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 絶好の舟遊び日和だった。


 朝、カーテンを大きく開けると、ティーゼは青く澄んだ空を見て大きく伸びをする。


 サーヴァン男爵の赤面症を治すためのデートに間違いはないが、舟遊びを経験したことのないティーゼは、仕事を抜きにしても今日がとても楽しみだった。


 シンプルなえんじ色のドレスを身に着けると、スキップしそうな足取りで階下へ降りる。すでにダイニングにいたサーヴァン男爵に、日課となった「おはよう」のハグをすると、彼は相変わらず真っ赤な顔をして硬直した。だが、彼のその様子にもすっかり慣れっこになったティーゼは、気にすることなく微笑みかける。


「いい天気ですね! 舟遊び、きっと気持ちがいいですよ!」


 そして、硬直したままのサーヴァン男爵にかまわず、定位置につくと、すぐに食事が運ばれてきた。


 サーヴァン男爵もポールに促されてハッとしたようにティーゼの隣の席につく。赤面症克服のため「あーん」で食べさせあうことにしたので、席は隣同士だ。


 ティーゼがせっせと食事を差し出せば、サーヴァン男爵は固い動作でぎこちなく口を開けて、咀嚼して、飲み込んでいく。トマト色の顔は相変わらずだ。その様子をポールが微笑ましそうな顔で見ているから、ティーゼはたまに恥ずかしくなるが、これは治療の一環なのである。決してやましい関係ではない。


「男爵様、わたしも食べたいです」


 スクランブルエッグを下さいと言えば、サーヴァン男爵がぷるぷると小刻みに震える手でスクランブルエッグをすくって差し出してくれた。口をあければ中に入れてくれる。もぐもぐ咀嚼して飲み込んだあとで次をねだれば、またぷるぷると震えながら差し出してくれる。


(赤面症なんて、そんな気にすることないのにね)


 むしろ一生懸命な感じがして、なんだか可愛い。ぷるぷる震える様なんて、大の男の人なにのどこか子ウサギのようで愛らしいと思う。だが、本人が気になるというのだから、ティーゼは仕事として引き受けているので、治るように協力せねばなるまい。


 お互い「あーん」しあいながら、のんびり時間をかけて朝食を食べ終わると、ティーゼは外出の支度のために一度部屋に戻った。ティーゼは簡単に髪をまとめるだけにしようと思っていたのだが、サーヴァン男爵家のメイドたちが張り切って、凝った髪型に結い上げてくれる。舟遊びなのでドレスは今着ているものから着替えるつもりはなかったが、その代わりと言わんばかりに普段しないようなしっかりしたメイクをされた。ティーゼがアクセサリーをほどんどもってきていなかったので、アクセサリーのかわりにメイクで派手にするらしい。


 おかげで、鏡に映る自分は、これはいったい誰だろうと言わんばかりの仕上がりになった。目はいつもの二割り増しくらいにぱっちりしているし、薔薇色のチークのおかげで自分の顔なのにちょっと色っぽくなったと思ってしまった。口元は最近の流行だという、艶々でぽてっとした仕上がり。……本当に、これはいったい誰だろう。


「まあ、とってもお可愛らしいですわ!」


 メイドたちがきゃーきゃーと華やかな声を上げておだててくれるから、五割り増しくらいの美人になった気がした。あまり好きではない自分の赤銅色の髪も、華やかに結い上げてくれたからだろうか? いつもより気にならない気がする。


 サーヴァン男爵の待つ玄関に下りれば、彼は赤い顔のまま、ちょっぴりおどおどしながら可愛いと褒めてくれる。……悪い気はしない。


 結婚しても夫と一度も会ったこともないから、当然、男性とデートはしたことがない。仕事なのに少しだけドキドキしてしまうのは許してほしい。


(なんだかちょっと後ろめたいのはどうしてかしら? 仕事よ仕事。これは浮気じゃなくて仕事なのよ。しっかりしないと)


 メイドが日傘を渡してくれたので、それをさしてサーヴァン男爵とともに邸を出る。ティーゼが歩いていきたいと言ったから、男爵は明るめの茶色の帽子をかぶっていた。深くかぶりすぎのような気もするが、まぶしいのだろうか。


 ぎくしゃくしながら手を差し出されたので、ティーゼは男爵と手をつなぐ。耳まで真っ赤なサーヴァン男爵が一生懸命平静を保とうとしているのがわかるからおかしくなってくる。


 ライトバリー川までは歩いて一時間ほどだ。帰りは疲れるだろうから、終わるころに馬車が迎えに来てくれることになっている。


 サーヴァン男爵がすっかり緊張しているので会話は少なかったが、それでも、ぽつりぽつりと話しながら歩くのは楽しかった。


 ライトバリー川に到着すると、日差しを反射してキラキラと光る水面の上に、二人乗りの小さなボートがいくつか浮かんでいた。ボートには仲睦まじそうな男女が向かい合うように座っている。川のせせらぎに乗ったたまに笑い声が聞こえてくるのを聞きながら、ティーゼはサーヴァン男爵とボートの料金所へ向かった。


 男爵が料金所でボート一艘分の料金を支払って桟橋へ向かう。ボートは三日月のような形をしていて、乗るときに左右に揺れるので少しだけ怖かったが、乗り込んでしまえば思ったよりも安定していた。


 サーヴァン男爵がオールを手に、少しぎこちない様子で船を漕ぎ始める。ライトバリー川は川幅が広く、流れがとても緩やかなので、川の流れに船が流されることもほとんどない。川の上は微かに風が吹いていて、とても気持ちがよかった。


「涼しくて気持ちがいですね」


 日差しを反射してキラキラと光る水面に目を細めてティーゼが言えば、サーヴァン男爵が「そうだな」と頷く。帽子を目深にかぶっているため表情がはっきりと見えないが、口元がほころんでいるところを見ると楽しくないわけではなさそうだ。


 船の上にいるからだろうか。周りに使用人たちの姿もないので、二人きりの世界にいるような錯覚を覚える。だからなのか、普段訊ねることができないことも訊けそうな気がして、ティーゼはゆっくりと船を漕ぐ男爵に向かって問いかけた。


「あの……、一つ訊いてもいいですか? もちろん、言いにくいことならお答えいただかなくて構わないんですけど」


「いいぞ」


 サーヴァン男爵が顔を上げて、ティーゼと視線が絡むと照れたように視線を落とした。


 許可がもらえたので、ティーゼはその赤い顔を見つめて訊ねる。


「五年前でしたっけ……、男爵様が赤面症になったきっかけってあるんですか?」


 訊ねた瞬間、サーヴァン男爵が狼狽えたように立ち上がった。だが、船がわずかに揺れた途端、ここが船の上だと思い出したようで慌てて座りなおす。けれどもその拍子にかぶっていた帽子が頭から落ちて、ふわりと水面の上に落っこちた。


「あ、帽子!」


 ティーゼは思わず防止に手を伸ばす。手を伸ばせばぎりぎり届きそうな距離だった。しかし。


「危ない!」


 サーヴァン男爵が声をあげるのとほぼ同時だった。


 ティーゼが腕を伸ばしたことで、ぐらりと船が揺れて、あっと思ったときには、ティーゼはバランスを崩してーー


「ティーゼ!」


 サーヴァン男爵が手を伸ばすも、それにつかまる余裕もなく、ティーゼの体はばしゃーんと大きな水音を立てて川に落っこちていた。

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