Ⅷ.逃避行

神様

 毎晩、月に不安を煽られる。徐々に消えていく白い月を見るたびに、焦りを抑えられなくなるのだ。

 暗闇に浮かぶ暁月に向かって、望遠鏡を覗く。


「こうかな」


 歯車を指で、カチャッと回す。しかしなにも起こらない。もう一段階回しても、やはり望遠鏡は静まり返っていた。

 この望遠鏡は触れるとじんわりと熱を発する。まるで俺が触れているのに対して、返事をしているみたいだ。

 暗い部屋の中でひとりでカチカチ望遠鏡と格闘していると、突如、ぽわっと部屋が明るくなった。


「まーた、ここにいた」


「イチヤくん、望遠鏡壊しちゃだめだよ」


 クオンとシオンが室内に入ってきた。どういう仕組みなのか、ふたりが扉を開けたら、机の上に浮いている照明が光りはじめる。

 俺は階段の上からふたりを見下ろした。


「でも、次の満月までに使い方を覚えておいた方がいいかなあと」


「セレーネ様はそれまでに帰ってくるもん! それに、セレーネ様じゃないと望遠鏡の正しい使い方は分かんないよ」


 クオンの言うとおり、俺が弄ってみたって、望遠鏡は応えてはくれない。


 クオンとシオンはこの頃、本腰を入れてセレーネを捜している。遠くまで捜しにはいけないから、フレイとロロの協力を得て、この辺りに出没する人攫いの情報を集めているのだ。


 先日から、赤い首輪と呼ばれる人攫いの存在が気にかかっている。ふらっと出かけて帰ってきていないセレーネは、出かけた先でその人物に誘拐された可能性が高い。

 クオンが階段のいちばん下の段に、腰を下ろした。


「人攫いの情報なんて全然集まらないよ。隠密の世界だもん、ロロでさえ深入りできない」


 陰の業界は簡単に尻尾を出したりはしない。あの劇団ルミナだって、あれだけ派手な存在でありながらその正体は明るみにならない。

 クオンとシオンが聞き込みをしたくらいで人攫いを引きずり出せていたら、公的な機関がとっくに摘発している。


「セレーネ様ともあろう方が、人攫いなんかに易々と連れていかれるかなあ」


 尚クオンは、この説に疑問を抱いている。俺は望遠鏡の横の椅子に座って、階段の下に見えるクオンの後ろ頭に言った。


「セレーネって女性だろ? どんな人なのかは知らないけど、人を攫うような屈強な人物に取り押さえられたら抵抗できないんじゃないか?」


「赤い首輪ひとりじゃなくて、複数から襲われたかもしれないし」


 シオンもクオンの隣に並び、俺に加勢した。クオンは脚を投げ出して階段に寝そべった。


「そうだったら、嫌だな」


 ほんわりと灯る照明が、仰向けになったクオンの顔を照らしている。


「セレーネ様が人攫いに捕まって、どんな目に遭ってるのかって考えたら……お腹が痛くなってくる」


「……やだ」


 シオンが小さな声で呟き、脚を畳んだ。俺の位置からは、膝を抱いて俯く後ろ姿だけが見えた。

 人攫いや人買い、所謂奴隷商の類いは、連れてきた人間を物として扱うという。売られる先は過酷な強制労働の現場や娼館。使い捨てられて体を解体され、命すらも落とす。


 ルミナと一緒に都を旅立った、マイトが脳裏を過ぎる。ルミナの場合は、劇団員として優秀に育てばそのまま使ってもらえる。しかし役に立たないと判断されたら、見知らぬ街で売り捨てられる。

 サリアさんの手紙でそこまで分かっているのに、あれから俺は、なにもできていない。なにもしないようにとサリアさんから釘を刺されていて、全く動けない。マイトのことも、サリアさん自身のことも、心配で仕方ないのにだ。


 心臓の辺りがぞわぞわしてくる。どうしようもない焦りが胸を渦巻いて、息をするのも苦しくなる。

 俺はひとつ深呼吸をして、嫌な予感を振り払った。


「グルーダがああ言ってたのも、可能性の話だよ。『セレーネがこんなに帰ってこないなんて人攫いに遭ったのかも?』くらいで、そうと決まったわけじゃない。案外、世界旅行を満喫して、お土産持ってふらっと帰ってくるかもしんないぞ」


「そうだね。暗くなってても仕方ないか!」


 クオンが仰向けだった体をぴょんと起こす。シオンは抱いていた膝を離し、階段の下へと下ろした。


「きっと無事だよね」


 現状、双子の保護者は俺なのだ。セレーネやサリアさんの代わりに、俺がクオンとシオンを支えなくてはならない。


「というわけで、セレーネが戻ってくるまでは望遠鏡は俺の物だな」


 再度望遠鏡の歯車に向かい合う。クオンとシオンがダダッと階段を駆け上がってきた。


「もう、そんなに弄りたいなら私も見るよ! セレーネ様がやってるの見てたから、イチヤくんよりは分かるはずだし」


「見たって分かんないけど、壊される前に止める」


 双子が階段を上ってきて、望遠鏡周りはぐっと狭くなった。俺は身をよじり、セレーネの机に体を向ける。セレーネが書き記した大量の資料から、徐ろに一枚、手に取る。


「ちょっとずつ文字を読めるようになってはきたけど、それにしてもセレーネの文書は突き抜けて難しいな」


 癖字が酷いというのもあるが、文法が複雑なのだ。今の俺の識字レベルを幼児程度だとすると、幼児が学者の論文を前にしているようなもので、到底読めるものではない。

 半ば諦めながら惰性で目を走らせていて、ふと、ひとつの単語に目が止まった。


「これ、たしか」


 俺はセレーネが積んでいる無数の本から、いちばん傍の山の、いちばん上にあった一冊を手に取った。これは俺が置いたものだ。フレイから貰った、子供向けの神話の本である。

 表紙に刻まれた文字と、セレーネの殴り書きを見比べる。


「やっぱり。『アズール・ルーナ』」


 セレーネが書いた文字の羅列の中に、たしかにその言葉が混ざり込んでいる。

 クオンとシオンが、両サイドから資料と本を覗きに来た。


「本当だあ」


「セレーネ様が、月のエネルギーは封印されてるアズール・ルーナへ送ってるって言ってた」


「そういえば言ってたかも。なんか、アズール・ルーナは眠ってるけど、神様の力はあるんだって」


 ふたりの掛け合いを聞き、俺は顔を上げた。


「アズール・ルーナって、月の女神が獣になった化け物だよな。本には天文台に幽閉されてると書いてあったけど、まさかあれ、本当なのか? ただの神話だろ?」


「神様の時代のことは、私たちも見てきたわけじゃない。だけど本当の話として、神話はのちの時代の人に連綿と語り継がれてるの」


 シオンが言うと、クオンが本の表紙をじっと見つめた。


「セレーネ様のメモにアズール・ルーナの名前があったくらいだもの。きっと、月のエネルギーを充填するからくりに関係あるんだよ」


「それじゃ、絵本に描かれていたようなでっかい獣が、この天文台のどこかにいるのか?」


 にわかに信じられなくて、俺はふたりに問うた。クオンとシオンは顔を見合わせて、首を傾げた。


「多分……」


「でも、実物見たことないね」


 ふたりも知らないみたいだ。と、クオンが目をきらきらさせはじめた。


「この天文台には、私たちもまだ行ったことがない部屋があるんだよ! アズール・ルーナが、どこかにいるはずだもの。そうだシオン、イチヤくん、探してみようよ!」


 この本を読んだときから、アズール・ルーナの神話の神秘的な世界観に心を奪われていた。それだけでもどきどきするのに、神様が封印された天文台でまだ見ぬ部屋を探検するだなんて、幼い頃に鎮めたはずの少年心が、解き放たれてしまうではないか。


「本物がいるなら、見てみたい。でもあちこちの部屋を調べたら、フレイに叱られそうだな。また盗賊扱いされたりして」


 そんなやりとりをしていると、下の方でドンドンドンと激しい殴打音が聞こえた。クオンとシオンが耳を立てる。俺も、会話をやめて耳を澄ませた。音の隙間に、男の大声が挟まる。


「おい! イチヤ!」


「フレイだ」


 フレイが扉を叩いて俺を呼んでいる。


「嗅ぎつけてくるには早すぎないか」


 冗談を言いながら、クオンとシオンと共に観測室を出た。螺旋階段を降りている間も、フレイが扉を叩く音が響いてくる。一階まで下りると、音はより激しくなった。


「おいイチヤ、クオン、シオン。起きてるか!?」


「はいはい、開けるよ」


 扉を開けると、外の闇を背負って立つフレイが見えた。走ってきたのだろう、額に汗を浮かべ、息を切らしている。


「夜に来るなんて珍しいな。どうし……」


 俺が最後まで言う前に、彼は俺の肩をがしっと掴んだ。


「今すぐ荷物をまとめて、ここから出ていけ」


「……おっと、マジか」


 咄嗟に、妙に冷静な声が出た。クオンがフレイの上着の裾を握る。


「急にどうしたの? なんでそんなこと言うの」


 フレイは呼吸を整えて、俺を突き飛ばし、扉の内側に足を踏み入れた。扉を閉めて、改めて切り出す。


「クオン、シオン。よく聞け」


 いつも険しい形相をしているフレイだが、今夜は一段と眉間の皺が深い。


「お前らに、セレーネ暗殺の容疑がかかってる」


「……え」


 呟いたのが俺だったのか、クオンだったのかシオンだったのか、分からない。静かな室内に、冷たいほどの静寂が訪れる。

 なんだって。今、クオンとシオンにセレーネ暗殺の容疑と聞こえたが、聞き間違いだろうか。

 凍りついているクオンとシオンに代わり、俺は沈黙を破った。


「セレーネ暗殺……って……?」


 そもそも、セレーネは死んでいたのか?

 フレイの声が沈む。


「死体が見つかったとかじゃあねえよ。あまりにも見つからないから、死んだんじゃねえかって声が出はじめて、真っ先に疑われたのが従者だってわけ」


 俺とクオンとシオンは、声を出せずに立ち尽くした。


「さっき役場に、議会から信書が届いた。セレーネの家系であるロッド家から権威を奪うため、血筋のあるカツラギ家のイチヤが、セレーネ暗殺計画を企てた、と」


 フレイが青い顔で、真剣な目をする。


「そのためにセレーネの従者であるクオンとシオンと結託。双子は従者の立場を利用して、セレーネに毒を盛り、暗殺」


「なに……なに言ってるの!?」


 クオンが堰を切ったように叫びだした。


「私たち、セレーネ様にお仕えする従者だよ? セレーネ様がいなくなって誰より困ってるし、誰より捜してるんだよ!? それに、セレーネ様が死んじゃったなんて……そんなはず……!」


「分かってる。お前らにセレーネを殺せるわけねえだろ」


 フレイの拳がドンッと、扉を殴る。


「俺はクオンとシオンを赤ん坊の頃から知ってんだ。お前らがセレーネを慕ってるのはよく分かってるし、そもそも人を殺せるような奴らじゃねえ。イチヤとロッド家の関係は……未だにはっきりしねえけど、イチヤがそういう性格じゃないのは、いい加減俺でも分かる」


 フレイは歯痒そうに、扉に叩きつけた拳をぐっと握りしめた。


「だが、どういうルートのなんの情報だか知らねえが、議会にこの報告が上がってる。明日の朝……いや、早ければ今夜のうちに、この天文台に調査が入る」


「なんだよそれ……」


 あまりの衝撃に、そんな言葉しか出てこない。クオンは再び固まって、シオンは青白い顔で床を見つめていた。フレイがはあ、とひとつ深めの息を吐く。


「俺もさっぱり分からんが、ろくなことにならないのだけは確かだ。だから、調査が来て捕まる前に、荷物まとめて今すぐ出ていけ」


「……そんな」


 俺の声は、掠れて声になっていなかった。


「でも、そんな事実ないんだから逃げなくていいだろ。むしろ逃げたら分が悪いのを認めたみたいにならないか?」


「こんな根も葉もない言い掛かりで調査が入るくらいだ、誰かがお前らを嵌めようとしてるのは明らかだろ。問答無用で捕えられて、あらぬ罪を着せられる。人殺しで、しかも相手が大賢者様ともあれば、水責めやら火炙りなんて生易しいもんじゃすまされねえ」


 フレイの声色は、今まで聞いたことがないくらいに真面目だった。


「向こうがその気なら、こっちがなにを言っても無駄だ。話し合えないなら、逃げるしかない」


 まだ、脳が処理しきれていない。いきなりこんなめちゃくちゃなことを言われて、ようやく馴染んできた生活がぶち壊されるだなんて、全く予想していなかった。頭が真っ白になって、なにも考えられなくなる。クオンとシオンも、蝋人形のように動かない。

 受け止めきれない俺たちを眺め、フレイはゆっくりと低い声を出した。


「幸い、俺がお前らと癒着してるとは信書には書かれてない。俺はあくまで、議会と役場側の立場にいる。こっちからもできる限りの協力はする。お前らは冤罪が証明されるまで逃げて、時間を稼げ」


 フレイの大きな手が、クオンとシオンの頭に置かれる。


「それまで天文台の戸締りとか、月の雫の配達とか、俺がちゃんと管理するから」


 それから彼の鋭い目つきは、俺に向けられた。


「イチヤ、こいつらを連れて逃げてくれ。死ぬ気で守れ」


 真剣な瞳に射抜かれて、俺は絶句したまま、頷いた。フレイが双子の髪から手を離す。


「俺がお前らを逃がしたとバレたら動きづらくなる。怪しまれる前に帰る。お前らも早く撤収しろよ」


 声が出ない。いろいろ聞きたいことがあるし、言いたいこともあるのに、声が出せない。

 フレイはクオンとシオンを最後にひと撫でして、目線だけ俺に投げた。


「お前に頼み事をする日が来るとはな……。逃げきれなかったら許さねえからな」


 吐き捨てるように言うと、フレイは扉のレバーを握った。

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