鏡を捨てに行きましょう

40:卑劣な脅迫

 わたし──アシュリー・ヒーストン伯爵令嬢の反逆罪に関する王国騎士団の実地検分が行われることが決まったのは、ミハイル様の失踪騒ぎが落着してから、たった三日後のことだった。


 事はそれほどに急を要する……、わけでもないのだけど、まあ、これも言ってしまえばわたしが悪い。

 自分のいた種とも言える。

 わたしがそのように鏡の悪魔をき付けたからだ。

 言うことを聞かせるには人の嫌がることをすると言って脅せばいいと、わたしがそうそそのかしたのを、あの悪魔はきっかりその通りやってみせたに過ぎない。


「おい。のんびり湯浴ゆあみなどしている場合か?」

「──ヒッ!」


 自宅の浴場で一人ゆったりと湯に浸かり、身を清めた後、長い髪に自分で香油を塗り込めていたときのことだ。

 湯浴み中は人払いをしておくのが常だったので完全に気を抜いていた。

 わたしのプライベートなひととき。

 ほぼ全裸に近い状態でいるところへ、突然あの悪魔の声がしたのだから驚くどころの騒ぎではない。


 ハッと、いや、ヒッと顔を上げたその目の前、鏡の中には、昨日あの廃屋の地下で会ったばかりの悪魔がニヤケ顔でこちらを見つめていた。

 やや朱色に上気した乙女の肩口に、図々しく腰掛ける小さな悪魔。

 わたしはそれを払いのけようと、自分の肩の上で激しく手を振った。

 当然、そんなことで払い落せはしない。

 実物はそこにはいないのだから。

 次いで、鏡の中からこちらを見られないように両手を広げて、鏡に映る悪魔の目を覆い隠そうとする。


 ああ駄目。

 とてもこんなことでは隠せないわ。


 自分が鏡の中に入っていたとき、鏡に映った物が、その裏側までも現実と変わりなく見えていたことを思い出す。

 急いで立ち上がり、今度は髪をぬぐうために置いていたタオルを取って、それを自分の身体に巻いた。


「じょ、常識を! 常識を考えてください。乙女の湯浴みを覗くなど非常識です」


 言いながら、悪魔に向かって常識を説く愚かさを痛感する。

 常識など持ち合わせていたら、腹いせで、あんな風変わりな呪いをかけるなんて真似をするはずがない。

 こいつは悪魔なんだ。

 ……う、うん、そう。

 人ではない、超自然的な存在なのだと思えば、裸を見られたことも幾分か許せる気になった。


 鏡の中の悪魔はなおもニヤケ顔でこちらを見ているが、よく考えればこの悪魔は最初に会ったときからこんな目をしていたような気がする。

 好奇の目で見られていると思うからニヤケているように見えるのだ。

 落ち着いて見る今は、どことなくこちらの反応に戸惑い、キョトンとしている表情にも見えた。


「お前ら人間の常識など知るか。そんなことより早く約束を守れ」

「約束?」


 オウッ、ナンテコッタイ。

 如何にもそんな台詞を吐きそうな仕草で悪魔が首を振り頭を抱える。


「やはり人間など信用するもんじゃねェな。もう忘れたのかァ? 俺様の鏡を沼に沈める約束だァ」

「えっ⁉ いや、忘れてません。心外です。ちゃんと考えております」


「嘘言うな。だったらなんでゆっくり髪なんか洗ってやがるんだ」

「そんな急には無理です。わたしは王から謹慎を言い渡された身なのですよ? 疑いが晴れるまで外出ができないのです」


「そんな事情など知らん。待ちくたびれた。今すぐ出立しろ。人間の足ではあそこまで行くにも時間が掛かるだろ?」

「……なにも行かないと言っているわけではありません。何故そんなに急ぐのですか?」


「うっかりすると人間はすぐに死んでしまうからなァ。考えてもみろ。お前にもしものことがあれば……」


 もしものことがあれば……?

 縁起でもない話だけど、悪魔がわたしの身を心配してくれているようなニュアンスに聞こえて、ちょっとだけまんざらでもない気分になった。

 我ながらチョロい。

 単に言葉の綾でそう聞こえただけなのに。


「お前が約束を果たす前にくたばっちまったら、俺はあそこでずーっと、ピカピカにされた状態で飾られることになるだろゥが。これから何年も。下手したら何百年も!」


 悪魔は何か恐ろしい想像をしたようにブルルと身を震わせ、自分の身体を抱き締めた。

 綺麗に飾られることの、どこに嫌悪感を抱く要素があるのか分からなかったけど、それがこの悪魔の弱点であることは分かった。

 状況が許せば、あの鏡をもっとピカピカに磨くわよと言って、逆に脅したりできないだろうか。


 けど、現状は脅されているのは間違いなくわたしの方で、力関係には圧倒的な差があった。

 これ以上この悪魔の機嫌を損ねて、またうっかり鏡の中に閉じ込められてしまうことだけは避けなければ。


「お前、嫌がることをすると言って脅せばいいと言ったよなァ? すぐに出立しないと、これからずっとお前の湯浴みを覗いてやる。まァ別に見たかァねェけど」

「……え?」


「言っとくがなァ、鏡を隠したって無駄だぞォ? 姿が映る物があればどこからだって覗けるんだ。ガラスだって、水だってなァ? フヒャヒャヒャ」

「や、やめてー!」


 浴場を出て服を着たわたしは急いで一筆をしたためた。

 今すぐミハイル様にお届けするようにと、それをリゼに持たせる。

 それは、すぐに国境近くのあの寺院跡に行く必要があるという嘆願だった。


 そんなこんなで、わたしは騎士団の警護のもと、アダナスとの国境にほど近い、あの因縁の寺院跡へと舞い戻ることが決まったのだった。

 謹慎中の令嬢が王都を離れ、国境付近の疑惑の地に赴くための理由には、敵国と内通を計ったという嫌疑を受けた当人を伴って現場の検分を行うという、どこかで聞いたような名目が使われた。


 これほどスムーズに事を運ぶことができたのは、当然ミハイル様がそれだけ骨を折っていただいたお陰であるのは間違いない。

 だけど、ミハイル様がおっしゃるには、わたしに対しどんな処分を下すにしても、調査を行ったという建前がいるという王国側の事情もあってのことらしい。

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