第二話 死にかけの男

饕餮は食事時以外は、めったに起きてこない。だから、十三年間女巫として毎日この洞窟に通っているが、はっきりと姿を見たことはなかった。


 人間は結界を感じないので、出入りすることは自由だ。だが、しめ縄の中に入ったが最後、饕餮は匂いを嗅ぎつけ、頭からひと息に食らうだろう。


 手を入れることも怖いので、大きな長い棒で食事をしめ縄の中に押し込む。全てを入れ終わり、ほっと一息をついた。


「雪姐、早く行こう」


 雪蓉の袖を引っ張り、小さな女巫たちは怯えた眼差しで見上げている。


 いくらしめ縄の外には出られないと分かっていても、怖いのだ。雪蓉でさえ、洞窟の中に入ると独特の緊張感に包まれる。


「ええ、そうね。早く出ましょう」


 いびきの音が止まる。饕餮が、料理の匂いに気が付いたのだ。


 しめ縄に背を向け、小走りで外へと向かう。小さな女巫たちは、全力で走っている。


 ふと、気になって足を止めた。おもむろに振り向くと、闇の奥に光る二つの目が見えた。小さな丸い宝石のような目が、雪蓉を捉えていた。


 ゾクリと背筋が凍り付く。見つめ合ったまま、体が動かなかった。


 すると、小さな目に不釣り合いなほど、大きな口が開いた。四本の大きな鋭い犬歯と、歯に絡まった唾液が糸引き、闇の中に白く光る。大きく開いた口は、雪蓉の身長ほどの大きさがあった。


 あまりの口の大きさに、「ひっ」と短い悲鳴を漏らし、逃げるように洞窟を出る。明るい日差しを浴びて、ようやく身の安全を感じた。


「雪姐、大丈夫?」


 息を荒げている雪蓉を見上げ、心配そうに小さな女巫が訊ねる。


「ええ、大丈夫。何でもないわ」


 小さな女巫の頭を撫でて、笑顔を向ける。けれど、心臓は早鐘を打つように鳴り続けていた。あの大きな口に飲み込まれたら、まず助からないだろう。雪蓉は、自分が饕餮に食われる姿を想像して、ぞっと身震いした。



 女巫としての仕事を終えた雪蓉たちだったが、まだゆっくり休めるわけではない。小さな女巫たちには、豚や牛のお世話を任せ、雪蓉は水を汲みに川へと向かった。


 川へ行くには、当然山を下りなければいけない。片道一時間で山を下り、重い水桶を担いで山を登る。大変な肉体労働だったが、雪蓉はもう慣れたものだった。


 川に着き、水桶を小石が敷き詰められた地面に置くと、川原に大きな黒い物体が横たわっているのを発見した。


「熊かしら。やったわ、今日は熊鍋よ!」


 動かないので死んでいると思った雪蓉は、ほくほくしながら近付いて行くと、どうやら熊ではないことに気が付いた。


「嘘! 人間⁉」


 慌てて駆け寄る。横たわっていたのは、ボロボロの服を着た男だった。川原に打ち上げられて、数時間はたっているのか、服も髪もほとんど乾いていた。


しかし、衣は所どころが破けていて、血がつき乾いたのか赤黒く染まっている。黒髪はグシャグシャで、わかめのように顔にへばりついている。


死体だと思っていた雪蓉だが、男の胸が小さく上下に動いているのに目が向いた。


(生きてる!)


男の口元に頬を寄せると、かすかに吐息が感じられた。雪蓉は迷うことなく、男を背負うと、男の足を引きずるようにして山を登り始めた。



・・・・・・


男は、重い扉を押し開くように、ゆっくりと目を開けた。


新藁の日なたの匂いと、ふかふかな心地良い感覚に包まれている。もう二、三度目をしばたかせると、大きく深呼吸をした。


(……生きてる)


 死を覚悟した。もう駄目だと思った。それでもいいかと諦めた。だが、〈俺は死ねなかった〉らしい。


「あら、やっと起きたのね」


 聞き慣れぬ人の声がして、首を横に傾けると、簡素な身なりをした女が横に座っていた。


 ほのかに濃紫色を帯びた柔らかな長い黒髪に、瑠璃色の大きな瞳。白磁のように滑らかで美しい肌に目を奪われる。


 まるで、天女のようだと思った。着飾らなくても十分に美しいその女性は、男と目が合うとにっこりと笑った。


 そして、男の額に置いていた布を、湿らせた新しい布と交換する。額からひんやりとした心地いい冷たさが伝わる。


「あなた、三日三晩高熱を出して寝続けていたのよ」


「お前が助けてくれたのか?」


「まあね。川原で横たわっていたから、ここまで運んできたの。あっ、馬小屋で寝かせていたのは悪いと思っているわ。でも、仕方なかったのよ。ここは男子禁制で、男を運んできたなんて知られたら怒られちゃうから。馬小屋とはいっても、馬の餌の藁を仕舞っている場所だし、別に臭くないでしょ?」


 そう言われて、改めて自分のいる場所を見た。確かに藁しかない古びた小屋だ。だが、新藁なのか、独特な匂いがするが嫌な匂いではない。


「すまなかった。後で礼はする。……痛っ」


 起き上がろうとすると、足に痛みが走った。


「何やってんのよ! まだ寝てなさい! 足はたぶん捻挫しているだろうから、しばらく歩けないわよ」


「それは困る。早く戻らねばならない」


「困るっていったって、仕方ないでしょ。あんた死にかけてたんだから、もう少し体力が回復してからじゃないと帰れないわよ」


 女の勢いに圧倒されて言葉が出ない。天女のように可憐で美しいが、中身は口が悪く気が強いらしい。


 俺の身分を知らないとはいえ、こんな強い言い方をされたのは久しぶりだった。いや、初めてかもしれない、と男は思った。


「仕方ない。もう少し、世話になる」


 大人しく横になった男に、女が笑みを浮かべる。その美しい微笑みに、なぜだか胸が大きく一鳴りした。


「女……名前は……?」


「あんたって凄い回復力。傷も深かったのに、どんどん治っていって……」


 小さく呟いた男の問いに気が付かなかったようで、覆いかぶさるような女の声にかき消された。


「まるで、人間じゃないみたい」


 女の悪気なく放った一言に、絶句する。


 男の様子を見て、女は慌てて「やだ、冗談よ!」とバシバシ腕を叩いてくる。


「痛い……」


 小さく抗議しても、女はまるで気にしない。ガサツな女だ。身なりを見る限り、身分も相当低いのだろう。


「ねえ、どうしてあんな傷を負っていたの? あれは川で流されてできたような傷じゃなかったわ」


「…………」


 黙り込むと、「言いたくないなら、言わなくてもいいけど」と女は目を逸らし、あっさりと引き下がった。


「それよりも、お腹空いてる? 何か食べれそう?」


「食べようと思えば……」


「何よ、それ。まあいいわ。待ってて、今作ってくるから」


 そう言って、女は出て行った。一人残された男は、天井を見上げて、また大きく深呼吸をする。


(……俺は、死ぬことさえも許されない)



 しばらくすると、温かな湯気をたてる小さな土鍋を、お盆に乗せて持ってきた。土鍋には、トロトロに煮込んだ米と野菜が入っていた。米がきらきらと輝き、緑の茎や葉が彩りを添えている。


(美味そうだな)


 何年ぶりだろう、口の中に唾液が広がった。


 女は土鍋からお椀に少量よそい、ふうふうと息を吹きかける。


 そして、レンゲですくったお粥を俺の口に運んだ。口を開けると、野菜のいい香りがして、舌の上に温かな粥が乗せられた。


 ゆっくりと咀嚼する。口の中にふわっと奥深い味わいが広がる。絶妙な塩加減と、とろける柔らかさ。思わず、目を見張った。


「……味がする」


「そりゃそうでしょう。残った豚足で出汁をとったの。しっかり下処理しているから、臭みもないでしょ」


 俺は、コクリと頷き、口の中で十分に味わったお粥を飲み込む。


「もっとくれ」


「はいはい、熱いからゆっくりね」


 夢中になって全てを平らげると、急激に眠気が襲ってきた。目が虚ろになっているのが自分でも分かる。瞼がとても重い。そんな男を見て、女は安心したように目を細めた。


「じゃあ、ゆっくり寝るのよ。また明日」


 男は返事もせずに、睡魔に引っ張られるように眠りに落ちた。腹が温かく、気持ちが満たされている。


 また明日……。夢の中で、女に応えた。

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