第4話 L.H.O.O.Q(彼女の尻は熱い)

「おい、お望みの通り、作品は描いたぞ」

「あら、お早いこと」


 翌日。3月末の日曜日の朝。

 俺はダイニングルームにやってくると、愛香は何もない様子でティーカップを啜った。紅茶の匂いがこちらまで届く。いい葉を使用しているのがすぐにでもわかった。

 ……この雌豚目。朝の紅茶をぷくぷく飲みやがって、カフェイン中毒になってしまえ。

 優雅にお茶を飲む彼女の姿は悔しいほど上品で、絵画にすれば貴族に売れる。そんな態度に俺は怒りを覚えた。

 こっちは、一晩中悩み、絵を描いていたのに、この女は何気もない様子でこの朝を迎えていた。こちらの様子を伺うことなく、楽しいお茶会をしていたのが、腹立つ。

 そんなお前に俺からの贈り物だ。

 この絵は、お前を永遠に恥ずかしくする絵になる。


「で、絵はどこに?」

「画廊にある。観に来るか?」

「いいえ。セバスに絵画をここに持ってくるように頼むわ。セバス!」

「はい」


 そうセバスの名前を呼ぶと、彼は短い返事をしてから画廊に入る。そして、しばらくすると、俺が描いたキャンバスと共に戻ってくる。丁寧にイーゼルも持ち出してきた。

 セバスはイーゼルを建ててから、俺が描いた絵をイーゼルの上に置く。


「っ!?」


 そう置かれた瞬間に、彼女は頬を真っ赤にして、苦虫を噛み潰した顔になる。取り乱しているのが、すぐにでもわかった。

 ハハハ!どうだ、俺の絵はお前を辱めるようなものだろ?この絵を知らないなど、と言わせないぞ。

 そんな羞恥心を抱いている主人をよそに、セバスが先に口を開いた。


「素晴らしい絵ですね。こうも一晩で繊細に描き、ちゃんと模倣が出来ております」

「どこか、素晴らしい絵なのよ。これは、これはまるで……」

「モナリザだろ?」


 俺の言葉に、愛香は真っ赤になると共にプルプルと震え出す。

 そうだ。俺が描いた絵はモナリザがモチーフにしたもの。上半身のみ描かれている一人の女性。右腕は左手をつかむようにし、こちらを覗かせている一人の女性。

 ただ、その違いは一点だけある。それは顔だ。

 顔はモナリザではなく、愛香の顔を描けていた。

 愛香の繊細な綺麗な表情をむすっとしているモナリザの顔に置き換わる、一枚の絵画。

 彼女の黒髪ローングはモナリザと似ている。おでこはそこまで広くはないところだけが、相違点だ。そこを除けば、ほぼモナリザに連想できる作品になった。

 

……これが、俺の芸術だ。


「お前をモチーフにして、描いた絵だ。素晴らしいだろ?」

「どこかよ!ただ、モナリザを改変しただけではないですか!これは芸術ではないわ!」

「おいおい。それは聞き捨てならないな。モナリザの絵はいくつも改変されて、新しい絵にもなっている。例で言えば、デュシャンの作品。L.H.O.O.Qもそのひとつだ。彼はモナリザに髭をつけて、新しい芸術作品になった。ちなみに、その作品名をフランス語で読むと『彼女は尻が熱い』と言う隠語もある。さらに、その絵は8500万円で落札されたんだぜ」


 そうだ。俺が尊敬する芸術家、デュシャンは様々な作品を創作し、それらに悪戯心をこもった作品が大数ある。その「L.H.O.O.Q」もその中の一つだ。芸術はなんなのか、考えさせてくれる。一つの作品だ。

 さて、俺の作品は評価されるだろうと、確信できていた。なぜならば、俺はモデルを使わずに、愛香の全てを描けたからだ。俺の才能の一つ、それは見たものを繊細に覚えられる。その人が初対面だろうと、俺は一瞬に覚えられる。そして、それを絵画に呼び起こせる。

 この作品も、俺の才能あってのことだ。だから、俺は学園長の目に入る実在だと確信を持てていた。


「じゃあ、この作品で学園長に見せてやってくれ」

「っつ!」

「おいおい。約束通り、今日までに描き上げたぞ?文句ないだろ?俺、指示通りに芸術作品の一枚を描いたぞ」

「……ええ。そうですね。けど、ペットの躾がなっていませんね」

「へ?」


 ぽちっと、愛香が手にしているボタンが押されると、電撃が首から流れてくる。

 俺は「ぎゃあああ」と叫びながら悶絶しながら、床をジタバタと踊り狂う。

 ……ひ、酷すぎる。ちゃんと、指示通りに絵画を描いたのに、なんで俺がこんな仕打ちをされなければいけないのか。


「や、やりすぎるぞ!愛香」

「愛香様、よ!」

「わ、わかった、愛香様。だから、追加にボタンを押さないでくれ!」


 そう俺が慌てて謝罪すると、愛香はゴホン、と咳払いをしてから話を進める。

 

「……わかりましたわ。この絵画を学園長にお見せします。学園長の判断にお任せします」

「ああ。よろしく頼む」


 俺はそう告げると、この部屋から出ようとする。

 一晩中作業していたから、外が恋しくなった俺は明日からお世話になる東京美高等学校に見学しに行く。

 俺と彼女の約束。それは、東京美高等学校に入学すること。

 その学校に何の取り柄があるのか、俺は知りたかった。

 どうして彼女がその高校に入学したかったのか、気になった。


「何処に行くのですか?」

「東京美高等学校だ。少し、学園を見学したい」

「……くれぐれも、身の程を弁えるように。あなたはまだ、この東京美高等学校の生徒ではありませんわ」

「へいへい。わかっています。」


 俺は、「ほんじゃ」と手を上げて、扉を開く。

 そのままその足で、マンションのエレベーターに乗り、一気に一階まで駆け降りるとマンションの外に出る。3月の太陽は暖かく、落ち着かせるものだ。

 麗な風を感じながら、俺はスマホの地図機能を起動させて道案内に従い、道並みを歩いた。

 目的地は徒歩で10分。千代田区にある名門校だ。

 しばらく歩くと、俺は校門が開いているのを確認できる。

 日曜日なのに、門は開いていた。それはこの学園には教会があったのだ。キリスト信者により、設立した高校だからだ。

その教会が行われる秘蹟に参加するため、キリスト教信者が教会の方へと集まっていた。

 俺は校門を入って、遠目からその秘蹟の参加者を眺めていた。


 ……神様は本当に実存しているのか?

 

もしも、実存しているなら、どうして彼女は交通事故に出会わなければならないのか?どうして、俺に芸術の才能を与えたのか?そして、どうして俺は交通事故のことを今でも鮮明に覚えられているのか?

 答えはいまだにわからないし、答の道筋も全く見えなかった。


「やめだ、やめ。そんな答えが出ない、形而上学的な考えはやめだ」

 

 それより、今は自分に掛かっている借金が重要だ。10億円も掛かった俺の謝金をどう返済するか、考えなければならない。

 うーん。どうしたものか、どうやったら簡単に10億を手にできるだろうか?

 そうだ。俺が神父に装って秘蹟に参加している信者にお金を巻き取ればいいのだ。


「よーし。俺が億万長者になるぞ!」

「もしも、よろしければ、秘蹟に参加しませんか?」

「いや、俺は……」

 

 ……いい、と放とうとした瞬間、俺は口が止まった。

 そこには一人のシスターが立っていた。黒いシスター服に黄金の十字架のネックレス。青い髪は蒼穹を連想させる色に、月の色を連想させる黄色の瞳。白色の肌は綺麗な肌だ。


「君は……死んだはずだ!」


 そう、そこに立っていたのは中学生から付き合っていた僕の彼女だ。水原千花。

俺の……大切な人。死なせたくなかった人。けれど、トラックに轢かれて、二ヶ月前に亡くなった、俺の彼女だ。亡霊が俺の前に立っている。しかも満面の笑みを浮かべながら、俺の方に顔を向けていた。


「こうして両足で立ち、あなたと話せるので死んではいません。生きています」

「おい冗談だろ。お願いだから、神様ジョークと言ってくれよ。悪い夢だと言ってくれ」

「神様ジョーク♪」

「いやいやいや。そう言う意味じゃなくて」


 そう冗談を言える彼女は、実態があった。両足はしっかりと大地を踏んでいる。こんな昼間から、幽霊に会う話は聞いたこともない。

 会話していると違和感を感じる。彼女は幽霊ではないし、俺の彼女、千花でもない。

 千花がこんなださいギャクを披露する人間ではないのだから。

 彼女はもっと、言葉を選ぶ人間だ。冗談にも疎く、元気いっぱいな少女だ。

 だから、彼女は僕の知っている彼女ではない。


「自己紹介が遅れました。わたしの名前は水原由美、と申します」

「由美?千花ではなくて?」

「千花は私の双子の姉です」

「そ、そうか」


 そこで、俺の脳はやっと活性化する。

 彼女、由美は俺の彼女……千花……の双子の妹だった。

 一卵性双生児で生まれた双子。だから、顔も声も仕草も俺が知っている千花に似ていた。

 そういえば、以前に由美も話していたな、自分には双子の妹がいると。けど、他校にいるため、俺は由美の存在を知らなかった。


「ああ、俺の自己紹介がまだだったな。俺の名前は吉田健次だ。明日から、この高校に転入するものだ」

「吉田健次様……もしかして、姉の恋人ですか?」

「……だったのが正しいな」

「お辛かったでしょう、姉があんな状態になってしまって」

「そうだな……」


 俺はそれだけしか話せなかった。死んだ人間の妹にどう顔向けすればいいのか、わからなかったのだ。この場合は謝罪したほうがいいのか?するとも、彼女に許しを請うことはすればいいのか。


「くっ!?」


 瞬時に、俺は吐き気がした。

 あの血の匂いと、サイレンの音が頭に響き渡り、忘れることができない。どうにもできなかった絶望感が胸を押し寄せる。自分の無能さが、自分を苦しめる。


 ……どうして、神はこんな記憶力がいい才能を俺に与えたのか?


 俺はその現場のことを今でも忘れることが出来ずにいた。

 血の匂いとサイレン音が、俺の脳に刻まれる。一生忘れることがないトラウマを植えつけられた。

 俺は自分の才能をここまで恨むことはなかった。

 だから、俺には重い、重い罰を受けなければいけない。

 死を持って、罪を償うのであった。

 くそ、10億円の借金がなければすぐにでも、飛び降り自殺するはずなのに!

 俺はよろめけた。目眩を払拭するために、近くの木に手で体重を支える。息が荒くなるのは気のせいじゃない。あの時の記憶がフラッシュバックしているのだ。深呼吸だ。

 スーハーと深呼吸して落ち着かせていると、由美は心配そうに、俺の背中に撫でてくれる。


「あのー大丈夫ですか?」

「あ、ああ。少し疲れただけだ。今日は帰らせてもらうよ」

「でも、顔色が……」

「大丈夫だ。今日はここで失礼するよ」


 俺はそれだけ告げると、立ち上がる。彼女から逃げるように走り出した。

 初恋と同じ顔、その優しい仕草には耐えられなかった。

 俺は罪人だ。優しく接しないでくれ。と、俺は神を呪いながら、桜道を駆け抜けた。

 罪には罰が下される。いつか、俺には神を呪った罰が下される日が来るのだろう。

 彼女を死なせた罪……重い罰が下されるのだろう。

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