第一章 細い指先

暗闇に、スポットライトが伸びていた。

一人の男を照らす。


ギターを奏でている。

男にしては指が白くて細い。


軽快なスリーフィンガーのメロディーが流れる。

甘いマスクが切なく表情をゆがめていた。


やがてストリングスをストロークに変え、

サビの部分を熱唱していく。 


※※※※※※※※※※※※※※※


もしも戻れるのなら

もう一度

ぺガサスの翼を翻し

閉じ込めていた愛を君に届けたい


間に合うだろうか 

消え去った二人の時間が

砂時計の底によどんでいる


ちっぽけな僕の力で

見つける事ができるのなら


ぺガサスよ

僕に勇気をおくれ


※※※※※※※※※※※※

  

ライブハウスのテーブル席に一人。

女が座っていた。


涙が溢れている。

女はそれを拭こうともしない。


暖かい。

心を包むように濡らしてくれる。


拍手が巻き起こっている筈なのに、

男との間には静寂の時が流れていた。


ポツリと願った。

あと少し。


そう。

もう少し。


このまま。

この幸福な時間に。


あなたと共にいられる時間に。

涙が頬を伝ってテーブルに落ちた。


やがて。

それはゆっくりと形を変えていった。


※※※※※※※※※※※※※※※


切れ長の瞳が薄っすらと開いた。

散乱した光が揺れている。


雪子の意識は現実の世界に戻るのを拒否するかの如く、霞んだまま遠くをさ迷う。


(ゆ・・め・・・?)


寒さを肩に感じた。

冷えたのか、カーテンを閉め忘れた窓が曇りガラスのようになっている。


庭の高いヒマラヤ杉が緑の影を落とす。

毛布を引き寄せた。


もう少し。

夢と同じようにと、願う。


心地良い余韻に浸っていたい。

久しぶりに見る伸男の夢であった。


二人が幸福であった頃の夢。

この記憶を逃したくない。


鮮明に残る伸男の残像。

長髪で少し痩せた顔。


細くて女のように白い指。


その指でギターを奏で、頬を優しく撫でてくれた。

透き通る声は雪子への愛を唱う。

 

その頃、雪子は十七歳。

高校三年生の春だった。


伸男はT大二年生で英文科に通いながら時折、

友人とのバンドでライブハウス等で歌っていた。


普段はギタリストなのだが、

たまに自作のバラードを唱う。


雪子に聞かせるように。


伸男が死んでから8年になる。

薄れかけた記憶がこうして、たまに夢に現れる。


だが雪子にとっては、かけがえのない愛に再び会える貴重な時間なのだった。


今も伸男を愛している。

思い出の一つ一つが美しく胸の中に宿っていた。


伸男以外の誰も愛せない。

彼が死んだ事によって、生涯の自分の恋も終わったのだと思っている。

 

目覚まし時計が意地悪く雪子を現実に戻す。


細いため息をついて起き上がると窓に寄り、指で曇りをぬぐった。

広い庭の枯れ芝一面に霜がおりている。


あれから8年。

今年で雪子は二十五歳になる。


ため息が再び曇りを作った。


※※※※※※※※※※※※※※※


朝食のテーブルに着くと、

父の正秀がすでに食事を終えてコーヒーを飲んでいた。


広洋銀行の頭取で今日も早くから役員会議がある。

熱心に経済新聞に目を通している。


雪子にとって優しくかけがえのない父であるが、このところ頭に白いものが目立つようになってきたのが気がかりである。


金融危機の真っ只中、忙しく悩める日々が続いている。

責任感の強い父は会社を守り成長させる為、気の抜けない毎日を送っているのだ。


だからこそ、家族とのひとときを愛おしく大切にしている。

雪子を見かけると新聞から顔を上げ、いたずらな目をして言った。


「何だ、随分ゆっくりだな・・・。

秘書が遅刻してもらっちゃあ、

今日の役員会がうまく進まないぞ・・・」


「何を言ってるんですか。

いつもと同じ時間ですよ。

あなたが早く起きすぎるのよ・・・」 


母の文江が優しくたしなめる。


食事を並べる指は瑞々しく、

人生を楽しむには十分な気品と優雅さを備えている。


母から紅茶を渡され皿ごと引き寄せると口に含んだ。


「おいしい・・・

そうよ、お父さん。

この頃少し、ハリキリ過ぎよ・・・」


熱い紅茶を飲んで、やっと目覚めた気がしたのか元気よく言った。


「何を言うか、

この時期に頭取がはりきらなくてどうする?」


会話のキャッチボールを楽しむように父が答えた。

雪子は父である頭取付の秘書として、広洋銀行に勤めている。


縁故入社ではあるが成績優秀で大学を卒業し、有能な秘書として活躍する雪子を誰一人として非難する者はいなかった。


とりわけ、その輝く美貌は取引先からも羨望のため息がもれ、雪子をぜひにもという縁談もやむことなく押し寄せていた。


だが恋人の死から立ち直れない娘に、父も母も断る口実を考えるのに苦労するのだった。


もっとも正秀にとっては、まだまだこの最愛の娘と有能な秘書を手離す気等、サラサラないのだが。


一人の男を除いては。


父も母も、よく家にも遊びにきていた伸男の事を気に入っていた。

早くに両親を亡くし、親戚からも独立してアルバイトで学費を稼ぎながら、名門のT大に通うこの男を二人とも好きであった。


ゆくゆくは広洋銀行に入社させ、雪子と結婚させて後継者として迎えようなどと気の早い事もチラチラ頭に浮かんでいた。


もちろん、そんな事はおくびにも出さなかったが、娘の愛する男が好青年である事は二人とも嬉しく思っていたのだ。


雪子と伸男は、高校時代から英語研究会の先輩後輩として付き合っていた。


どちらも英語が得意で、雪子は必ず伸男と同じT大の英文科に通う事を決意していた。


ただ、その夢がかなった時、既に伸男はこの世にいなかった。


伸男は大学二年生の夏休みの時、バンドのツアー先である島に渡った。

途中で海に飛行機が不時着して沈んでしまう。


プロペラ型の古い飛行機は、いつも多少の悪天候でも出発していた。


たまたま遅れて到着した相川浩二と小野イサムの二人はこの事故にあわず、船から花束を投げ号泣する雪子を両脇から支える事しか出来なかった。


あまりにもあっけない恋人の死を雪子はどうしても信じられず、魚についばまれた遺体を見ても、とてもそれが伸男であるとは思えなかった。


だが確かに伸男の腕時計を確かめると、二人に支えられながら気を失ってしまった。


それは誕生日のプレゼントとして、雪子が伸男にあげた品であった。

今もその時計はガラスが割れ不時着した時間で止まったまま、雪子の机の中で眠っている。

 

そのまま雪子の心も閉ざされたままなのである。

だが、それは決して寂しいだけのものではなかった。


永遠の愛が雪子の中で眠っている。

かけがえのない愛が。


いつも雪子を見守ってくれている気がするのだ。

何か辛い事があると、この錆びた時計を取り出し伸男に問いかける。


不思議と心が安らいでいく。


何年か前に、恋人が死んでから幽霊になって守るというストーリーの映画を見てから、その想いはますます大きくなっていった。

 

きっと、男もそばで見守ってくれているに違いないと。


自分はこのまま一生、独身でもいいと思っている。

閉ざされたこの時間の中に自分は生きていく。


硬く心に決めていた。

優しく時計を撫でながら誓う雪子であった。

 

「さあ、そろそろ時間だ。

東野君、用意したまえ・・・」


頭取の顔に戻った父が、優しくはあるが厳しい口調で言った。


「は、はい・・・」


急に現実に戻された雪子が慌てて出ていくと、父と母は顔を見合わせ微笑んだ。

霜が降りた日の朝は寒いが、日中は暖かくなると予報が告げていた。


文江は二人を送った後、婦人会へ行く仕度にとりかかった。


ふと見上げると、抜けるような青空が広がっていた。

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