第5章 闇の召喚

混沌の空

第39話 急変する都

 昨夜眠る暇を与えられなかった紗矢音は、その日惰眠をむさぼっていた。惰眠とはいえ、休息を欲した体が動くことを許してくれないのだ。

 守親も出仕を取りやめ、物忌みということにしてしまった。明信はといえば、彼も霊力を使い果たしたとかで守親の自室にて休むことを所望したために一緒にいる。二人共起き出して来る様子はなく、事情を訊かない父の配慮が有難かった。

「桜音どの……」

 そして桜音はといえば、紗矢音の部屋の隣で几帳を一枚挟んで眠っている。異性と部屋を同じくすることは、世間的にはご法度だ。ご法度だと知っていてもそうしたのは、何よりも紗矢音自身が望んだことが大きい。

 別に、やましい気持ちがあるわけではない。紗矢音の部屋が他の部屋よりも千年桜に近く、本体である桜に近い所にいた方が良いのではないかという意味だ。

「桜音どの、辛いでしょうね……」

 しとねを這い出し、紗矢音はそっと几帳の裏に回った。すると、目を閉じている桜音の姿が彼女の目に入る。

 首の『呪』は相変わらず毒々しい色に染まり、薄れる気配はない。

 紗矢音は桜音の傍に座ると、触れるか触れないかのぎりぎりの距離で桜音の頬に指を寄せた。触れてしまえば彼を起こすような気がして、気が引ける。

(起きて欲しいのに、起きなくて良いとも思う。なんて、自分勝手な)

 自分自身の矛盾に呆れ、紗矢音はその場を離れようとした。もう少しだけこの眠気を取ってから、兄たちの所に顔を出しに行こうと思ったのだ。

 しかし、それは叶わない。

「あれは、何?」

 庭を見ようとそちらに目を向けた直後、紗矢音は眉間にしわを寄せた。上に広がる空の様子が、明らかにおかしいのだ。

 昼を過ぎ、雨も降っていない。空は雲があるものの薄青に染まっているはずだった。そのはずが、全く別の色に染め上がっている。

 それはまるで、水の中に何滴もの墨を垂らして筆で混ぜたような混沌とした色。紋様のように白と黒、灰色が混じり合ってゆっくりと動いている。

「……」

 あまりの出来事に声も出せず、呆然と空を見上げていた紗矢音。彼女の耳に、こちらへ走って来る二人分の足音が聞こえたのはその直後だ。

「紗矢音!」

「大姫、無事か!?」

「兄上、明信どの……!?」

 紗矢音が目を瞬かせると、守親は息を整える暇もないと言いたげに妹の肩を掴んだ。そして、驚いて見詰めて来る彼女を見て、ようやく息をつく。

「よかった、無事で。空はおかしいし、気は逸るし。急いでお前の様子を見に来たんだ。あ、父上は内裏にいるはずだ」

「そ、そうなんですね……」

 兄の勢いに圧されつつも、彼らの気持ちが嬉しい。紗矢音はようやく幾分か安堵し、再び奇妙な空を見上げた。

 相変わらず、どろどろと見ているのが苦しくなるような空色だ。

「兄上、これは」

「わからない。だが、おそらくは」

「ああ。俺もそう思う。――これは、真穂羅たちがかかわっている」

 明信の断言に、紗矢音と守親も異論はない。問題は、この事態をどう収めれば良いのかということだ。

「……何か、起こっているの?」

 立ち尽くしていた三人の背に、落ち着いた青年の声がぶつかる。振り返れば、眠っていたはずの桜音が几帳に半ば体を預けて立っていた。

「桜音どの! お加減は……」

「万全とは言い難いけれど。そんなことを言っている暇はないようだ」

 桜音はもつれそうな足取りで紗矢音の隣に立つと、空を睨む。その視線が向かう先に紗矢音も目をやり、目を見開く。そっと腕を上げ、一点を指差す。

「あれ、ですか?」

「おそらく、あそこがこの異変の発生源だ」

 紗矢音と桜音が言い合うのを聞き、守親と明信も目を向ける。そちらには、空から地上へと伸びる一本の帯がたなびいていた。遠目で良くは見えないが、この帯も動きがあり、白と黒と灰色が混じっているらしい。

 あの方角のあの場所には何があるのか。紗矢音が首を傾げると、明信が「嘘だろ」と呟くのが聞こえた。

「明信どの?」

「明信、きみはわかったようだね」

 確信を持った桜音の問いに、明信は「ええ」と頷く。心なしか、声が震えている様に聞こえる。

「……あちらは、鬼門の方角です。そして、おそらくはあの狐が放たれていた廃された社のあるところかと」

「鬼門の社……あそこか!」

「そうだよ、守親。……あそこにあった『呪』は回収したのに、どうして今頃」

 確かに、放たれた化生の狐は倒した。更に『呪』の文字は正輝と明信が滅したはずなのだ。それなのに何故、と明信は自問する。

 さりとて、答えが出るわけではない。早々に自答を諦め、明信は息をつくと身を翻した。

「何処に行く気だ?」

「守親。一度、師匠のもとに行こうと思う。あの文字を滅したのは師匠だ。それに、ここでない頭を捻っていても有効な手段なんて考え付かないだろう」

「だからって。正輝どのの庵まで、ここからどれくらいかかると……」

「その必要はない」

 明信と守親が言い合っていた時、そこに割り込む声がした。驚く四人が声のした方を見ると、渡殿を歩いて来る正輝の姿が見えた。

「師匠……」

「まずは落ち着け、明信。落ち着かなければ、見えないものの方が多いぞ」

「はい」

 深く息を吸い、吐く。ようやく複雑化していた頭の中が明瞭になり、明信は「ふぅ」と息をついた。

「それにしても、どうして正輝どのが……」

「その問いは当然ですな、大姫。少し思うところがあって都に下りて来たのだが、丁度良かったようだね」

 正輝は鬼門の方角を睨み、そう言った。

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