなによ! 失礼な男ね!」


 雪蓉は怒りながら、自分が作った料理を口にする。劉赫の口から褒め言葉が出るのを諦めたようだ。


(……美味いに決まってるだろ)


 劉赫は胸の中で呟く。心の底から思っていることだけに、口にするのが気恥ずかしい。とても大切な思いだからこそ、気軽に口には出せないのだ。


 雪蓉をとても大事に思っていることも、本人には伝えられない。


 雪蓉は食べながら、厨房の設備がとても素晴らしいと褒めたたえた。食材も選び抜かれた一級品ばかりで、作るのはとても楽しいと。


 饒舌に喋る雪蓉の話を、劉赫は適当そうな相槌を打ち、聞いている。


 いいかげんな相槌なので、聞いているふりをしているのかと思いきや、劉赫は案外楽しんでいた。


 話し好きの雪蓉のおしゃべりを、しっかりと聞き心に留めている。どんなくだらないことだって、劉赫には関係のない話だって、彼女と会話するのは楽しい。


「そういえば、不思議なことが一つあって……」


「ん?」


「鏡がないのよね。後宮には小さな手鏡はあるけど、厳重に管理されていて、むやみに部屋に置いては駄目って言われたの。それで意識して鏡を探していたんだけど、後宮の外にも見つからないの」


「あー、それは俺が鏡嫌いだからだ」


 鏡嫌い⁉ なんだそれは。雪蓉は心の中で突っ込む。


「どうして⁉」


「自分の顔を見たくない」


 劉赫は淡々と料理を口に運ぶ。


「前にも言ってたわよね。自分の顔が嫌いだって。鏡がなかったら不便じゃない? もしも顔に汚れがついていたらどうするの?」


「官吏が気付いて拭くだろ」


「えー、でも汚れなら言いやすいけど、鼻毛とか出てたら指摘しづらくて放置されてるかもしれないじゃない」


「あいにく鼻毛は出ない」


「分からないじゃない。寝ぐせがびょーんとか海苔が前歯にくっついてたりとか」


「お前と一緒にするな。それに、そんなくだらないことよりも、自分の顔を見る方が耐えられない」


 苦悶の表情を浮かべる劉赫に、雪蓉は押し黙った。


「自分の顔が嫌いだなんて、まるで自分のことを嫌いって言っているみたいよ……」


「嫌いなんて生温い言葉では足りないな。殺したいほど憎い」


 物騒な言葉に、雪蓉は自分が言われたわけでもないのに傷付いた。


「自分が憎いだなんて……お母さん、悲しむわよ?」


 劉赫は、雪蓉の顔を見ず、料理を一心に見下ろしながらぼやいた。


「……俺よりも、母の方が何倍も、俺の顔が恐ろしくて憎いだろうよ」


 劉赫がとても辛そうに見えたので、それ以上、雪蓉は何も言えなかった。


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