25:無断外泊の朝

 翌朝、目が覚めてもなお、わたしはミハイル様だった。

 全てが夢であれば良かったのにと思う。

 いっそのこと、ヴィタリスにそそのかされて、あの崩れかけの寺院跡に出掛けた辺りから、全てが夢であってくれれば良かったのに。


 ──オリスルトの国は、そこに住まう臣民の多くが思っているほどには安寧あんねいとしたものではない。

 長年対立しているアダナス帝国との戦力差は容易に埋め難く、本当はいつ攻め滅ぼされてもおかしくないのだと……。

 その話を聞かされたのは、リカルド様から初めてはっきりとした言葉で求婚を受けた日のことだった。


 自分と結ばれても幸せになれるとは限らないのだという、泣き言とも謝罪とも付かないリカルド様からの告白。

 そのときは求婚されたことが単純に、ただ無邪気に嬉しくて……。

 わたしに対して申し訳なさそうにされるリカルド様に向かい、わたしは気になさる必要はありませんと言ってお慰めし、求婚のお申し出をありがたくお受けした。

 けれど、そのときのリカルド様のご様子があまりに深刻に見えたため、ずっと心に残っていた。

 どうにかして、その心労を取り除くお手伝いができればと考えていたのだ。


 浅はかにも。

 わたしのような小娘が何をどうしたところでお役に立てるはずもないのに。


 あの、崩れかけの寺院跡の話をヴィタリスから聞いたのは、それからしばらく経ってからのことだった。

 遥か昔、祈りによって一つの国を救った聖女の伝説があるという話。

 護国豊穣を願う祈りは、未婚の乙女がその地に直接赴き、誰にも、特に王家の血を引く者には絶対知られずに、人目を忍んで行う必要があるのだと……。


 もちろん、そんなおとぎ話のような伝承を完全に信じていたわけではないけれど、もし本当なら、わたしがお役に立てるのは、自分がリカルド様に嫁ぐ前の、残り僅かな時間しかないと考えた。

 ……いいえ、そう思わされてしまった。

 今にして思えば、あからさまな作り話だと分かる。

 あのとき王宮の一室で、ヴィタリスと二人きりになったことも、あまりに作為的だった。

 けれど、そのときのわたしは、まさかただの小娘に過ぎない自分のような者を陥れる人間がいようとは想像もできずに、何も疑うことをしなかった。

 その報いが──。


 わたしは見知らぬベッドの上で自分の目をゴシゴシとこすった。

 その手がミハイル様の大きく硬い、男の人の手であることにハッとして、跳ねるように上体を起こす。


 こめかみにズキリとした痛みを感じ、自分が昨夜、酒に酔って二階に運ばれたことを思い出した。

 衣服は昨日寝る前に身に着けていたままで、当然そばに着替える新しい衣服もない。

 そのことを気持ち悪く感じたけれど仕方がない。

 待っていたところで、どこからか侍女がやってきて着替えさせてくれるわけもないのだから。


 み置きの水で顔を洗い、気休め程度に衣服や頭髪の乱れを直した後、わたしは狭い部屋を出て、狭い階段を下りていった。

 幸いメフィメレス家からくすねてきた小箱とその中身はちゃんと枕元に置いてあったのでそれも忘れずに抱える。


 危ない危ない。

 これをなくしていたら台無しになるところだったわ。


 昨夜大勢の男の人たちが飲み食いしていた大きな食堂は、今は四、五人程度がそれぞれ一人で食事を摂っているだけでガランとして見えた。


「ミハイル様。昨日のお連れの方から言伝を預かっておりますよ?」


 そう言ってカウンターの奥から、中年の男の人が前掛けで手をきながら姿を現した。


「いいですか? お伝えしますよ? 事情聴取という名目でアポイントを取ったので正面から訪ねてください。だそうです。それでお分かりになりますか?」


 わたしは昨晩一緒に食事をした三人の顔と名前、それから彼らと話した内容を必死で思い出そうとした。

 今の話を自分に都合良く解釈すると、ミハイル様が酔い潰れて寝ている間に、あの三人がヒーストン家に入るための段取りをつけてくれたってことになるけど……、本当にそうかしら。

 本当に身勝手で都合の良い解釈だけど大丈夫?

 そんなお願いしたっけ、と不安になる。

 でも考えていてもその答えは出ないし、こうして店主さんと見つめ合っていても仕方がない。彼の仕事の邪魔になるだけだ。


「えーと。お代……かしら?」


 わたしはどこかのポケットに財布らしきものがあったはず、とあちこちをまさぐった。


「いえいえ。大丈夫ですよ。いただいてます。えーっと、お代は……、ノインさん。ノインが払ったと、そこはしっかり伝えてくれと頼まれましたので、えぇ確かに」


 なるほど。あのノイン君らしいな、とわたしは頷く。

 それに、夕べのあの三人の様子、ミハイル様を慕っていた彼らの気立てであれば、確かに全てを語らずとも、団長の困りごとを察して動いてくれるかもしれない。

 なんたって、ヒーストン家の中に入りたくて、あの塀の周りをうろうろしていたわけだし。


 わたしはたった一度食事をしただけの彼らからの言伝を百パーセント信用することにした。

 いいえ、違うわね。

 自分で自分に訂正しよう。

 信用するのは彼らと、彼らに慕われるミハイル団長の人徳をだわ。

 店主さんに礼を言い酒場を後にする。


「いえいえ。騎士団の皆さまにはいつもご贔屓にしていただいていますので。またよろしくどうぞー」


  *


 ヒーストン家の前まで行くと、開かれた門の前にはメイド長のハンナが立ってわたしを待ち構えていた。

 よく見知った顔に会えたことで安心して表情が崩れそうになる。

 けれど近付いていくと、彼女の白髪混じりの頭頂部が自分の目線よりも大分下にある違和感に気付く。


「お待ちしておりました。王国騎士団長のミハイル様でございますね?」

「う、うむ」


 わたしに対していつもお小言の多いハンナが、朝帰りのことを叱りもせず、こんなに恭しくわたしを迎えるだなんて。

 自分に盗み聞きなどをする趣味はないと思っていたけど、自分ではない別の誰かに対する知り合いの様子を、こんなふうに観察できるのはとても新鮮で興味深かった。


「えー、今日は事情聴取に──」

「お話は伺っております。昨夜のうちに団員のかたがいらっしゃいまして」


 昨夜? そうか、どうりで。

 まだ朝早くだというのに、訪問のアポイントが取れているというのは手際が良すぎると思った。

 ノイン君たちはきっと夜中のうちにヒーストン家を訪ねてくれたんだ。

 直接話してお父様を説得してくれたのは、しっかり者のシュルツさんか、外面の良さそうなエッガースさんではないかという気もするけど。


「案内を頼む……」


 ハンナはミハイル様に丁寧にお辞儀をして応接室に通してくれた。

 ミハイル様の振りをしなければいけないのは相変わらず緊張するけど、見知った場所に見知った相手というのは心強い。


 あとは、自分の部屋まで行き、寝ているわたしにくちづけをすればよいだけね。

 でも、元に戻った後はどうしよう。

 無理矢理押し入って、他人の家の令嬢の唇を奪ったとなれば、もとに戻ったあとのミハイル様にご迷惑がかかってしまう。

 どうにかして二人きりになる状況を作らないといけないわ。

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