第41話 真名を知られて

 紗矢音たちが下り立ったのは、鬼門の方角に位置する社の鎮守の森。以前来た時、ここまで奥には入り込まなかった。だから見落としたのか、と悔しい思いで紗矢音はその木を見上げた。

 木は、常磐の木であったのだろう。その葉の形と、木を見れば何となくわかる。しかし今、彼女たちの前で枝葉を広げる木は、通常の常磐ではない。その黒々とした葉も斑の幹も、異常事態を示している。

 更に、上空には黒い雲のような不定形の塊がある。よくよく目を凝らせば、それが化生の類の群れであるのだとわかった。

 紗矢音は身の毛がよだつのを感じ、真穂羅たちを睨み据えた。

「あなたたち、何をしたの……?」

「見てわからないか? 鬼門を開け、黄泉の軍勢を呼び込んだんだ。奴らを使って、都を滅ぼす。そして……」

「……そして、この国の本当の主が誰なのかを思い知らせるんだよ」

 真穂羅の言葉に続けた一晴は、怒りを含む目を紗矢音たちに向けた。彼自身からも闇の力が溢れているようにすら感じられ、紗矢音は思わず一歩退く。

「お前たちは散々邪魔をして、今ここにもやって来た。……余程、命が惜しくないらしいな?」

「命は惜しいさ。だがな、護りたいものがあるから戦うんだよ」

 紗矢音を背に隠し、守親が前に出る。彼の横には同様に立つ明信がおり、桜音は紗矢音を抱き寄せて一晴たちを睨む。

 ――とくとくとく

 こんなに緊迫した状況にもかかわらず、紗矢音は自分を抱き寄せる桜音の胸の音を聞いていた。規則正しく、しかし速いそれは何を示すのか。

 その音が自分のものと同様に速いのだと気付き、紗矢音は震えそうになる手で桜音の衣を掴んだ。自分には、守親も明信も、桜音も傍にいる。だから、何者にも負けはしないのだと。

「こんな時に、悠長ね。――

「――っ!?」

 紗矢音に呼び掛けたのは、章の声だ。その声で名を呼ばれた途端、紗矢音は体に走った恐怖に目を見張った。体がひとりでに震え始め、意図しないにもかかわらず手が勝手に桜音の体を押し退けた。

「紗矢音……?」

「ちがう、違うんです。わたしはっ……あれ、何で……?」

 驚く桜音に、かぶりを振って桜音を拒絶したわけではないのだと言い募る紗矢音。しかし徐々に体の自由は利かなくなり、思い通りになるのは表情と声のみとなっていく。

 紗矢音の足は、勝手に動く。よろよろと歩き出す先を見て、守親が険しい声で叫んだ。妹が行こうとしているのは、敵である魔穂羅たちのいる方なのだから。

「おい、何処に行く!?」

「わ、わたしにもわからないの! 兄上ッ」

 悲鳴を上げる紗矢音の腕を掴んだのは明信だが、当然のごとく振り払われる。しかし彼女の目に涙が溜まっているのを見て、明信は気付いた。

「お前、大姫に何をした!?」

「流石、稀代の陰陽師の弟子。一番気付くのが早かったわね」

「いいから答えろ!」

「まあ、怖い」

 くすくすと楽しげに嗤った章は、自分のもとに歩いて来た紗矢音の顎から頬への輪郭を指でなぞった。そして、絶望に駆られ涙を溢れさせる紗矢音に顔を寄せてみせる。

「さやね。、体を奪ったの。わたくしが良いと言うまで、またはわたくしが死ぬまで、この子はわたくしの意のままよ」

「なっ」

 二の句が継げない明信は、奥歯を噛み締める。

 この国において、名には二つある。

 一つは真名まな。真名は本人に付けられた名であり、魂に結び付く大切なものだ。人々は滅多にその名を口にすることはなく、知っているのは本人と名付けた親、更に伴侶と近しい者たちだけだと言われている。

 そしてもう一つが、仮名かりな。仮名は例えば「大姫」や官職名を指す。こちらは普段使いする呼び名であり、誰もが使うことを許されている。

 二つの内、真名は悪意ある者に知られると、悪用される危険性がある。現状のように、真名を知られることによって命の危険すらあるのだ。

 紗矢音は真名を章たちに知られた。それは向こうも同様だが、真名の使い方を知っていた章たちの方に分があった、ということになる。

 ある種の『呪』だ。

(どうしたら……っ)

 指すら動かすことが出来ず、紗矢音は歪む視界を拭うことも叶わない。ただ涙を流すことしか出来ない自分を不甲斐なく思い、心が潰れるような思いでいた。

 更に、章は紗矢音に追い討ちをかける。

「ねえ、さやね。あいつらを傷付けなさい。その刀を使って」

「い、嫌……」

「ふふ。口で何と言おうが、あなたに選択の権利はないのよ」

 章の言う通り、紗矢音の手は刀を鞘から抜き、構えた。淡く優しい薄紅色だったはずの霊力は、徐々に黒く染まっていく。まるで、紗矢音の心を映すかのように。

「嫌、やめて。兄上たちを傷付けないでッ!」

「紗矢音!」

 紗矢音の悲鳴と守親の叫びが重なった。

 願いも空しく刀が振られ、炎と化した花びらが舞う。紗矢音の技、桜花秘伝の一つである『炎桜風吹』だ。

「いやあぁぁぁっ」

 炎に巻かれ、守親たちの姿が見えなくなる。大切な人たちを自らの手で殺してしまう、そう思った紗矢音の心は深く傷ついた。ぽたり、と目の端から涙が零れ落ちた。その涙を最後に、紗矢音の瞳から光が失われる。

 反対に、この状況を満足に思っている者たちもいる。紗矢音が兄たちを攻撃するのを見た一晴たちは、一様に嗤っていた。

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