第45話 華恋の夏休み

 そうして私がどう夏休みを過ごしたかというと、それはもう、高校二年生の夏休みとして大変健全な時間を過ごしたと言えるだろう。家族旅行に行ったり部活に参加したりパートナーや友達と過ごしたり。




 愛生に誘われるがままクィアの支援団体を訪問したし、クィアの交流会に参加もした。色々な支援が存在していることを知ったことや、自分たち以外のクィアと話ができたことなど、収穫はたくさんあった。

 中でも個人的に一番大きな収穫は、ジェンダーマイノリティの当事者と交流できたことだ。


 トランスジェンダーやノンバイナリーという単語は知っていても、カミングアウトしている当事者に会ったことはなかった。けれど、実際に『私はトランスジェンダーです』と言われ、交流して感じたことは、本当に私たちと何ら変わらない、ということだ。


 もちろん、当事者としての苦労をたった数十分話しただけの私が大したことのないように言い捨てることなんてとてもできない。それでも、何か自分とはかけ離れた存在なのではないかと思ってしまっていたことが、全然そうではなかったということに気づけた。


 それが、私の中ではとても大きな収穫だった。




 それから、莉緒と一緒にミライさんを訪ねて小論文を書く特訓をした。


「普段のクィア研究でやってる意見交換。あれをそのまま文章にする感じだよ」


 ミライさんはさらっと言うけれど、口で伝えるのと文字で伝えるのとでは勝手が違う。なかなか思っていることがうまく伝わるように文章にするのは難しい。


「あの~、もう少し具体的なアドバイスはないでしょうか」


 困り果ててそう言うと、ミライさんはしばらく考え込んだ後、さらっと答える。


「最初に一番言いたいことを書く。その根拠を何個かあげる。反論が来そうなところを補足する。最後にまとめる。これだけ」


 そんな『野菜を切るでしょ、炒めるでしょ、はいできあがり』みたいに言われても、こちらはど素人なのだ。

 私が不満げな目を向けると、ミライさんはニッと笑った。


「ごちゃごちゃ考えるより、まず書いてみる。『経験に勝る知識なし』って言うじゃない」


 その言葉から、ミライさんは『考えるより感じろ』タイプなのだということがはっきりした。


 そんなあれこれもありつつ、莉緒と一緒に小論文を書き、書いたあとはお互いの小論文を交換して読み合いをした。


 お互いに分かりにくいところを指摘し合い、説得力のある文章へと昇華させていく。


 普段から意見交換をしているからか、指摘する際も素直な意見を出し合うことができた。


 そうして何度か書いては読み合い、また書いては読み合い、という作業をしていると、自分の文章が洗練されていくのを感じた。


「『習うより慣れろ』だね」


 莉緒がミライさんの言葉に応えるようにそういったのが、ちょっとくすぐったかった。




「そういえば、ミライさんって私達のやることにあまり口出ししませんよね」


 莉緒との小論文特訓にも慣れてきた頃、ふと思ったことを口にした。


「そう?」


 ミライさんが首を傾げてそう言うので、私はさらに言葉を付け加える。


「はい。普段の研究会でもほとんど黙って私達の話を聞いてるだけだし、この小論文も、基本的には私達で書いて読んでを繰り返してるだけですし」


 もちろん、アドバイスを求めれば応えてくれる。それでも、何かを求めない限り、ミライさんは基本的に傍観者なのだ。


「ま、私、先生のつもりないし。自主性を重んじてるからね」


 ミライさんがカラカラと笑ってそう言った代わりに、莉緒が少し悲しげな顔をする。


「華恋は、その、それが不満なの?」


 そう言われて、私はハッとする。確かにこれではまるでミライさんの怠慢に文句を言っているようだ。


「あ、違います! ミライさんに不満があるとかじゃなくて、ちょっと気になっただけで」


「うん、分かってる」


 その時、いつも曇り一つない太陽のようなミライさんの笑顔が、どこか悲しげに見えたのは、多分、気の所為などではないと思う。


「あ、あの、私、本当に考えなしでごめんなさい」


 全く意図していなかったとはいえ、ミライさんを傷つけてしまった。言われた側の気持ちを考えずに言うべきことではなった。


 それが申し訳なくて、私は誠心誠意の謝罪を口にした。


「え、何々、どうしたの? 別に本当に気にしてないよ?」


「え、でも、なんだかその、ミライさんが悲しそうに見えたので……」


 そう言うと、ミライさんはバツが悪そうな顔をした。


「あ、そっかごめん。そんな風に見えちゃった? でも、それはまた別のことだから」


「別のこと、ですか?」


 それが私をかばうためについた嘘なのか、本当のことなのかは私には分からなかった。


「うん、だから本当に気にしないで」


 そうして、またいつものように笑うミライさんに、なんとなく、それ以上は聞いてはいけない気がして、私は黙ってうなずいた。




「……あれ、まずかったよね」


 その日の帰り、莉緒にボソッとそう言った。


「……」


 それに対して莉緒は何も答えなかった。こういう時、いつもの莉緒なら『そんなことないよ』と励ましてくれるのに、何も答えないというのは珍しかった。


「莉緒?」


 思わず名前を呼んで様子を伺うと、莉緒は何やら真剣に考え込んでいるようだった。


「……えっと、もしかして、怒った?」


 莉緒がもしミライさんのことを好きなら、ミライさんを傷つけるようなことを言った私に怒っているのではないか。

 そう考えての発言だった。


「……怒っては、ないよ」


 莉緒はやっと口を開くと短くそう言った。


「……じゃあ、何考えてるの?」


 少し聞くのはこわい気持ちもあったけれど、静かに尋ねる。


「……」


 しかし莉緒はなかなか答えてくれず、沈黙の分だけ自分の心が深く沈んでいくのを感じた。

 それでも辛抱強く待ち続けると、莉緒はようやく重い口を開いた。


「あの、私、華恋の何でも思ったこと言えるところ、格好良くて羨ましいって思ってる」


「うん」


「でも、今日は少しだけ、良くなかったかなって思う」


「……うん」


 思った通りの発言に返す言葉もなく、ただ返事をするだけの私。


「あの、これは考えすぎかもしれないけど」


「うん」


「……やっぱり何でもない」


 しかし、莉緒の言葉はそこで途切れた。




 その時何を言いかけたのか、私には検討もつかなかった。

 ましてやそれが私達のクィア研究の地盤を揺るがす大事件の前兆だったなんて、想像すらできていなかった。


 だからその時の私にとって、それはたくさんある夏休みの出来事の一つでしかなくて、そんなことがあったことすら忘れて、私は新しい学期を迎えたのだった。

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