fragrance

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「はい、これ。あげる」

 差し出されたそれは、友香の手の中に握り込めるほどの小さな瓶だった。薄桃に色付いたガラスには、繊細な切り子細工で星のような模様が描かれている。指先で持ち上げて光に翳すと、中に入った液体がゆらりと動くのが見える。

「何これ、香水?」

 取り敢えずそれを受け取って訊ねた友香に、そう、と年上の友人エリカは頷いた。公園に面したオープンカフェのテラス席には午後の陽光が燦々と差していて、小瓶の切り子細工を通した光がテーブルの上にキラキラと瞬いている。

「買ってみたはいいんだけど、私には甘すぎるんだ。友香の方が似合うと思う」

 そう言ったのは、古なじみの情報部員だ。幹部候補生時代、人界演習の際に世話になって以来の付き合いだ。当時は人界の駐在員だった彼女は、候補生たちが人界の生活に馴染めるように生活面で何くれとなく世話を焼いてくれた。こうして友香が公安部長官になった今でも「友人」として付き合いを続けてくれている姉のような存在だ。

「付けてみない?」

 そう誘われたものの、友香はうーんと首を傾げた。

「外回りが入るとまずいしなぁ」

 仕事柄、友香は香水の類いを付けない。特定の香りを身につけることで、こちらの存在を敵に察知されるリスクが高くなるからだ。

「そういうとこ! あんたって子はほんとにもう」

「え、なに」

「休みの日くらい、仕事を忘れなさい」

「そうは言われましても……」

 今日は一応非番だが、何か問題が起きた時には、急遽人界に出ることになるかもしれないと思うと、どうしても二の足を踏んでしまうのだから仕方ない。

「あとね、年頃なんだから、もう少し自分を飾ることを覚えなさい」

 聞き慣れた小言に、友香は苦笑交じりで眉尻を下げる。目の前の友人――エリカは美人だ。元の造作が整っているだけではない。彼女の美しさは普段から手入れを欠かさず、服装から髪型、爪の色に至るまで、いつ見ても完璧にコーディネートしているからこそのものだ。友香よりも十は年上の筈だが、とてもそうは見えない若々しさだ。自分にはとても真似できるものではないと、友香は思う。

「飾るって言っても、綺麗な服着てたら動けないじゃない」

「それ! その公安的思考!」

 友香の言葉に、呆れた様子でエリカは人差し指を立てた。

 彼女が所属する情報部は、武官の中でも女性の比率が高いことで知られる。あらゆる所に根を張り潜入し、必要な情報を手に入れる諜報活動には女性の力が欠かせないからだ。特に長く人界で駐在員をしていたエリカは、場に合わせた服装やメイクの使い分けが任務の成否を分けることをよく知っている。

 友香も公安長を目指すことを決めた時、せめて情報部にしてはどうかと義父から再三奨められたのを覚えている。武力第一の公安部よりは女性が重用されやすいからだ。けれどこうして情報部の女性たちを見ていると、自分には難しいだろうと思わずにはいられない。もし義父の奨めに従って情報部に入っていたら、自分は長官にはなれなかっただろうと友香は思う。

「ほんと、戦うことしか考えてないんだから」

「あ、でも。昔に比べたらスカートも履くようになったよ」

「あんたがミニスカートで思いっきり回し蹴りしたの、忘れてないわよ」

「……それは忘れてください」

 候補生時代、初対面のエリカに「そんな男の子みたいな格好ばかりじゃだめよ」と言われ、買い物に連れ出された先で、はじめてミニスカートを履いた時のことだ。ふわりとしたシフォン生地のそれを試着した瞬間、これならズボンよりも動きやすいと思った友香は、その場で勢いよく蹴りの素振りをしてしまったのである。幼い頃からもう何年もスカートを履いていなかったせいで、下着の存在を完全に失念していた――というのはあまりにも言い訳がすぎるだろうか。あの時、ロンやハルが同行していなかったことだけが不幸中の幸いだった。さもなくば、その後延々と説教を食らっていただろう。

「とにかくね、休みの日くらい仕事のことは忘れておしゃれしなさい。じゃないと、いつまで経っても彼氏できないわよ」

「恋愛(そういうの)はちょっと私には向いてない」

「お黙り。ほらさっさと手を出しなさい。その香水付けたげるから」

「えええ……」

 言うが早いか、エリカは手を伸ばして友香の手首を掴む。小瓶の蓋を開けて中の液体をほんの一滴、手首の内側に垂らすと、甘やかな花の香りがふわりと辺りに漂った。

「あ、良い匂い」

「香りとお言い」

「でもこういうのはやっぱりエリカさんみたいな美人の方が」

「分かってないわね」

 エリカは嘆息して、友香に指を突きつけた。

「こういう甘めの香りは、友香みたいな若くてかわいらしい子がつけてなんぼなのよ。公安長はゴリラじゃなくて年頃の娘だって少しはアピールしたらいいわ」

「……アピールは、できないと思う。というか無理」

 女だてらに公安部の長官を務める友香のことを、一部の職員がそう――畏怖を込めて――呼んでいることは知っている。友香自身は別に何と呼ばれようと気にしないが、ゴリラが唐突に花の香りを漂わせて歩き出したら、それはそれで恐怖されるのではなかろうか。

 どう考えても、香水を付けたくらいで自分への評価が覆るとは思えないし、どうせなら仕事の内容で評価されたいと友香は眉を寄せる。とはいえ。

「……まあ、たまには良いか。ありがとう」

 仄かに香る花の香りは、確かに最近の激務で疲れた気持ちをほぐしてくれるような気がする。普段付けないからこそ、なんだかこそばゆいような。

 そう評した友香に、我が意を得たりとばかりにエリカは口元を緩めた。

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