第十章 196×年、これからも、ずっと一緒に

第1話 綾子の浴衣

 清彦は座布団に正座して、風鈴の鳴る音を聞いていた。

 綾子の家は清彦の家より狭いが、風通しがいい。ましてや今日は浴衣を着ているから尚更だ。それにしても普段滅多に着ないものを着ると、どうも所作がぎこちなくなってしまう。清彦は涼しい風が首筋に当たるのを感じながら、視線を泳がせた。

 懐かしい。ところどころ傷の付いた、四角いちゃぶ台。中央がくびれた青い花瓶には、いつも季節の花が挿してある。今日は花のかわりに、笹の葉が生けてある。飾り棚には、写真立てが三つ。前に来た時よりも一つ増えている。最後に来たのはいつのことだっけ。


「清彦君、ごめんなさいね。お待たせしちゃって」

 綾子の母親が、いそいそと麦茶を盆に載せてやって来た。

「いえ、いいんです」

 清彦はグラスを受け取ると、軽く頭を下げた。

 隣には綾子の二歳下の弟、たかしが座っている。隆はかりんとうをぼりぼりやりながら、グラスを受け取った。

「お母さ~ん! 帯締めるの手伝って!」

 廊下の向こうから綾子の声が聞こえた。綾子の母はすぐさま甲高い声で返した。

「んもう、あんたは清彦君が来てるっていうのに、恥ずかしくないの! ……ちょっとごめんなさいね」

 綾子の母は気まずそうな笑顔を浮かべると、盆を床に置いて立ち上がり、綾子の部屋へと向かった。廊下をパタパタ歩く足音が遠ざかり、綾子の部屋のふすまが開く音がした。

まさしは?」

 清彦は末っ子の弟のことを尋ねた。

「昼から祭りに出かけてるよ」

 隆は麦茶を一口飲んで言った。声変わりした頃から、隆はこんな風にボソボソした話し方をするようになった。

「隆は? 祭り、行かないの?」

「行くよ。五時半に友達と駅で待ち合わせしてる」

 清彦は時計を見た。四時半を少し過ぎたところだった。


「清ちゃん、姉ちゃんと結婚すんの?」

「え!?」

 あまりに突拍子も無い問いに、清彦は危うく麦茶を噴き出しそうになった。それをどうにか飲み込んで隆の方を見たが、隆はいたって平然としていた。

「だって、お付き合い、してるんでしょ?」

「いや……まだ、そういうのじゃないし」

「まだ?」

 隆はちろりと視線を向けた。清彦は一瞬で顔が赤くなった。墓穴だ。

 思わずうつむいてしまう。

「姉ちゃんのこと、頼むね」

 隆はボソリと言った。清彦は思わず顔を上げた。

「……うん」

 ずいぶん経って、清彦はうなずいた。


 さっきより一人分多い足音が近付いて、ふすまが開いた。綾子の母が入ってきた。

「さぁさ、お待たせしました。あら、綾子、何恥ずかしがってんの」

 促されて、綾子がそろそろとふすまを開けて入ってきた。清彦は目を見張った。

 浅葱あさぎ色の生地に、紫陽花の模様が白く染め抜かれた浴衣。帯は、山吹色と抹茶色の市松模様。べっこうの帯留めが付けられている。

 髪は綺麗に結い上げられていて、淡い桃色のビー玉のようなガラスの飾りが付いたかんざしが見える。

 浴衣を着た綾子を見るのは何年ぶりだろう。清彦は息を飲んでしばらくの間見とれていた。

 綾子の頬はほんのり紅潮していた。そしていたたまれなくなったのか、おずおずと一回転して見せた。帯は上品な文庫結びにされていた。襟から覗くうなじは眩しいくらいに白い。

「……どう?」

 清彦が口を半開きにしたまま黙っていたので、たまらず綾子は上ずった声で訊いた。清彦は我に返った。

「似合ってるよ」

 迷わず、清彦は言った。綾子はますます頬を赤くしたが、目と口元は素直に緩んだ。

「ありがとう。この帯、親方が私のために織ってくれたものなの。仙台に出発する前日に、急に手渡されて……私、あんまり嬉しくて泣いちゃった」

「まぁ、そうだったの」

 綾子の母親は口元に手を当てて、驚いたように言った。

 道理で、と清彦は納得した。その控えめながらも不思議と目を引く色合いは、正真正銘綾子にあつらえられたものだったのだ。

「それから、この浴衣は、工房の先輩の香奈さんがくれたの。『そんな若い色、うちはもう着られへん』って。香奈さんだってまだまだ若いのに……面白い人なんだ、ちゃきちゃきしてて。京都の人なのに、江戸っ子みたいで」

 語る綾子の顔は楽しそうに輝いていた。

「いい人達で、よかったな」

 清彦は目を細めた。

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