03:ここで、アシュリー嬢が見舞われた不幸の波状攻撃を見てみよう

「婚約は、破棄だ」


 リカルド王子の口から放たれたその残酷な言葉を、アシュリーは信じられない思いで聞いていた。

 王子は玉座に座るタッサ王の隣──彼女を見下ろす位置に立っているが、その目はアシュリーのことを見てはいなかった。彼女からの視線を避けるように、その端正な顔をらし、身体を固くし、あらぬ場所を見つめている。


 アシュリーは、かつて彼との距離をここまで遠く感じたことはなかった。

 二人、言葉を交わすときは、常に互いの息遣いが聞こえるほど近く、寄り添うようにし、やがて結ばれるときの訪れを共に信じて疑わなかったというのに。


 王都を離れていた僅か一週間ほどの間に、一体何が起きたというのか。

 アシュリーには、その理由が全く分からなかった。


「お待ちください、王よ! 娘が何か⁉ 何か粗相を致しましたでしょうか?」


 呆然と立ち尽くす娘に代わって、彼女の父であるヒーストン伯爵が、王や王子による突然の翻意のわけを尋ねる。

 当然、事は当人同士の問題にとどまらない。いくら王や王子とは言え、正当な理由もなしに一方的な婚約の破棄など通るわけがなかった。


 王はその申し立てには直接答えず、側付きの男に向かって首を揺らしてみせただけだった。

 王から促された男は、壇上のやや中寄りに進み出て、手にした書状に目を落としながら高らかに宣言を始めた。


「ヒーストン伯爵令嬢アシュリー! 貴殿にはアダナス帝国との密通の嫌疑が掛けられている!」


 静まり返っていた謁見の間が遠慮がちにざわつき始めた。


「皆が知ってのとおり、アダナスとわが国は長年戦争状態にある。その最中にあって、アダナスとの国境にもほど近い地に、断りもなく出向くとは、十分な嫌疑に値する!」


 その瞬間アシュリーは思った。


(は……、ハメられたんだわ……!)


 ……と。

 今になって考えてみれば、あの旅は怪しいことだらけだったと思い至る。


(まさか、あそこがそんなキナ臭い場所だったなんて……)


 自分の迂闊うかつさを呪うのに必死で、顔面蒼白となった彼女には異を唱える余裕もない。


「お待ちください。たったそれだけのことでございますか⁉ 娘に一体何ができましょう? まだ、齢十六にも満たぬ小娘が、敵国との密通など、そのような大それたことをしでかすなどと、そんなことを本気でお思いですか?」


「ラングよ。嫌疑は嫌疑だ。此度こたびのこと、お主は知らなかったのであろう?」


 早口でまくし立てるようにして食い下がるヒーストン伯に対し、王はゆっくりとした口調でたしなめた。

 後半、何か含みありげに高く釣り上がった王の声音に、ヒーストン伯の肩がビクリと震える。

 そして、気弱さを感じさせる表情で、自分の隣に呆然と立ち尽くす娘の顔をうかがい見るのだった。


「王太子殿下がこの度ご破談を決断なされた理由はそれだけではございません。ヴィタリス嬢、前へ」


 王の側付きの男が続けて口上を述べると、その後ろから妖艶を絵に描いたような女、ヴィタリスが姿を現した。

 主張の激しい豊満な胸とは裏腹に、慎ましやかに目を伏せ、肩を落としたしおらしい仕草。

 彼女は、アシュリーの前ではついぞ見せたことのない、あわれを誘う立ち居振る舞いで壇上にあり、広間に集まった皆の注目を一身に集めていた。


「ヴィタリス嬢からの訴えにより、アシュリー嬢には彼女への暴行と恐喝の罪状が提訴されております」


(ええっ⁉ 暴行? 恐喝? まったく身に覚えがないんですけど⁉)


 広間がさらにざわつきを増す中、男がヴィタリスに向かって小さく声を掛けた。

 彼女はさらに前に進み出ると、自ら衣服の端をまくり、横腹の辺りをはだけさせる。

 上と下が分かれた彼女の衣服は、この国の王宮ではあまり見られない珍しい形状であったが、どうやらそうやって自分の肌の一部を衆目にさらすことが目的であったようだ。

 その周到さを見て、アシュリーは自分の中に沸々と怒りが込み上げるのを感じた。


 ヴィタリスの手によって僅かに持ち上げられた布地の下からは、白い肌の上に痛々しく浮かび上がる、赤くただれた痕が覗いていた。


「アシュリー様は、他の者の目が届かない密室に私を呼び出し、自分の留守中に、私が王太子殿下に決して近寄ることがないよう、激しく恫喝どうかつなさいました。

 分からせるためだと言って、無理矢理私の衣服を剥ぎ、外から見えない場所に、このように焼きごてを……」


 涙ながらに語るヴィタリスの言葉に、あちこちから悲鳴が上がる。なんて酷い、お可哀そうに、一生残るような痕を、などと小声で囁き合う声が飛び交う。


「誰かに言えば王都にいられなくしてやる、とのアシュリー様のお言葉が恐ろしくて……。

 それに、傷物になった身体を知られるのが怖くて、必死で隠して参りましたが、先日ついに家の者に見つかってしまいました。

 見かねた父上から勧めを受けまして、リカルド殿下にご相談させていただいた次第です……」


 アシュリーにとっては、何一つうなずくことのできない、言い掛かりも甚だしい主張であったが、広間に集まった者──特に貴族の婦女子──の間では、完全にヴィタリスに同情を寄せる空気が漂っていた。

 アシュリーは知っていた。

 ヴィタリスが最近熱心に、特に社交的な性格の娘を狙って親睦を深め、自分の取り巻きを作るように画策していたことを。


 今この場においてアシュリーに味方をする者は誰もいなかった。

 彼女の父ですら、王からにらまれ、何も言い返せなくなっている。


「……リカルド様! リカルド様、信じてください。全て嘘です。これは濡れ衣です」


 彼女が最後に頼ったものは、彼女が長年慕い愛を誓い合ってきた王子であった。

 二人が積み上げてきた誠の愛があれば、このようなでっち上げの猿芝居など、一瞬で霧散するはずだと、そう信じた。

 だが、壇上の王子が返した言葉は、彼女のその信頼を裏切るものであった。


「すまない、アシュリー。私から擁護は、できない……」


 アシュリーの顔から血の気が引く。


(リカルド様……。リカルド様、そんな……。信じられない……)


 アシュリーが呆然と見やるリカルドのそばにヴィタリスがサッと駆け寄る。


「そんな! リカルド様がすまないなどと……。逆でございます。これまでその醜い性根を隠し、王子を騙してお心を奪おうとしたアシュリー様こそ、謝罪すべきなのです」


「ちっ、違います。そんな……、わたくしはそんな……!」


 アシュリーが必死で声を掛ければ掛けるほど、リカルドは彼女から顔を背けるようにした。

 そんなリカルドに向かってヴィタリスがその豊満な肉体を寄せる。

 自分の身体を盾に、アシュリーの目からリカルドの姿を隠そうとでもするように、ヴィタリスが彼の肩に触れながら大仰に芝居を打つ。


「ああ、お可哀そうなリカルド様。早く誰か、王子を睨みつけるあの毒婦を遠ざけて!」


 ヴィタリスが叫ぶと、それに続いて壇上の男が再び高らかに宣言した。


「リカルド殿下とアシュリー嬢の婚約は撤回された! アシュリー嬢は密通罪の嫌疑が晴れるまで無期限の謹慎処分とする!」


 王宮を揺るがす大事件を受けて広間中が沸いた。


 そのどよめきの中、アシュリーの身体がグラリと傾き、前のめりに倒れ込む。

 冷たい石の上に大きな音を立てて倒れ伏した令嬢の姿を見て、周囲の者たちは、ひときわ騒々しい悲鳴や、がなり声を上げ始める。


 アシュリーはその喧噪けんそうの中、朦朧もうろうとした意識で、自分の名を必死で呼ぶリカルド王子の声を聞いた気がした。

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