第17話 過去

 大学院を修了して臨床心理士の試験も無事に合格した俺は、ほどなくして近場の高校で運よく職に就くことが出来た。とはいえ、実働六時間で週三日の非正規雇用だから、収入面ではかなり厳しい。他の学校も掛け持ちするか、あるいは副業でもした方が生活は安定するのだが……仕事に慣れるまでは、至らない部分を自己学習と残業でカバーできるよう、時間に余裕を持っておきたかった。

 順調な就職に万全の準備。にもかかわらず、ついに迎えた初出勤の日は不安しかなかった。

 かつて自分をいじめた奴はいない。そもそも、今はもう学生ではなくスクールカウンセラーだ。頭では分かっているのに、克服したつもりでいたのに、言い知れない嫌悪感が胸にまとわりついて離れなった。

 そんな息苦しく不快な感情を必死に振り払い、俺は新たな一歩を力強く踏み出した。


 しかし――

 甘かった。何も分かっていなかった。

 かつての自分のようにいじめられている生徒だけじゃない。学校生活に馴染めなかったり、勉強についていけなくなったり、部活動で不安を抱えていたり、人間関係に悩んでいたり……どんなに深刻でも、どんなに些細でも、常に生徒と向き合い、寄り添い、心の支えになって、前を向いて生きていけるように手助けをしたい。

 長年夢に描いていた理想は、この残酷で理不尽な地獄では決して成し遂げられない。そう痛いほど思い知らされることになるだなんて、この時の俺は思ってもいなかった――。



「お忙しいところすみません、尾崎おざき先生。担当されているクラスのことで、何か留意事項などありましたら共有しておきたいのですが、少しお時間よろしいでしょうか?」


 スクールカウンセラーと教師の連携は重要だ。教師は長く生徒と接している分、普段の授業態度や成績、交友関係などを広く把握しているし、生徒との信頼関係も深く相談を受ける機会も多い。だからこそ、スクールカウンセラーは日頃から教師との情報交換を密にして生徒のことを知ると同時に、専門性を生かした適切な助言や援助を行うことで教師の負担を軽減する役割がある。

 それは、生徒指導主事で教員歴も長い尾崎先生であれば重々承知しているはずだ。が……


「…………はぁー……」


 忙しなくパソコンのキーボードを叩く手を止めた尾崎先生は、聞こえよがしに深々と溜め息をついてから眉間に皺を寄せて俺を睨みつける。


「あー、春原……だったか。現場経験がないから知らないだろうが、教師ってのは忙しいんだ。先月の学力テスト結果が共有フォルダに入ってるし、普段の素行は自分で実際に見て回れればいいだろ。それもお前の仕事だろうが」

「…………え……?」


 予想していなかった返答に言葉を失っていると、軽い舌打ちと共にさらに捲し立てられる。


「それから、不登校とか発達障害とか不良の生徒、あとモンペなんかの対応で余計な仕事を増やさないように。お前の仕事に口出しする気はないが、くれぐれもこっちに迷惑かけないように勝手にやってくれ」

「なっ……で、ですが……お互いに協力した方が生徒のためになりますし、先生方の業務も効率的に――」

「あ? 非正規の新人が、うちの学校の方針に文句あるのか? チッ……もういい、この話は終わりだ。俺は忙しいんだよ、お前と違ってな」


 そう苛立たしく言い放つと、尾崎先生は煙草を手にして席を立ってしまった。

 仕方なく別の教師達に協力を求めようと声をかけるが、いずれも揃って反応は悪い。尾崎先生ほど露骨に嫌悪感を向けられはしなかったが、誰もかれも忙しさと面倒くささが顔に出ていて、なんだかんだと理由をつけて断られてしまった。

 なんて不真面目な奴らだ、と非難するつもりは一切ない。

 たしかに、俺なんかには理解できないくらい教師は多忙なのだろう。授業だけでなく教材準備、事務作業、部活動と業務は多岐に渡り、膨大な労働時間で過労死したり鬱になる教師が相次いで、近年では深刻な社会問題になっているくらいだ。

 それに、そんな精神的にも肉体的にも激務な教師のメンタルケアをするのも、スクールカウンセラーの大事な責務だ。だから、これから少しずつ彼らの信頼を得て心を開いてもらえるようになる。それが俺の仕事であり、彼らに全く非はない。


 ――そう、頭では理解している。

 仕方のないことだ。どうにもならない。誰も悪くない。

 だけど……。

 だけど、俺は、どうしても……どうしようもなく……失望してしまった。



 赴任から三ヶ月。

 最初の内は存在すら知られておらず、相談室には誰一人として訪れて来なかった。どうやら俺はこの学校で初のスクールカウンセラーのようだが、ほとんど放置されているおざなりな待遇や教師の反応から察するに、ただ生徒を案じて雇用されたとは到底思えない。世間の目や教育委員会の方針を形だけ取り繕うために止むを得ずカウンセラーを配置したように感じられる。

 しかし、どんな経緯であろうと構わない。必要性はこれから結果を出して証明すればいい。俺は登下校時間の挨拶やカウンセラーだよりの発行といった地道な活動を続けた。その結果、徐々にではあるが生徒がぽつぽつと相談室に顔を出し始めるようになった。

 当然ながら、座学で学んだ知識をいきなり実践で百パーセント発揮することなど出来ない。俺は自分の対応が正しかったのか、もっと上手く出来たのではないかと毎日のように葛藤と後悔を繰り返した。

 もしかしたら、生徒にとっては軽い気持ちで話した些細な悩みだったのかもしれない。だが、そんなことは関係ない。俺の一言が、わずかでも生徒の人生を変える可能性がある。新人であろうが、その責任と覚悟は背負わなくてはならない。


 教師達には相変わらず煙たがられながらも、理想のカウンセラーに近づくため必死にもがいていた、そんなある日。

 放課後に、一人の女子生徒がふらりと来訪した。

 生気のない暗い瞳に曇った表情を浮かべた彼女は、疲れ切った様子で倒れるように椅子に座り込んだ。おどおどとして、何度もためらいがちに口を開けては閉じてを繰り返し……そしてようやく、か細く震えた声を絞り出した。


「……あの……私……いじめられてるんです……」

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