玉ねぎ星人を目指して

音骨

第1話 玉ねぎが目にしみる


 名前は最も短い呪いだと聞いたことがある。おれ自身、玉ねぎを連想する名前をつけられたことで、その後の人生の道行きが決まったと思っている。幼少期の写真を見ても、下ぶくれた顔に天然パーマの先端をきゅっと尖らせ、一体どこで購入したのやら、白くてふわっとした縦縞の衣装を着せられ、いかにも玉ねぎちゃんといった風体だ。小学校ではまんまのあだ名で呼ばれ、担任の教師にもそう呼ばれ、貰い物といえば、玉ねぎクッション、玉ねぎ星人フィギュア、玉ねぎカレンダー、玉ねぎ商品のオンパレード。多分にからかいの要素はあったにせよ、名前の呪力が少なからぬ影響を及ぼしたのは間違いない。

 サルモネラ菌に汚染された玉ねぎを丸かじりして食中毒を起こしたのは、呪力のネガティブな側面だったろうか。十歳の夏のことだ。以来、目にしただけで吐き気を催すほどの玉ねぎ嫌いとなった。ピーマンやセロリが苦手な子どもは多いが、玉ねぎが苦手となると、カレーもシチューも肉じゃがもポテサラすらもアウトだ。母も焦っただろうか。とはいえ、獅子の子落とし的な苦行を課されるとは思わなかった。

 うちは総菜屋で、母は毎朝早起きして5ダースほどの玉ねぎを切っていた。それを丸ごと肩代わりさせられたのだ。必死の抵抗を試みるも、思いの外母の決意は固かった。お菓子禁止か、お小遣いアップの二択を迫られ、泣く泣く玉ねぎ切りを選んだ。そこに母の意図があったとは思えないが、そのうちに泣いている理由がわからなくなった。

 ホムンクルス人形で示される通り、大脳皮質にもっとも刺激を与えるのは手と口だ。手先を酷使することで脳が活性化し、反復運動と快楽中枢が結託すれば、誰でも何かしらの中毒者になれる。事実、中学に上がるころには、包丁の切れ味による微妙な味の差を熟知するほどの手練れに成長していた。部活も勉強もせず、授業中は延々と玉ねぎの絵を描いていた。教科書の白紙部分に描かれた玉ねぎの数は、十万点以上に及んだようだ。(のちに不眠症となった弟が毎晩羊の代わりに数えたようだが、真偽のほどは定かではない)

 親を交えた三者面談の場は何度も持たれたが、おとがめは受けなかった。父は子どもの教育に無関心だったし、母にとっては面倒ごとの(仕事だ)減少の有り難みが優ったようだ。

 高校入学後も勉強はそっちのけで、近所のレンタル畑で栽培のまねごとをし、二年生の夏には調理師免許を取得した。一日に二個は消費および消化していた。玉ねぎ成分の細胞内含有量はかなり高かったはずだ。とはいえ、玉ねぎ星人になるなんてのは、夢のまた夢と思っていた。派手派手しい衣装を身にまとったベジタブル星人たちは天上界の住人であり、おれのような一介の田舎者には縁なきものとあきらめていた。

 

 高校卒業後は、繁華街のベジ・ボーイズバーに職を求めた。ボーイズバーといっても都会のホストクラブみたいな感じじゃない。キャバクラの黒服なんかとも違う。実にゆるゆるだった。接客はおもにベテランの先輩スタッフやマスターが担当。おれとシンジは基本ウェイターだった。シンジは同じ高校の一学年上だが、店に入るまで面識はなかった。色黒で小柄。老け顔におかっぱ頭。おれが言うのもなんだが、就職先をまちがえたタイプだ。なんでも気軽に話せる間柄だったが、玉ねぎ歴が長いことは話していなかった。

 恒例の玉ねぎのみじん切りショーは、一晩に三回ほど開催された。おれたち下っ端はおもにショーを盛り上げるタンバリンとマラカス係。玉ねぎ切り人を選ぶのは大概にして客。命じられたスタッフは厨房から包丁とまな板を借り、三分なら三分、ひたすら玉ねぎをみじん切りをする。夜毎の催涙さいるいショーに、客たちはやんやとはやし立てる。

 おれは指名されないよう逃げまくっていた。これ見よがしなひけらかしはしたくないとか、田舎の酔っ払いにおれの才能がわかってたまるか、などと言い訳を溜め込んでいたが、田舎とはいえ野菜切りが上手い人間なんていくらでもいる。なけなしの自信を挫かれることを恐れていたのだ。まったくもって、ベジタブル星人を目指している若者がどれだけいることか。ソロでやる度胸はなし。上京し、部屋を借り、バイトをしながら野菜仲間にメン募をかけ、週二、三回はレンタル畑やレンタル厨房に通い詰める。その上で並み居る強豪を押しのけて大手メジャー野菜会社の狭き門をくぐるなど、考えるだけで気が遠くなった。

 そもそも、ベジタブル星人になるには、あらゆる条件を兼ね備えていなくてはならない。大手ベジタブル会社が求めるのは、永続的な商品価値を見込める人材であり、基本的に二十代中盤までが勝負。タイムリミットはせいぜい五年。玉ねぎ星人を目指すなら、十九歳はギリギリ瀬戸際の年齢だった。

「たしかに、どれだけ先読みできるかが、人生のわかれ道なのかもな」

 ユウヤの発言だ。隣のビルのスイカ・バーのバーテンで、シンジの中学時代の同級生。色白優男風のハンサムボーイで、新人二年目のくせに指名客(全員年上のホステスだった)が二十人近くいた。

 彼らが高校時代に野菜ユニットを組んでいたのは初耳だった。酒の勢いで玉ねぎ通ぶりをひけらかすと、さっそく腕試しをさせられた。予想以上のリアクションに気を良くし、これ見よがしにユウヤののスイカまでさばいた。

 閉店後、ユウヤの車(走り屋御用達かつデート車にも便利なようで、ウルトラ兄弟にいそうな名前だった)でドライブに出た。絶対にスピードは出さないでくれと懇願したが、予想通り火に油を注いだだけだった。防風林に囲まれた海岸通りで200kmを超えた時点で、目を閉じ、死を覚悟した。それほど長い道ではなかったが、長い長い走馬灯を見た。

 夏は海の家を開いている浜辺に到着すると、冷たい砂浜に倒れこんだ。満天の星のひとつにならなかったことに、安堵し、感謝した。ヘッドライトの照明でビーチバレーをしているうちに胃のむかむかは消えたが、復路を思うときりきりと痛んだ。

「あの夜明けの海で、おれたちは、桃園の誓いを果たしたんだよ」

 後年シンジはそう語ったが、そんな大それた話はしなかったはずだ。砂浜に座って、今度一緒に野菜パフォーマンスをしようと盛り上がっただけだった。


 それからは月に一度は地元の野菜マーケットに出店した。回を重ねるごとに自信を増し、玉ねぎ星人を目指していることを平気で吹聴するようになった。

 上京したのは翌年の春。最初は風呂なしアパートでの同居。まもなくユウヤはバイト先のベジ・キャバ嬢の部屋に転がり込んだ。週三回ほどレンタル畑に通い、暇があれば飯を食い、今後の活動について話し合った。月に二、三度は新作を考案し、都内のフリマや野菜マーケットで直売パフォーマンスをした。

 転機が訪れたのは、上京して一年後、大手ベジタブルユニオン主催のメジャーデビューを賭けたオーディションへの参加だった。月に一度開催される予選は、満場一致での一位通過。審査員からも高い評価を得た。(つづく)

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