第5話 廃寺の怪
その日の夜。紗矢音は一人、邸を抜け出した。
少納言という地位を持つ貴族の姫君が、夜半一人で出掛けるなどという暴挙は常識ではない。しかし紗矢音には、信頼に足る同行者がいた。
その同行者は紗矢音の隣を駆けながら、嘆息を漏らす。
「全く、守親の妹でなければこんな無茶は聞かないものだがな」
「すみません、
「で、俺は守親に『夜の都に詳しいのはお前だろう』と子守りを押し付けられた訳だな」
「子守り……っ。間違っては、いないのでしょうね」
「そう怒るな。冗談だ」
頬を膨らませる紗矢音に笑いかけたのは、明信という青年だ。彼は守親の幼馴染であり、紗矢音の兄のような人でもある。更に、朝廷に仕える陰陽師でもあるのだ。
二人が走るのは、都を東西に分ける
威勢良く出て来たものの、紗矢音は少しだけ不安に駆られる。右に曲がり、人の気配がないという重さに耐え切れなくなった紗矢音が口を開く。
「明信どの、こちらなのですか? その、廃寺というのは」
「そうだ。……数ヶ月前から、その廃寺に不審な影が出入りすると言う者が後を断たない。俺の元にも調べて欲しいという依頼が幾つかあってな、そろそろと思っていた時にこれだ。丁度よかったと言えばよかったな」
くくっ。闇に溶ける藍色の
「桜を呪う輩がここに潜んでいるかどうか、それは開けてみなければわからないがな。……さあ、あれだ」
明信が指差したのは、周囲から隔絶されたようにひっそりと建っている門だった。木の戸は
二人は足音を潜めて、ゆっくりと廃寺へ近付く。
見張りはおらず、騒がしくもない。密やかさに警戒を強め、明信は壁に背中をつけた。
「──式・鳥」
懐から取り出した式を飛ばし、明信はそれを小鳥の形に変えた。燕のような形で、式は羽ばたくことなくヒュッと寺の中へと入ってしまう。
明信が式を紗矢音の前で使うのは、初めてではない。幼い頃に何度か、人の形をした式に遊んでもらったことがある。だから、驚くことはない。
「あれは?」
「鳥の形をした式を見るのは初めてだったか? あれに、寺の中を探らせる。気配を持たないから、見付かることもないはずだ」
「……待ちましょう」
式の帰りを待ち、紗矢音と明信は息を殺した。寺の中にもしも桜に呪をかけた何者かがいて二人に気付けば、かなり高い確率で害される。紗矢音は明信の手を煩わせないため、明信は己と紗矢音を守るために身動き一つしない。
幾ばくの時が経っただろう。入った時と同じようにヒュッと音もなく、式は明信のもとへと戻って来た。
「お帰り」
明信が指に止まった式の頭を撫でると、式は形を変えて一枚の白い紙に変わった。その紙片には、文字が浮き出す。
「……『気配のみ。術師おらず』か。どうやら俺たちが
「では、追うことは出来ないのですか?」
「心配しなさんな。呪の気配が残っている、それを追う」
不安げに自分を見上げる紗矢音の頭を撫で、明信は別の式を五枚出した。それらを蝶の形へと変え、都に放つ。
「この寺に残る呪の気配を追え。呪を持つ者を見付け次第、知らせろ」
明信の
「これで、呪を持つ者を見付けられるはずだ。手がかりを得次第、すぐに知らせよう」
「はい。お願いします」
ほっとしたような、少し残念だったような。紗矢音は微妙な笑みを浮かべ、明信に頭を下げる。そして顔を上げると、ふと物憂げに目を伏せた。
「そう簡単には、尾を捕らえることは出来ませんね」
「相手も見付かりたくはないだろうからな。……ところで、大姫」
「何でしょう?」
目を瞬かせた紗矢音の顔を、明信が穴が空きそうな程見詰めている。流石に恥ずかしさを覚え始めた頃、明信は眉間にしわを寄せた。
「この頃、何か変事はなかったか?」
「変事、ですか?」
「そう。勿論、桜が偏重をきたしていることとは別に、大姫自身の変化。例えば、知らないはずのことを知っていると感じたり、一定の間の記憶を失っていたり」
「──っ」
思い当たる節が多くあり、紗矢音は息を詰めた。それを誤魔化そうと咳払いするが、そんなことで明信の意識は逸らせない。
「何か、あったな?」
「……はい。でも、これはわたしが思い出さないといけないのです!」
紗矢音は明信が言葉を継ぐ前に、と畳み掛ける。
「わたしの身に、何かが起こったことは間違いありませんが……それは決して悪いことではないと思います。何か、思い出さないといけないことがあるのです。そうしなければ、きっと後々悔やむことでしょう」
「……それは、お前の勘か?」
「勘。……いいえ、おそらく
「そうか。なら、きっとそうなるべき必然なのだろうな」
明信はわずかに頬を緩め、そっと懐から式を一枚取り出した。それに息を吹きかけると、一羽の蝶に姿を変えた。
「これを、お前と守親に付けておく。あいつもなかなかにお人好しで、人のことばかりで抱え込む。何かあったら、すぐに駆けつけてやる」
式の蝶はひらひらと舞い、紗矢音の人差し指に止まった。それから水飛沫のように弾けて消え、紗矢音を驚かせる。
「えっ、消え……」
「いつも周り飛んでたら鬱陶しいだろう。必要な時、勝手に現れるから案じるな。――さ、帰るぞ」
「はい」
紗矢音の瞳に三日月が映る。その真っ直ぐな目を確かめた明信は背を向け、彼女の足音を聞きながら帰路へついた。
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