第3話 死せる少女

 誘拐事件から二年、氏家レイカは死亡した。


 ※


 高校二年生となった五寸釘レオは、一学年下の氏家レイカと同じ都内の進学校に通っていた。

 自らが人間とは違う存在であることに負い目を感じていたレオは、レイカに近づかないように気をつけながら毎日を送っていた。気をつけなければならなかったのは、レイカがことあるごとにレオに近づいてきたからである。


 まともに勉強しているわけではないのにレオの学業成績は全国でも上位にあり、運動部に所属していないのに身体能力が異常なほど高く、校内では注目される存在だった。

 レイカとは幼なじみだったため、親しくしているところを見られても周囲から奇異な目で見られることはなかったが、レオはレイカとは関わらないように細心の注意を払っていた。


 いつものように、レイカをまくように自宅である地元神社に戻ると、母親の五寸釘クルミが巫女としての正装で出かけるところだった。


「今日はどこかの祭りだったかい?」

「まさか。氏家の本家から呼ばれたのよ」


 レオの能力は主に母親からの遺伝である。クルミも同じように身体の強化を得意とし、その影響か肉体の衰えが極めて遅い。外見だけであれば姉と弟に見られるが、加齢が遅い分クルミの結婚は遅く、レオとは通常の母子より年齢は離れている。それだけ、クルミの外見が若いのだ。


 クルミを迎えに来た車は、黒塗りの高級車だった。母が手を振って出かけ、レオは神社の裏手にある実家の玄関に行くことにした。

 神社には通常、社務所と呼ばれる事務所があり生活もできるが、住居としては落ち着かないため、五寸釘親子は別棟に居住している。


 『氏家の本家』とは、氏家レイカの家である。由緒ある旧家で、現代でもグループ会社のオーナーとして、日本屈指の富豪である。レオがレイカと距離をとろうとした、もう一つの理由でもある。日本でも屈指のお嬢様のそばに、半人間がいるのはふさわしくないと考えたのだ。

 





 レオとレイカが同じ高校に通っていることも、レイカと親しくしていることも、母に言ったことはない。

 母のクルミはレオと同様に半人間で、小さな神社の巫女として切り盛りしている。宮司は不在がちな父親だけであり、収入源がなんなのか、レオは知らない。


 ただ、幼いころから母はレオに産れつきの能力を磨かせていた。レオが神社を継ぐことを疑っておらず、大富豪とはいえ生粋の人間と付き合うことを歓迎するとは思えなかった。






 母親が乗った車を見送り、玄関から家に戻りつつ、レオは携帯電話を手に取った。

 レイカの家が熱心な神道の信者だとは聞いたことがない。母クルミが呼ばれ、巫女の衣装で出かけた以上、何かが起こっているのだ。

 レオは確認せずにはいられなかった。レオからレイカの携帯に電話をしたことはなかったが、無理やりレイカに携帯の番号を登録させられていた。


 登録させられた氏家レイカの番号をタップする。

 レイカはどんな反応を示すだろう。過剰に喜び、有頂天になったレイカをまずどうなだめようかと想像しながら、携帯電話を耳に当てた。

 反応は、予想外のものだった。


『お嬢様が電話に出られる状況ではないことはご存知でしょう。なんの悪戯ですか?』


 聞いたことがある。落ち着いた老成した声は、氏家に仕えるレイカの教育係に間違いない。


「レイカに何かあったんですか?」

『あなたは……失礼、登録が苗字だけでしたので、お母様からだと勘違いしました。お答えすることはできません。お嬢様は大丈夫です。詮索は無用に願います』


 言いたいことだけを告げ、電話は切れた。

 レイカの携帯電話に、教育係とはいえ他人が出た。『電話に出られる状況ではない』と言われた最初の言葉が、レオの中で繰り返された。

 氏家レイカに、何があったのか。

 学生鞄を放り出し、五寸釘レオは外に飛び出していた。


 


    

 五寸釘レオが育った神社と氏家の本家は、小高い丘を挟んで背中合わせの位置にある。

 レオとレイカが幼なじみだったのは、身体能力に優れたレオが丘を駆け昇ってレイカの家まで遊びにいくことができたからであり、普通に舗装された道を歩けば30分以上かかる。昔のように丘を越えれば、車で移動している母親より氏家の屋敷に早く着ける自信があった。


 母親のクルミもレオと同じように身体能力の強化を得意としており、走ったほうが着くのは早いはずだ。あえて迎えの車を手配され、それに乗って行ったということは、格式にこだわる要件であるということだ。レイカと巫女姿の母から想像できることに良い印象を抱かず、レオは不安を募らせていた。


 無意識のうちに身体能力の強化をしたのか、わずか数分で丘を駆け上り、氏家の屋敷を見降ろせる位置に到達していた。

 氏家の一族は旧家であり、屋敷の背後から見降ろすことを許すはずがなく、丘はすべて氏家の所有である。レオが育った神社は、氏家の敷地を借りているにすぎない。当然丘を登ることも禁じられているが、宮司や巫女の健康のためと称して散策することは許されている。もちろん、丘の頂上から氏家の屋敷に向かって駆け下りるようなことが認められるはずがない。レオが中学生になった年から、正式に禁止され、それ以降は丘に登ったことはなかった。


 禁じられているはずの行為を、レオはあえて実行した。レイカに何かが起きている。それは推測にすぎないが、確信に近い実感があった。

 





 屋敷の裏手の塀に達する。真っ黒い板塀が、約3メートルの高さでぐるりと屋敷を囲んでいる。いい趣味とはとても思えないが、近寄り難さを演出するには最適な壁だった。

 板塀に見えるが、そもそもただの木の板とは限らない。レオは塀を見上げた。


 脚力を強化すれば、飛び越えることもできるだろう。今まで、試そうとしたこともない。そんなことをすれば、神社そのものが追い出される事になりかねない。

 わずか一回の跳躍が、取り返しのつかない事態を招くかもしれない。それは、今も変わらないのだ。


 もう一度、レオは携帯電話を手に取った。

 すぐに出た。相手の反応を待たず、レオは一気にまくしたてた。


「神社の五寸釘レオです。レイカさんの携帯電話にかけています。レイカさんと話をさせてください」


 答えたのは、女性の声だった。レオには聞き覚えがあった。レイカの世話をしている女性だ。


『お嬢様は話せないの。事情は言えないわ。旦那様が口外するなと……何が起きるのか、わたしには……あっ……』


 盛大な雑音とともに、通信が途絶えた。

 携帯電話を懐にしまい、レオは迷いを振り切って3メートルの板塀を飛び越えた。



  ※



 蛇目スズは、頬をぶたれて床のじゅうたんに崩れ落ちていた。

 若い頃から氏家の使用人として仕え、ここ数年は本家の唯一の子供であるレイカの世話役として働いていた。


 旧家である氏家本家の奥、レイカの寝室の一隅でのことである。

 レイカの寝室は、普段は大きなベッドが置かれた広い部屋だが、今は天井まで届く仕切りで分断されている。

 仕切の向こうにレイカがいるはずだが、学校から帰ってきたレイカは男達に抱えられていた。スズは見ることが許されず、レイカの状況も知ることができなかった。


 レイカの荷物はまとめて外に出され、そのうちのいくつかに、血と思われる赤い液体が付着していた。


「余計なことを言うからだ」


 スズの頬を撃ったのは、スズよりはるかに昔から氏家に仕えている使用人の祢津ジンベエだった。民間会社であれば当に定年退職しているはすの年齢で、頭部もすべて 白髪で覆われている、いかめしい顔つきの大男である。

 レイカの父である氏家当主の信頼厚く、レイカの教育係を勤めながら、当主不在の場合には屋敷全体を取り仕切っている。


「でも、お嬢様がかわいそうです。五寸釘家のレオさんは、ただの幼なじみじゃないんですよ」

「お前に言われなくても、そんなことはわかっている。だからこそ、近づけるわけには行かないんだ」


 ジンベエはスズから奪ったレイカの携帯電話の電源を切った。2度とかかってこないようにである。テーブルの上に置いた。他にも、レイカの所持品が並べられていた。


「お嬢様はまだお若いんです。小さいころから憧れていた好きな人がいるのに、話もさせないなんて酷すぎます」


 スズはへたり込んだまま話していた。じゅうたんに座り込んだ現在の姿勢が、男の感心を惹くことも意識している。だが、ジンベエはスズを見もせずに答えた。


「そういう意味じゃない。あのレオという男は、普通じゃない。2年前にレイカお嬢様が誘拐された時、誘拐犯人が勝手に仲間割れして、お嬢様が隙を見て警察に連絡したことになっている」

「……その時のことは知っています。大変な騒ぎでした」


「お嬢様の服は血だらけだった。お嬢様の話からは、お嬢様の服に血が付くはずがなかったから、警察の知り合いに言って調べさせた。その場にいたはずの、誰の血でもなかった。可能性のありそうな人間のDℕAをすべて調べた結果、五寸釘レオの血液だと判明した」

「……まあ」


 蛇目スズは驚いた。当時はレイカの武勇伝として語られた事件に、五寸釘レオが関わっていたとしたら、レイカがスズと2人だけの時、いつもレオの話ばかりしていたのもうなずける。


「当時、警察も全く手がかりがつかめなかった誘拐犯のアジトに乗り込み、人知れず助け出したとは考えられない。できるはずがない。ありえるとしたら、初めからレオが誘拐犯人を先導し、事件を仕組んだと考える方が妥当だ」

「レイカお嬢様は、レオさんを全く疑っていません。当事者のお嬢様が疑っていないというのに、レオさんが誘拐犯の一味だなんてありえないでしょう。それに、その時はまだレオさんは中学生です」


「お嬢様はずっと目隠しをされていた。主犯だとは言わないが、誘拐犯にそそのかされて手引きしたとしても不思議ではない。そんな男を、お嬢様に近づけるわけにはいかない」


 ジンベエは、あくまでレイカのことを考えて対処しているのだ。スズとしても、これ以上言い合うことはできなかった。

 ジンベエとしても、これ以上話すことはないのだろう。腕時計を確認してから、部屋を出ようとした。同時にジンベエの携帯電話が鳴る。


 スズには会話の内容はわからないが、ジンベエはただ聞いているだけのように見えた。携帯電話の向う側にいる相手に、短く指示をした。


「客人は丁重に出迎えるように。ご主人様の命令だ。侵入者については、お前たちで対処しろ。死んでも構わない」


 携帯電話を懐にしまうジンベエに、スズは尋ねた。


「侵入者? このお屋敷に誰が来たんですか?」

「裏山の塀を越えたそうだ。ただ高いだけの壁だとでも思ったんだろう。監視カメラの存在にも気づかない素人が……」


 ジンベエが懐から取り出した小型の機械に視線を落とした。スズにはわからなかったが、監視カメラのモニターを確認しているのだろうと、会話の流れから察していた。ジンベエが口を開く。


「間違いない。五寸釘レオだ。お嬢様にたかるハエのような男だ」

「幼なじみでしょう? 素敵じゃないですか」

「三メートルの壁を飛び越える男だぞ。ますます怪しい。それに、現段階でお嬢様は死んでいる。旦那様が口外を禁じているのだ。私たちが禁をやぶるわけにはいかない」


 スズが黙ったままだったためか、ジンベエはそのまま部屋を出た。客人とやらを自分で迎えるつもりなのだろう。スズは動けなかった。頭がいっぱいだったのだ。

ジンベエが最後に発した言葉が、いつまでも頭の中で渦巻いていた。

 レイカお嬢様は、死んでいる。

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