第11話

 ロクサーヌは目的を確固として、ひたすら獣道を進んでいた。高木が鬱蒼と並ぶ森の中は、葉の緑に染まった明かりで照らされている。獣道の外には草がみっしりと密集し、樹木の幹にも苔が生え、あらゆる植物が太陽を拝もうと苦心していた。前を見ても後ろを見ても、景色はそう変わらない。前後を見失えば、迷子になるのは確実だった。

 幸いなのは、川岸からフロネーの小屋まではそう遠くはないことだった。それでも進むほどに道は険しくなるが、工夫すればロクサーヌでも少しは楽に突破できる。

 彼女は下ろしていた髪を纏め、輪っかできつく縛る。煩わしいドレスの裾をベルトで腰に固定すると、下に履いていたズボンが現れた。王女としては憚られる行為だが、人気の一切ない森でこそできる大胆な行動だった。

 ロクサーヌはしばらく進むと、倒木を乗り越えた坂から、低地にあるフロネーの小屋を探した。薄い霞が視線を阻んでいるが、彼女は一際明るい箇所を見つけた。彼女は息を上げながら、また歩みを進める。

 十分もしない内に、ロクサーヌは森林に穴が開いたかのように開けた場所に出た。そこだけは樹木が取り払われて、土は平坦に均されている。明らかに人の手が加わった土地の中央には、ぼろぼろの小屋が心許なく建っていた。

「———っ」

 ロクサーヌは頭上から甲高い音が聞こえた気がして、青空を見上げた。高木に遮られているものの、澄み切った空色があるのはわかる。それ以外に目に映るものはない。何かが潜んでいる気配もなく、ロクサーヌは疑問に思いつつも音を空耳と断じた。

 小屋に視線を戻した彼女は少しだけ警戒を強めていた。誰かから助言をされたわけではないが、そうした方が腹の虫が騒がない。

 彼女は小屋に近づき、ドアをノックすると、立て付けが悪いのか、ドアは蝶番ごと騒がしくぐらついた。

「フロネー、居るよね?」

 弱々しい彼女の呼びかけに返事はない。ここまで足を運んだロクサーヌはまさか踵を返すこともできず、ドアの取っ手を掴んだ。鍵はかかっていなかった。もとより鍵が無用と思えるほど朽ちかけた木の板だったが、無いよりはましなはずだった。

「フロネー?」

 再度の呼びかけにも答えはない。

 小屋の中には、およそ自然界にはない臭いが立ち込めていた。鼻を弾かれるようで、微かに草花の青臭さが混じってもいる。薬に似た物なのかもしれない、とロクサーヌはドアを開けたままに固定して思った。

 小屋は内壁によって二部屋に仕切られており、玄関のあるリビングは無人だった。紙が広げられたテーブルの周囲の床には書物や器具が散らかり、奥のフロネーの部屋に続く通路以外に足の踏み場はない。

 ロクサーヌはもの静かな室内を忍び足で進むと、フロネーの部屋とリビングを隔てるカーテンに手を掛ける。

「フロネー!」

 部屋の境界をくぐったロクサーヌは意表を突かれ、叫んだ。それは、フロネーが窓の下で眠っているからではなく、項垂れる彼女の憔悴があまりにも痛ましかったからだ。

「ああ……ローシー」

 フロネーはすぐそこに居るはずの知己に顔を向けても、なかなか焦点が定まらない。ロクサーヌは、よろよろと彷徨う木の枝のようなフロネーの腕を掴んだ。

「何があったの。教えて」

「研究に没頭していただけだよ……。錬金術師は勤勉なのサ」

 目を閉じれば抜け落ちてしまいそうな意識で軽口を叩こうとしても、ロクサーヌを誤魔化すことはできない。そればかりか、覇気のない小声はロクサーヌの心配を一段と深くさせた。

「嘘言わないで。研究に没頭? それでこんなになるわけない。お金がないんなら城に来てよ。幾らでも食べる物は用意できるから」

「それじゃあ、国王様は良く思わないでしょ?」

 フロネーはロクサーヌの心優しい提案も断るしかなかった。彼女は時計を一瞥して、イポスティからの伝言を思い出す。作戦が成功していれば王城は間もなく陥落する頃合だ。フロネーは、ロクサーヌを少しでも長く引き留めて、何も知らないままでいさせるのが関の山だった。

「もう、卑屈にならないで。あなたはカタストなんかと関係ないんだから、堂々としていればいいの」

「そうだね、カタストとは関係ない……」たとえ、イポスティに加担していたとしても。

 フロネーはにわかに、この場から逃げ出したい衝動に駆られた。

 沈黙が充満する。会話をして取り繕わなければとフロネーは自身を急かしても、強いまどろみからすぐには復帰できない。

 ロクサーヌは彼女の部屋着の襟に付いた湿り気をなぞって、フロネーの顔を覗き込んだ。

「私、フロネーをここに置いて行けない。ねぇ、一緒に城に行こう? お父様くらい宥めてあげられる」

「いいや、……城には行っちゃダメなんだ」

「どうして」と言いたげなロクサーヌを、フロネーは言葉で抑える。

「ダメなものはダメだ。行けないんだよ。ねぇローシー、少しの間休んだら良くなるからさ、ちょっとでいいんだから、ここに居てくれないか?」

 寂寥を含んだ彼女の眼差しに、ロクサーヌは言葉を呑んだ。無理にでも連れ出そうと意気込んでいたはずが、すっかり絆されていた。

「……うん、わかった」

 ロクサーヌは、倒れていた空の薬瓶の蓋を固く閉めた。

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