焚火

 山の雑木林を踏み分けて、坂道を登った。緩やかな勾配にじわじわと体力を奪われる。もう夜中じゅう歩き続けているのだ。すでに疲労が限界を超えている。

 やがて、倒木が朽ちて拓けている場所に出た。ここで一旦立ち止まり、月の光を頼りに乾いた枝を拾う。


「ここで休もうか。火を起こそう」


 シオンも一緒に枝を拾う。


「イチヤくんの言ってたとおり、火があれば獣が来ないのかも。ガザ、柵に松明燃やしてた」


「そうだね、それに光があればシオンの怪我の手当てもできるよ」


 クオンも真似して枝を集めて、俺のところへ持ってきた。

 集めた枝を、倒木の前に積む。俺はその前にしゃがんで、背嚢から白い石を取り出した。クオンから貰った、火起こしの石である。月のエネルギーが文明を生む前は、この石が月の民の暮らしを支えていたのだという。

 マッチを箱に擦るような要領、石同士をカチンと擦り合わせてみる。火花が光ったかと思うと、その小さく削れた石が枝の中に落ち、みるみる間に枝が燃え盛った。


「わーい、あったかい!」


 クオンが呑気に手を当てる。シオンは膝を抱いてため息をついた。


「もう、遊びじゃないんだよ?」


「分かってるよ。でも、どうせならこの状況を楽しんだ方が得じゃない?」


 燃える炎が、ふたりの頬をほんのりオレンジ色に染める。揺らめく光を受けて、ふたりのそれぞれ黒と白の髪が、きらきらと色を変えた。

 火の灯りで照らして、転んでいたシオンの足を手当する。足を挫いていたのと、少し膝を擦りむいている。クオンが背嚢を下ろし、薬草と包帯で処置をした。

 ひとまずここまで、大きな怪我をせずにやってこられた。


 暗くて周りがよく見えないが、今のところ、フクロウらしき鳥の声が聞こえるくらいで嫌な気配はない。人里、ガザが近いからだろうか。

 俺は炎を見つめ、ぼやいた。


「野生生物だけじゃなくて、山賊も出るらしいからな。それはもう、どう対策すればいいのやら」

 

「そうなったら……どうしよう。どうしようもない」


 クオンが背嚢から果物を取り出し、串に刺して焚き火に当てる。シオンが同じように果物を焼きはじめ、俺もそれを真似た。パチパチと、火の爆ぜる音が耳を擽る。クオンがふふっと笑う。


「野宿なんて初めてだね」


「うん。イチヤくんは?」


 シオンが俺を見る。俺は火を眺めて、考えた。


「多分……初めてじゃない。いや、ここまでサバイバルな状況は初めてだけど、野宿は……」


 大自然の山、燃える炎、焼ける食べ物の匂い。

 俺はこの光景に近い景色を、知っている。


 炎がパチッと音を立てる。光の粒が空気中で弾けたのを見た瞬間、俺の脳裏にその風景がフラッシュバックした。


『壱夜。魚、焼けたぞ』


『あのさあ、父さん……』


 なんだか楽しそうな中年の男と、面倒くさそうに返事をする自分。


『突然出かけるっていうからなにかと思ったら、キャンプって。俺、そんなにガキじゃないんだけど』


『ははは。キャンプは大人の趣味だぞ』


『知らねーよ。俺は屋内が好きだよ』


 炎の中で、串に刺さったヤマメが焼ける。そのヤマメを、疲れた顔で笑う男が俺に差し出す。


『知ってるか、壱夜。火を起こすとクマが寄ってこない』


『知ってる。小学校の林間学校で言われたよ。どうでもいいよ、帰りてえよ』


 そう言いながらも、手渡されたヤマメに齧り付く。柔らかい肉の感触と、岩塩の塊が舌の上に落ちた塩辛さ。真上には、げっそりと痩せた月――。


「イチヤくん?」


 クオンの声で、我に返った。

 視界には燃える炎と焼けた果物、隣にはクオンとシオン。めらめら燃える炎に、目が乾いていく。


「ごめん、なんかぼけっとしてた」


「疲れてるんだねー。あっ、そろそろ食べ頃かな」


 クオンがニッと笑い、果物の串を火から離した。表面にうっすら焦げ目がついて、おいしそうに焼けている。クオンとシオンが果物に齧り付くのを見届けて、俺も手に持った串を口に運んだ。舌を火傷しそうな熱さだが、甘みがぎゅっと詰まっていて、疲労が溶けていくような感覚になった。


「あっつ!」


 クオンが叫び、シオンが口を押さえている。猫みたいな耳だし猫みたいな動きをするこの子たちは、猫舌なのかもしれない。

 果物を齧りつつ、シオンが地図を広げる。


「この山、ずっと向こうまで伸びてるね。東まで進んで、下山したら、街道に繋がる」


 月の都とウィルヘルムの間には、ガザと、商業都市のカランコエがあるという。その町を突っ切らずに横に逸れた道がこの山道だ。この山を東で下山すると、ウィルヘルムとカランコエを繋ぐ商用馬車のための街道に出るのだ。

 クオンがもぐもぐと口を動かしながら、地図を覗き込む。


「山の中で迷子にならなければ、二日も歩けばウィルヘルムまで行けるかな?」


「街を通るのと、距離的にはそんなに変わらないからね。二日もかからないかも」


「よし、サクサク進もう。シオン、足の怪我、超特急で治してね」


 クオンは果物の最後のひと欠片を飲み込んだ。シオンも果物を食べ終えて、地図を巻き直す。それを背嚢のポケットに突き刺して、シオンは徐ろに外套を脱いだ。

 炎が揺らめき、空気を歪ませる。俺はときどき乾いた枝を追加して、火を安定させた。

 静かな森の夜に、虫の声が聞こえる。


「……寝る」


 シオンが急に言い、外套にくるりと包まった。背嚢を枕にうつ伏せになる。


「イチヤくんとクオンも寝ないと、明日、動けないよ」


 彼女に促されて、クオンも外套を毛布にした。


「そうだね。ウィルヘルムに早く着くためにも、休息は大事。イチヤくん、寝よ! おやすみー!」


「クオンはいつも元気だなあ」


 常々思っていたことが口から出た。俺はふたりに倣って外套に包まり、横になった。左から俺、クオン、シオンの順に川の字になり、ふたりの反対側に顔を向ける。芋虫みたいに丸まって、ワイシャツの襟に結んだリボンタイを緩めた。

 瞼の裏に、炎の明るさが透けて見える。先程火の向こうに見えた、疲れた顔の男――もう一度顔を思い出そうとしたのだが、もう上手く浮かんでこなかった。


『父さん』


 俺がたしかにそう呼んでいた、あの人。


 *


 それきり、クオンもシオンも沈黙している。眠っているのだろう。

 俺はというと、寝転がって星を見上げていた。体は疲れていて眠たかったけれど、一応、見張りのつもりだ。全員爆睡よりは、危機を察知できるよう起きている人がひとりくらいいるべきだと思ったのだ。


 とはいえ、体が眠気で泥のようだ。浅い眠りと微睡みの間を行ったり来たりする時間が、延々と流れる。虫の声がリーリーと、涼やかに響いていた。


 真上を見えば、樹木の枝の隙間に、満天の星がやたらと美しく瞬いている。灯りが焚き火しかないおかげで、細かい星まで肉眼ではっきり見て取れた。ナイフのような月が星々の中に鎮座している。

 月を見ていると、あの望遠鏡を思い出す。天文台を空けてきてしまった。セレーネはおろか、月影読み代理の俺も不在。どちらにせよ俺がいたってなにもできないわけだが、ついに完全に放棄してしまった。言いようのない罪悪感があった。


 ふいに、横でパサッと布の捲れる音がした。見ると、クオンが起き上がっている。焚き火の光に当てられて、その姿がはっきり浮かび上がっていた。


「クオン?」


 名前を呼ぶと、クオンはひゃあっと大声を出した。


「びっくりした! イチヤくん、起きてたの?」


「クオンこそ。寝たと思ったよ」


 俺もむくっと起き上がって、背中を丸めて座った。

 クオン越しのシオンは動かない。こちらは疲れてぐっすり眠っているようだ。

 暗さの中で焚き火が揺れる。そのオレンジ色の炎に当てられて、クオンの手に紙の束が握られているのに気づいた。寝ているシオンを起こさないように、小声で訊ねる。


「なんだそれ」


「あはは、バレちゃった」


 クオンも声を潜め、誤魔化すように笑った。そしてその小さな紙の束を、こちらに向けて掲げる。


「じゃん。お母さんからの手紙! 持ってきちゃった」


 ルミナ事件のときにカレン、すなわちサリアさんから受け取った手紙だ。双子宛てに書いたものと、亡き父親、ラグネル宛のもの、両方重なっている。クオンが照れ笑いを浮かべて、パリパリと手紙を捲る。


「大事なものだから、なくさないように天文台に置いていった方がいいかなって思ったんだけどね。寂しいときとか、悲しいときとか……不安なときに読めたらいいなって。お守りのつもりで持ってきちゃったの」


 クオンが睫毛を伏せる。


「なんかさ、イチヤくん、ごめんね。私たち、迷子で記憶喪失のイチヤくんを助けてあげたかったはずなんだけど、いつの間にか、こんなことに巻き込んじゃった」

 

 彼女らしくない言葉が出て、正直、驚いてしまった。クオンはそんな俺の表情をいたずらっぽく見つめ、続けた。


「それにさ。ルミナが来たときも、私、カレンに会いたくて暴走しちゃった。イチヤくんもシオンも困るって分かってたのに、お母さんに会いたいって気持ちが先走って、迷惑かけちゃった……」


 語尾の方は、震えて声になっていなかった。

 クオンの人差し指で睫毛の水滴を拭う。俺はクオンの横顔を見つめ、その涙が焚き火の光できらっと星を孕んだのを眺めていた。

 へへ、とクオンは力なく口角を上げた。


「ごめんねイチヤくん。私、本当はちゃんと分かってるんだよ。だけど考えないふりしてたの。だめな私だから、せめて、笑っていたいの」


 クオンが顔を星空に向ける。


「私ね。お母さんがいなくなって、お父さんが死んじゃって、すごくいっぱい泣いたの。その間シオンは、困った顔して私が泣き止むのを待ってた。シオンだってつらかったはずなのにね」


 あどけない声が、ぽつりぽつりと語る。


「シオンのことだから、自分の気持ちより、泣いてる私をどうしたらいいんだろうって考えてたんだと思う」


 虫の声が聞こえる。静かな森の中、クオンの声は反響せずに吸い込まれていく。


「それ以来、私、考えた。私が泣くと、シオンは困っちゃうんだって。だったらちょっとでもシオンを困らせないために、私は元気でいた方がいいんだなって思ったの。トラブルばっかり生む私には、ちょっとでも明るい気持ちを引き出すくらいしか、できないんだもの」


 いつでも明るくて、考えるより先に行動するクオン。シオンよりお転婆な彼女の、本当の気持ちを、今初めて知った。クオンはあっけらかんとしている素振りを見せて、本当は自分を責めていたのだ。一見無責任な態度のようでいて、実はそれが彼女なりの責任のとり方だったのだ。


「でも……セレーネ様を殺したなんて疑惑かけられるのは、我慢できない。イチヤくん、信じて。私たちセレーネ様を殺してないよ」


 クオンの掠れた声を耳に、俺は目を閉じた。


「分かってる」


 以前シオンから、クオンを守る決意を聞かされた。シオンは父親の死を機に、クオンを支えると誓ったという。

 だけれどそれはクオンも同じで、クオンはシオンを支えるために、いつでも素直に、明るく振る舞っていたのだ。


 ぽた、と、音がした。小さな音だったけれど、凍りついたような静寂の中では、きちんと俺の耳にも届いた。

 クオンがぽろぽろと涙を零している。サリアさんの手紙の上に、丸い雫が落ちて、その度に小さな音が立つ。

 クオンがやけにおどけた声を出す。


「ん、ごめん! こんなこと言ってもイチヤくん困るよね。待ってね、すぐに元に戻るから。三十秒だけ泣かせて」


 俺は空中の月に視線を投げた。


「シオンだけじゃなくて、俺もクオンの明るさに助けられてるよ」


 ひっく、と、クオンの喉の音がする。


「最初は悪い夢だと思ったし、どこだか知らない故郷が恋しくて、記憶を頼りに故郷の料理を作ったりもしてる。だけど、なんだかんだで楽しくやってこられたのは、クオンが元気を分けてくれて、シオンがフォローしてくれたからだよ」


 フレイから「エンジョイしてる」と苦笑されたのを思い出す。クオンも言っていたとおり、「どうせならこの状況を楽しんだ方が得」だったのだ。これは一種の諦めで、開き直りだ。だとしても、悲観するよりずっと楽ではないか。

 生活のちょっとしたことから、識字、習慣、法律、果ては世界の法則みたいな大きいことまで、分からないことばかりだ。でも、どんなときも、クオンが「まあいっか」と思わせてくれた。


「クオンのせいのことも、あるとは思う。でもクオンの“おかげで”ってことは、もっとある。きっとシオンもそう思ってる」


「……三十秒」


 クオンがはあ、と息をついた。


「三十秒経ったから、もう泣かないよ」


 普段どおりの、明るく軽やかな声だ。俺は月からちらりと、クオンの方に目を向ける。彼女は手紙を折り曲げて、外套の内ポケットに詰めていた。やけに晴れやかな声が、空元気に聞こえてしまって、却って心配だ。


「延長する?」


「ううん。大丈夫」


 クオンは素直に見えて、案外強情で見栄っ張りなのかもしれない。


「ありがとイチヤくん。私、まだ頑張れるから。明日からもよろしくね」


 東の空がほんのりと白く、朝日に侵食されかけている。星のまたたく空の下、クオンの強がりは、静かな闇に溶けて消えた。

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