第4話 大葉クロニクル(作:月丘ちひろ)





 都市合併で生まれた都市、雨ノ森。

 急速な開発により、若者が集まるようになったこの都市の南部には、開発前の面影を遺したアーケード型の商店街がある。

 以前はアーケードの下をたくさんの人が歩いていたが、都市開発とともに人々は北部に流れ、現在は多くの店がシャッターを降ろしている。そんな状態でもスピーカーから音楽が流れ、商店街に哀愁を漂わせている。

 夕日が地平線に沈みかけた頃。

 そんな商店街の入り口前に一台のタクシーが停車した。車内では運転手が領収証を切り、乗客の男に料金を請求している。

 ふいに運転手は乗客の男に訪ねた。

「商店街の音楽、何を流しているんでしょうね」

 乗客の男は高級感のあるスーツから財布を出し、運転手に代金を渡した。

「流れているのは童謡だ」

「へぇ、てっきり外国の曲かと思ってました」

 男は切れ長な目を細め、苦笑する。

「スピーカーの質が悪くて聞き取れないんだけど。よく聞くと季節に併せて音楽が替わるんだ」

 乗客の男は鞄を持ってタクシーを降りた。

 商店街に入る。

 夕暮れ時だが人通りは少ない。

 男は入り口のそばの喫茶店で足を止める。

『喫茶・時間旅行』

 店名の通り、過去にタイムスリップしたようなレトロな外観をしている。店のデザインこそ時代を感じるが、細かいところまで手入れが行き届いており、都市北部の喫茶店よりも品を感じる。

 男はネクタイを緩め、この店の扉を開けた。

 カラン、とベルが鳴る。

 カウンターではウェイター服を着た髪をオールバックにした男性がグラスを磨いている。

 この店のマスターだ。

 マスターは男を見ると目を細めた。

「久しぶりですね、郷愁ごうしゅうくん」

 郷愁と呼ばれた男は、マスターに微笑んだ。

 郷愁は店に入り、『予約席』と書かれたプレートの置かれたテーブル席に腰を下ろす。程なくして、マスターがコーヒーを運んだ。

「最近は忙しそうだ」

大葉おおばが無茶ぶりするせいです」

 郷愁は鞄から端末を出した。

 そしてディスプレイを眺め、

「大葉は遅れてくるそうです」

 郷愁は端末を操作後、鞄からいくつかの書類を取り出した。

 郷愁はコーヒーを一口飲んだ。

 深みのある香りが鼻孔を吹き抜ける。

 その味は三十年前から変わらない。

 そのせいだろうか、郷愁の脳裏に二十年前の記憶がゆったりと蘇った。


       ☆


 当時の秋山郷愁あきやまごうしゅうは高校一年生だった。

 彼は学業やスポーツ、アルバイトをそつなくこなすことができるが目標を持っておらず、単調な学生生活を過ごしていた。

 彼がしていることといえば、放課後は高校近くの図書館で勉強することくらいだった。図書館は空調が整っており、快適過ごすことができたし、何よりも少し特別なことをしているようになる。

 そのはずだった。

 だけどある夏の放課後、郷愁が図書館に向かうと席が埋まっていた。期末テストが近づいていたこともあり、生徒達がテスト勉強に訪れるようになったのだ。郷愁は少しの間待ったが、席が空く気配がなかったため、仕方なく場所を移動することにした。

 図書館は雨ノ森市の北部にある。北部には若者が集まりやすいため、喫茶店やファミレスに移動しても席が埋まっている可能性は十分に考えられる。そう考えた郷愁は炎天下の蒸した空気に晒されながら、南部の商店街に向かった。こうして彼が足を止めたのが、商店街の入口付近にある喫茶店だった。

『喫茶・時間旅行』

 名前に負けないレトロな外装をしているが、細部まで手入れが行き届いており、そういうコンセプトの新店舗と言われても信じられる雰囲気がある。

 郷愁は窓から店の中を覗き、テーブル席が空いていることを確認する。コーヒーの値段が比較的高価ではあったが、炎天下に晒されて夏服が汗ばんでいたので、飛び込むように店の扉を開けた。

 コーヒーの香りの混ざった冷風が吹き抜けた。

 店内もレトロな雰囲気が漂っている。

 カウンターにはウェイター服を着た、オールバックの髪型の男性がグラスを食器を磨いていた。雰囲気からしてこの店のマスターであることを郷愁は察した。

 マスターは郷集と目を合わせ、淡々と尋ねた。

「待ち合わせですか?」

「いえ、一人です」

「では空いてる席にどうぞ」

 郷愁は怪訝な表情を浮かべ、店の奥へ進む。

 どうして待ち合わせだと思われたのか、それが彼の心中に引っかかっていた。だけどその理由は店の奥のテーブル席に向かった際にわかった。

 一番手前のテーブル席に郷愁と同じ制服の男子生徒が座っていた。大柄な図体に赤茶色に染まった髪に、校則無視の赤いインナーを着ている。

 郷愁は思わず頬をヒキツらせた。その生徒は不良と噂される郷集の同級生だったのである。

 名前を大葉おおばかおるという。

 彼は毎日のように遅刻し、教師に提出物のノートを催促されても応じない。それだけではなく、生徒を恫喝したり、学校外では中学生をどこかへ連れ込んでいる噂も流れている。

 郷愁は彼に苦手意識を持っていた。

 とはいえども、今更店を出ることも気が引けるため、彼は一番奥のテーブル席に腰を下ろし、マスターにコーヒーを注文した。コーヒー一杯だけ飲んだら店を出ようという計画だった。

 だけど郷愁の計画は破綻した。大葉が荷物を持って、郷愁のテーブルに相席してきたからだ。

 大葉はニコリと笑い。

「秋山だろ? 声かけてくれればいいのに」

「邪魔しちゃ悪いと思ったんだよ」

「そっか気遣い上手だな!」

 大葉はガハハと豪快に笑った。

 郷愁はそんな大葉を観察する。

 彼の手には問題集が握られている。

「大葉はここに勉強しにきたのか?」

「そうなんだ。実は勉強を教えて欲しくて声をかけたんだ」

 大葉は手に握る数学の問題集を開き、郷愁に差し出した。郷愁は問題集に目を通し、息を飲んだ。テキストに問題の解き方などが丁寧に書き込まれていたからだ。

「これ、大葉が書いたの?」

「板書写していると教師の話が聞けないだろ。だから教科書や問題集に書き込みを入れて補足するようにしてるんだ」

「じゃぁノートを出さないのって……」

 大葉はポリポリと頭を掻いた。

「書き込んだ教科書を提出しようとしたら、認めてくれないから、じゃあいいや、ってなった」

「関心・意欲・態度的な評価が落ちるのでは?」

「教師の機嫌より、テストが大事だろ。頼むよ」

 大葉は郷愁に手を空わせた。

 その姿を見て、郷愁は思わずクスっと笑った。

 普段の大葉の様子から受ける印象とかなり異なるように感じられたのだ。何よりも人に媚びない考え方が郷愁の気持ちをスカッとさせた。

「いいよ。俺にわかる範囲ならさ」

 こうして郷愁と大葉は勉強することになった。

 結論から書けば大葉は賢かった。

 郷愁が話している間は必ず耳を傾け、話が終わると理解できなかった箇所を質問する。納得できなければ食い下がり、納得できればテキストにメモを走らせる。

 郷愁はコーヒーを飲み終えたら店を出るつもりでいたが予定を変更した。コーヒーをおかわりし、大葉と勉強することにした。勉強は捗り、最終的に閉店の時間まで滞在した。

 レジで支払いを済ませ、商店街を出る。

 大葉は大きく伸びをした。

「勉強めっちゃ捗ったわ」

 郷愁は同意するように頷いた。

 大葉が質問をよくしたから、結果的に一人でいるより問題に集中する時間が増えていた。

「じゃぁ。そろそろ帰るな」

 郷愁は大葉に手を振り、家路を歩いた。

 そんな郷愁の背中に大葉は声をかけた。

「また勉強を教えてくれ、郷愁!」

 郷愁は思わず振り向いた。

 大葉は既に郷愁と反対方向に歩いていた。 


 この日を境に郷愁と大葉は放課後に勉強をするようになった。学校内では大葉は相変わらず、遅刻するし、教師からのノート提出の催促は無視するし、同級生を鋭い視線で威圧している。郷愁も普段から付き合いのある生徒と行動するため、二人が話すことはあまりない。

 だが放課後、郷愁が荷物をまとめて教室を出ると大葉が人なつこい子犬のように歩み寄り、それを合図に二人は学校を出る。

 向かう先は決まって『喫茶・時間旅行』だった。二人は入店すると指定席のように店内一番奥にあるテーブル席に座り、勉強を始める。勉強を初めて最初のうちは大葉が郷愁に質問をして、テキストに書き込みを入れる流れがほとんどだったが、数日もすると大葉の質問は減っていき、やがて郷愁が大葉に質問する場合も生じた。

 こうして二人が勉強仲間として互いを高め合ううちに、『喫茶・時間旅行』のマスターも、二人のことを店の常連と認識するようになり、彼らが座る席に『予約席』というプレートを置くようになった。郷愁と大葉も当然のようにこの予約席を使うようになった。

 その頃には二人の仲も深まり、勉強意外の話題で雑談をするようになった。新しくできたラーメン屋の話。最近遊んだゲームの話。マンガ・映画・音楽の話……等々、話してみればお互いがよう知る話題もあり、勉強していることを忘れて盛り上がることもあった。これを機に、二人は映画を見に行ったり、帰宅後にオンラインゲームで一緒に遊ぶようになった。

 二人は間違いなく友人だった。

 こうした状況でも、大葉は学校では人を威圧するような雰囲気を漂わせ、誰かと一緒に行動する気配はない。仲の良い郷愁にさえ、放課後になるまでは話しかける気配を見せない。そのせいか、学校では彼の悪い噂を聞くことは多かった。

 少なくとも郷愁が大葉と過ごした時間の中で、同級生達が噂するような、他校の生徒を恫喝する行為はしていない。それなのに、あることないこと噂が流れ、同級生達に同意を求められる。

 郷愁は同意もしたくないし、かといって同級生に嫌われたくもないから、曖昧に笑うことしかできなかった。

 郷愁は大葉が悪く言われることが悔しかった。

 だから郷集は『純喫茶・時間旅行』で勉強していたとき、尋ねた。

「よく遅刻するけど、朝は何時に起きてるの?」

「俺は朝六時起きだ。朝型人間なんだ」

「俺より早いんだけど。何で遅刻するんだ?」

「ああ。妹を学校に送っているんだ」

 大葉はポケットから端末を取り出し、郷愁に見せる。ディスプレイには黒髪の大葉と、セーラー服姿のポニーテール少女の姿が写っている。少女は白い杖を握りしめ、微笑んでいた。

「可愛い妹だな」

「だろ? 去年は同じ中学に通っていたから、一緒に登校していたんだだけど。その延長線で今も学校まで送っているんだ」

 郷愁は深くため息をついた。

「みんな大葉のこと不良だと思ってるよ?」

 大葉は鼻で笑った。

「勝手にそう思わせておけばいいだろ」

 郷愁は眉間に皺を寄せた。

「大葉はさ、学校で誰とも話さないだろ。それじゃずっと誤解されたままだじゃないか」

 大葉はコーヒーを飲み、テーブルに叩きつけるように置いた。

「どうしようと俺の勝手だろ?」

「お前が傷付かなくても俺が傷つくんだよ!」

 郷愁は席を立ち、荷物をまとめた。

「今日は帰る」

 郷愁は鞄を持って、そのまま店を飛び出した。

 本人が気にしていないというのならそれでいいはずなのに、どうしても納得できずにいた。

 それから郷愁は帰宅し、夕食を取り、風呂に入った。どれもストレス発散のつもりでいたが、胃はキリキリと痛むばかりだった。


 翌日。

 郷愁が学校に登校すると同級生達が大葉の悪い噂話をしていた。郷愁が中学生の女子を連れこんで乱暴したというのである。

 大葉のことを良く思っていない同級生達はその言葉を聞いて、ロリコンだとか、犯罪者だとか罵ってゲラゲラと笑った。もちろん彼らは郷愁にも同意を求めた。

 郷愁は少し間を置いてぽつりと言った。

「それ、大葉の妹だよ。乱暴したってのはさすがにデマじゃない?」

 すると教室内が凍り付いたように静まった。

 始業のチャイムが鳴る。一限目の授業は教室移動になるため、郷愁は教材を持って教室を移動した。そして次に教室に戻ったとき、郷愁の鞄から教科書が無くなっていた。郷愁が鞄の中を探っていると、周囲からクスリ笑う声が聞こえる。

 郷愁は自分の教科書が隠されたことを悟った。

 しかし探す時間はなく、次の授業は教科書なしで受講することになった。この日の授業はは大葉と勉強した範囲だったので、予習用のノートと教師の話を照らし合わせれが、理解することができた。

 こうして二限目の授業をやりすごした頃、大葉が教室にやってきた。大葉はいつものように生徒から距離を置くように教室に向かい、自席に着席した。そこで大葉は何かに気付き、机の中に手を入れた。

 取り出したのは二限目の授業の教科書だった。

 大葉は名前を確認し、郷愁の席に足を運ぶ。

「郷愁、お前のだろ?」

「ああ。ありがとう」

 郷愁が教科書を受け取った。教科書の表示には油性ペンで、金魚の落書きがされている。

 郷愁は溜息を漏らした。それを見て、何人かの生徒が息を潜めるようにヒソヒソと笑っている。

 大葉はヒソヒソ笑う生徒の所に歩み寄った。次の瞬間、大葉は生徒の胸ぐら掴み無理矢理立ち上らせ、教室後方のロッカーに突き飛ばした。勢いよく突き飛ばされた生徒はロッカーに叩きつけられ、呻いた。当たりどころが悪かったのだろう。ロッカーが凹んでいた。

 大葉は間髪いれずに、呻く生徒の胸ぐら掴み、

「落書きに関与した奴を全員教えてくれない?」

 凄みの利いた大葉の声に、生徒が震え声で応えた。彼の口から出た名前は、郷愁が普段から仲良くする生徒の名前ばかりだった。

 大葉は名前の確認後、ポケットからメモ帳を取り出し、ペンを走らせる。そしてメモ帳を閉じると、教室中に響くような声で言った。

「全員の名前を把握した。次に何かあれば、頭蓋骨がロッカーの凹みのようになるからな。まぁ、心配そうな顔をするな。余計なことをしなければいいんだ」

 そのとき、教室の扉が開き、三限目の教師が入室した。教師は凹んだロッカーと呻く生徒、生徒を見下ろす大葉を見て血相を変えた。

 三限目の授業は自習となり、大葉は学校にきて早々に教師に職員室へ連行された。その間、郷愁の教科書の落書きに関与した生徒達は青ざめた表情で顔を俯かせていた。もちろん、これ以降、彼らは郷愁を避けるようになり、郷愁も一人で過ごすことになった。


 その日の放課後、『喫茶・時間旅行』の一番奥の予約席で大葉がコーヒーを飲んで頬をむくれさせていた。

「俺が怒鳴られてあいつらは注意だけだった」

 一方、同席者の郷愁は淡々とした表情で、

「暴力振るうとそっちが目立つんだよ。大葉はもっとクールな奴なんだと思ってただけどな」

 大葉は顔を俯かせる。

「郷愁、お前が昨日怒った理由がわかった。俺もお前が何かされているのを見て頭に血が上った」

「俺のために怒ってくれただろ? ありがとう」

「だが、そのせいで学校で孤立しているだろ?」

 郷愁はクスリと笑った。

「いいんだ。むしろ同調圧力もなくなって、生活しやすくなったくらいだよ」

 それに、と郷愁は続けた。

「学校では大葉に話し相手になってもらうしさ」

「え?」

「俺は一人なんだから、大葉しか話せる相手がいないんだよ。なぁ、いいだろ?」

 大葉は豪快に笑った。

「しょうがない奴だな。俺が話相手になってやろうじゃないか!」

「ああ。頼むよ」

 大葉は納得したように頷いた。

「それはそれとして、お前に手を出した奴らの方が罰を受けていないことが気に入らん。あいつらをギャフンと言わせてやりたい」

「ロッカーに叩きつけられて、ギャフンと言ってたと思うけど?」

「そういうことじゃない。もっと精神的に敗北させたいという意味であってだな……」

 そのとき、カウンターからマスターがサンドイッチを運んできた。

「物騒なお話ですね」

 大葉はハッとした。

「すまない、マスター。つい熱くなった」

 大葉が頭を下げると、マスターが微笑んだ。

「相手に敗北感を与える方法ですか。私は一つだけ思い浮かびました」

「おぉ! どうすればいい?」

「大葉くんが相手よりも偉くなって使う立場になればいいんですよ」

「偉くなる? 総理大臣になれと?」

「店長とアルバイト。会社の社長と従業員。教員と生徒……色々あります」

 大葉はマスターの言葉に感嘆した。

「面白そうだ。あいつらより偉くなって、顎で使ってやろう」

 大葉は郷愁に視線を向けた。

「そういうわけで郷愁。まずは期末テストからがんばるぞ!」

 郷愁はコクリと頷き、

「良い点採って、あいつらに恥掻かせよう」

 こうして郷愁と大葉を意気投合した。

 二人は期末テストに向け、互いに質問し合い、教え合い、テスト範囲の知識や応用方法を着実に固め、期末テストに臨んだ。

 成果ははっきりと形になって現れた。クラスで敬遠されていた二人が、期末テストの総合成績発表で上位五位の中にランクインした。

 その日を境に郷愁と大葉に対するクラスメイトの態度が少しずつ軟化した。

 大葉は学校内で郷愁と話すようになったことを機に、不良のイメージが解消され、クラスメイトに話しかけられるようになった。

 郷愁も大葉と過ごす中で活き活きとするようになり、クラス内で目立つ立場になった。だけど郷愁本人はクラス内の評価を知ることはなかった。

 郷愁は大葉と目標に邁進することに夢中になっていた。

 期末テストの次は年末テストの勉強を『喫茶・時間旅行』で始め。年末テストでは大葉と二人で学年の成績優良者として評価された。

 翌年には大葉が生徒会長になると言い出したため、郷愁は生徒会選挙のために大葉の生活態度改善や推薦人集め、応援演説に奮闘し、大葉を生徒会長の地位に押し上げた。

 大葉の生徒会運営は破天荒極まりなく、幾度も学校の経営陣と対立することになったが、そのたびに校内は盛り上がり、大葉が会長を勤めた期間はよくも悪くも生徒の活気に溢れ、後々生徒の自主性が尊重される進学校になった。

 この裏で大葉は学校内にバリアフリーに関わる設備や制度の導入を学校側に促した。これらの設備や生後がこの学校から著名人を排出するきっかけにもなった。


           ☆


 喫茶・時間旅行の扉のベルがカランカランと鳴り、郷愁は三十年前の記憶から我に返った。

 扉を向けると、髪の薄い大柄の男が息を切らせていた。男は郷愁と対面するように腰を降ろし、マスターにコーヒーを注文する。そしてテーブルのナプキンを額に当てた。ナプキンはまるで油取り紙のように脂っぽい汗を吸い取っていく。

 郷愁はそんな男の姿を見てクスリと笑い、端末で男の姿を撮影した。

「いい写真が取れたよ。大葉市長」

「脂ぎったおっさんの写真をどうするんだ?」

「妹さんへのプレゼントだよ。明日退院だろ? 格好つけてばかりの兄よりも、素の兄を見せた方が喜びそうな気がするんだ」

「やめろ。兄の威厳が無くなるだろ?」

 するとカウンターでマスターが笑った。

「無くなりませんよ。あなたが市長になって建てた病院で妹さんは手術を受けられたんですから」

 一方で、郷愁は肩を竦めた。

「三十年前から問題児やってるんだから。イメージ通りの兄の顔が見れて威厳も何もないだろうに。むしろ暑苦しい感じの写真の方が安心するんじゃないのか?」

「いや、しかしだな……」

「どうせ今日もぶっとんだ話をするんだろ? 生徒会長やるとか、学校公式マッチングアプリを作りたいだとか、市長になりたいだとか、北部を最新設備の病院が似合うような近未来都市にしたいだとか……今度は何をやりたいんだ?」

 郷愁が尋ねると、大葉は目を輝かせた。

「ちょっとしたハプニングを演出したいんだ」

「ハプニング?」

「雨ノ森市は大きく発展し、世間の注目を浴びることに成功した。だけど市民達は現状に慣れてきてしまっている。ラーメンと同じだ。どんな名店のラーメンも毎日食べてしまうと、それが当たり前になってしまうわけだ」

「最近、大葉が脂ぎってきた原因はそれだな?」

「とにかく! 味変が大事なんだ!」

「つまり、何かイベントをやりたいんだな? 街コンでもしたいのか?」

 大葉はフッと鼻で笑った。

「街コンはありきたりだろ。俺は街にエンターテイメントなハプニングを起こしたい!」

 そう言って、大葉は郷愁に一枚の紙を差し出した。『リアルタイムシネマ雨ノ森構想』と題した企画書だった。概要をまとめると、雨ノ森市内でマンガや映画の中にいるような事件を起こし、都市のプロモーションをしようというものだった。

「またぶっとんだことを……」

「市民はいつもと違う日常を望むものだろ?」

「まぁ……そうだけどさ。何をするの?」

 大葉は端末のディスプレイを郷愁に見せた。

 ディスプレイにはインタネットニュースの記事が表示されている。それは巷で噂になっている怪盗の記事だった。

 大葉は不適な笑みを浮かべ、

「華麗なるトリックを使う大泥棒とかどうだ?」

「誰かに怪盗役をやらせるってこと?」

「本人にやってもらえばいいじゃないか」

「そんなデリバリーみたいに言って……」

「ところがデリバリーできるんだな」

 大葉は端末を操作して、再び郷愁に見せた。

 それは大型SNSの画面だった。

 プロフィールには怪盗の名前があり、紹介文には依頼募集中の文字が記載されている。

 郷愁の目が点になった。

「これが本物のわけないだろ?」

「本物でも偽物でもどっちでも良い。市民が楽しく、外部にも注目されるようなハプニングが起こせればそれでいい。ちなみにもう、DMで依頼を出しておいたぞ」

「……え、本当に?」

 大葉はコクリと頷いた。

 郷愁は頭を抱えた。

「で、俺は何をすればいいの?」

「どうにかうまく根回しをして欲しい」

「事後報告は根回しって言わないんだよ?」

「そこをなんとか……頼む!」

 大葉が深く頭を下げた。

 郷愁は仄暗い海のように深い溜息を漏らし、

「いつものことだしな。もう慣れたよ」

 すると大葉が顔を上げ、目を輝かせた。

「それじゃぁ打ち合わせをしよう!」

「どうせなら妹さんが楽しめるようにするか」

 こうして、二人の勉強会は続く。

 予約席で語り合う二人の姿は、三十年前にタイムスリップしたように活き活きとしていた。

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