第四幕 盗賊と商人


 レストランではコース料理を注文し、運ばれてきた料理に俺とルナは舌鼓を打った。そして食事を終えたあとは、ゆっくり休みつつ何気ない会話を交わす。そうしたのんびりとした時間を過ごせることが、なによりも幸せなことなんだと俺は思っている。


 これは一般市民には分かりづらい感覚かもしれない。なぜなら彼らにとって、それは日常の中に当たり前に存在するものだから。いつも手の届く場所にあるものを、なかなかありがたがったりしないから。


 でも盗賊をやっていると、危険と隣り合わせの緊張状態で過ごす時間の方が多い。奴隷をしていた時なんて、心休まる瞬間はほとんどなかった。だからこそ穏やかなひとときを過ごせることが、どれだけ幸せなことなのか強く実感しているのだ。


 人間は近くにあるものに対しては鈍感で、ないものには敏感。失ってみて初めて、その大切さや素晴らしさに気付くということだってよくある。つまりそういうことだ。



 ――もちろん、こうしてのんびりと過ごしている今、俺は幸せを感じている。



「バラッタ、なんかすごくいい顔になってるね。何を考えてたの?」


「えっ?」


 俺がハッと我に返った時、いつの間にかルナはテーブルの上に両肘を付いて、覗きこむように俺を見つめていた。爽やかで自然な笑みを浮かべ、無邪気な子どものように興味津々に瞳を輝かせている。




 息遣いすら聞こえてきそうなほど、至近距離にあるルナの顔――。



 そういえば、こんなに近くでコイツの顔を見るのはいつ以来だろうか? こんなにきれいな肌をしてたっけ? こんなに大人びた感じだったっけ?


 変に意識していたらなんだか照れくさくなってくる。


 目を合わせていられなくなった俺はルナから思わず視線を逸らし、チラリと周囲を見回す。


 するとその時、たまたま俺の目は右斜め前方のテーブルにいる、ふたり組の男たちの怪しい動きを捉える。


 獲物を狙う肉食獣のような瞳、周囲を警戒するような表情、無意味に小刻みに揺らす体。そして隠しきれず、外部へ漏れてしまっている殺気――。


 ヤツらの意識は隣のテーブルでウトウトしている、俺と同い年くらいの優男に向いているようだ。その優男のきれいな身なりを考えると、そこそこ裕福な家のボンボンといったところだろう。


 目的は分からないが、立場を考えれば誰かに命を狙われていたとしても不思議はない。命に危機が迫っていると知った以上、このまま放っておくことなんて出来ない。


 状況を把握した俺は、なるべく騒ぎにならない形で犯行を阻止するための布石を打つことにする。


「ルナ、手を握ってもいいよな?」


「へっ!?」


 戸惑うルナを余所に、俺は真っ直ぐ彼女を見つめながら手を重ねた。


 やや小さくて少しだけ荒れた手。柔らかな感触と温かな体温が伝わってくる。ルナは耳まで赤くして狼狽えながら、俯いて押し黙ってしまっている。


 おそらく周りにいる連中には、恋人同士がいちゃついているようにしか見えないだろう。


 ――だが、そうやって誰も不審に思わないからこそ都合がいいのだ。


 続けて俺は『決まりごと』に従って、人差し指だけを動かした。


 軽く叩いたり、動きを止めたり――それを組み合わせることによって、言葉を発しなくても意思疎通を図ることが出来る。これは俺たち盗賊が使っている伝達手段のひとつ『打音通信タッパシー』だ。


 会話をせず秘密裏に情報のやり取りをしなければならない場面などで、この盗賊技能が役に立つ。これを応用したものとして、峠と峠、港と沖合といった長距離で情報を伝達したい時には狼煙や炎、旗を使う方法がある。


 ――さらにこの『決まりごと』を独自のものに変えれば、暗号としての役割も持たせることが出来る。


「っ!」


 俺が指の動きを止めると、ルナは息を呑みながら顔を上げた。


 一瞬だけなぜか悲しげな顔をしていたような気もするが、すぐに今までと変わらない表情と態度に戻る。そして俺が手を握った意図を理解してくれたようだ。その証拠に、今度はルナが人差し指を動かして『どうしたの?』という意味の合図を返してくる。


『窓際のテーブルにいるふたり組、隣のテーブルでウトウトしている優男の命を狙ってるぞ』


 俺がそう伝えると、ルナは自然な動作で顔をわずかに動かし、チラリと視線だけを動かして辺りの様子をうかがった。


 今や俺もルナもお互いに盗賊としての立場でこの場にいる。のんびりとした時間はあっという間に終わってしまった。やはり平和なひとときというのは儚いものだ。


『うん、あたしも確認した。あのふたり組ってヨソ者だよね?』


『だろうな。俺たちのギルドの縄張りで挨拶もなしに仕事とは、いい度胸してやがる』


『どうする? お頭に知らせる?』


『当然だ。お前はギルドへひとっ走り行ってくれ。俺は穏便に収まるように動いてみる』


『承知。無理だけはしないでね?』


 ルナはそう伝えてきたあと、手を離して立ち上がろうとした。


 でも俺は手を強く握ってそれを思い留まらせ、キョトンとしているルナを見つめる。そして最後にこちらからメッセージ――。


『また近いうちに、この店で一緒に飯を食おうな』


「っ!?」


 ルナは小さく息を呑むと、かすかに頬を緩めながら手を軽く握り返して『うん』と返事をしてきた。打音通信をしている際には、そういう小さな表情の変化も出しちゃいけないのが原則なんだけどな。ま、今回は気付かなかったことにしてやろう。


 直後、ルナはスイッチを切り替えたかのように膨れっ面になると、俺の手を払いのけながら勢いよく立ち上がった。腰掛けていた椅子は弾き飛ばされ、店内に大きな衝撃音が響く。




「いい加減、手を離してよ! さっきから嫌がってるのが分からないの? このスケベ! あたし、もう帰るからっ!」


 外にまで聞こえそうなくらい、激しいルナの怒号。柳眉を逆立て、俺を冷たく見下ろしている。


 当然、その場にいた全員の視線が一斉に俺たちの方へ向き、賑やかだった店内が静まり返った。さらに時間が停止したかのように動きも固まり、戸惑いの色を見せながら事態の行く末を見守っている。




 ――もちろん、ルナの行動は全て演技。


 俺が全く面識のない優男にいきなり声をかけるのは不自然だし、恋人同士だと思われている俺たちのうちルナだけがこの場から立ち去るのも周りに違和感を与える。


 ふたり組の仲間が店内や外に潜んでいる可能性がゼロでない以上、要するになるべく自然な流れで俺たちそれぞれが任務を遂行できるよう事を運ばなければならないわけだ。


 これはそのための布石。ちなみにこうした演技は、俺とルナが組んで仕事をする時には何度もやっていることなのでお互いに慣れたものだ。付き合いが長いので呼吸はピッタリだし、機転も利く。


「ちょっと待てって!」


 俺は慌てた振りをして立ち上がり、店を出ていこうとしているルナに歩み寄った。


 すると次の瞬間、乾いた衝撃音が響くと同時に俺の目の前が一瞬だけ真っ白になる。


「……痛っ……っ!」


 店内にいたほぼ全ての人間が大きく息を呑んでいた。なぜならルナの強烈な平手打ちが、俺の左頬にヒットしていたからだ。


 普通なら手加減をするものだが、ルナの辞書にそんな言葉はない。


 一方、俺は俺でダメージが軽減するように動くことも出来るが、あえてそれをせずに甘んじて受ける。その方がリアリティが増して、誰も演技だなんて思わないはず。事実、頬は熱と痛みで軽く痺れている。おそらく周りから見たら、手の痕も赤く浮かび上がってるんだろうな。


「ふんっ!」


 ルナは眉を吊り上げたまま出入り口の方へ歩いていき、店を出ていった。叩きつけるように閉められたドアのバタンという音が余韻として残り、続いてドアベルの軽い感じの金属音が小さく収まっていく。


 その後、店内のあちこちでどよめきが生まれ、しばらくは騒然としていた。それでも時間が経つにつれ徐々に落ち着きを取り戻し、各テーブルとも自分たちの会話を再開させていく。


「あの……大丈夫ですか……?」


 その場で呆然と立ち尽くしていた俺に、例の優男が声をかけてきた。眉を曇らせ、濡れたおしぼりを持ってそれをこちらに差し出している。


 どうやら俺とルナが起こした騒動によって、ヤツの眠気はすっかり吹き飛んでいるようだ。ま、すぐ隣であんなに騒がれたんじゃ、それも当然だろうけどな。


 もし未だにウトウトしたままなら、よっぽど他人に無関心か世界屈指の鈍感かのどちらかだ。


「気遣ってくれてありがとな。あんたのテーブルに相席しても構わないか?」


「えぇ、もちろん!」


 優男はニッコリ微笑みながら即座に頷いた。


 俺はおしぼりを受け取り、それを右頬にゆっくりと当てながら優男の正面に座る。熱を持っていた頬がひんやりとして気持ちいい。


 こうして俺はまんまと優男のテーブルに相席することに成功。本来であればこちらから声をかけるつもりだったが、幸いなことに向こうから接触してきてくれた。これなら不自然さがさらに減る。


 しかもふたり組との間に俺が座る形となっているから、無闇にヤツらが仕掛けてくることはないだろう。


「その……大変でしたね……。彼女さんとケンカですか?」


 優男は遠慮がちに訊ねてきた。表情は曇らせているくせに、その言葉の内容はド直球。空気が読めない天然なのか、それとも単に図々しいだけなのか……。


 これ、実際に痴話ゲンカをした男だったらカチンとくるんじゃねぇか? まぁ、知らんけど、とりあえず相槌を打っておくことにする。


「うん……まぁ……そんなところだ」


「お付き合いは長いのですか?」


「幼馴染みなんだ」


「そうでしたか。あんなに素敵なお相手がいるなんて、うらやましい限りです。僕なんて生まれてから一度も、女性とお付き合いしたことがありませんので」


 苦笑いを浮かべながら頭を掻く優男。訊いてもいないことをペラペラと喋りやがる。


 それはそれとして、こうして近くでじっくり見てみると、コイツは目鼻立ちは整っているし清潔感もある。実際、話をしてみると落ち着いた口ぶりで丁寧だし、身なりもきれいだ。しかも意志の強そうな瞳をしてやがる。


 これなら言い寄ってくるヤツはいくらでもいそうな雰囲気だけどな。異性と付き合った経験がないって方が意外に思えるくらいだ。あるいは条件が整いすぎて、逆にみんなこいつに近寄りがたかったのかもな……。






 ――って、ちょっと待てっ! 今、ルナのことを素敵だとか言ったかっ? 俺の耳がおかしくなったのかっ?


「おいおいっ、アイツのどこが素敵なんだよっ!? あの強烈な平手打ちを見ただろ? 低レベルのモンスターならワンパン出来る威力だぞっ?」


「やはは……。でも息がピッタリと言いましょうか、長年連れ添った夫婦みたいな」


「夫婦っ!? お、お前……末恐ろしいことをさらっと言うなぁ……」


 俺は思わず素に戻り、声を裏返しながら叫んでしまった。


 あんなのと一生を共に過ごさなければならないなんて、考えただけでも背筋が寒くなる。確かに外見はそこそこだと思うが、その良さを打ち消してなお評価がマイナスになるほどの性格だぞ?


 ……うーむ、やっぱりコイツはどこか感覚がおかしい。俺には理解できない。あんなに暴力的で気の強いヤツ、素敵なワケがないだろうに。


「――おっと、申し遅れました。僕はビッテル。交易商人をしています」


 商人と聞いて、俺は一瞬ピクリと眉が動いた。


 直後、俺の腹の中で嫌悪感がどんどん膨れあがっていくのがハッキリ分かる。


 だが、この場はそれを表に出さないよう堪えながら、平静を装って爽やかに笑みを浮かべる。ここでキレたら、今までの苦労が水の泡だからだ。


 例え相手が商人だろうと、命を狙われているヤツを見捨てることは出来ない。それは俺がお頭に命を救われた時からの信念。曲げるわけにはいかない。


「俺はバラスト。人足をしている」


 俺は偽名とニセの職業を伝えた。何もバカ正直に本当のことを伝える必要はない。のちのち厄介なことに巻き込まれるのも困るし。


 するとビッテルはニッコリと微笑み、興味深げに問いかけてくる。


「バラストさんはずっとこのフォルスにお住まいですか?」


「生まれは違うが、育ったのはここだな。ビッテルさんはこの町に来るのは始めてかい?」


「いえ、何回か来たことがあります。でも独立してからは初めてですね」


「独立? 独立って商売の? その若さで? 年齢はいくつだ?」


 気が付けば俺は、まくし立てるようにいくつもの質問を連続でぶつけていた。


 こんなやつのことなんて大して興味がないはずなのに、なぜそんなことをしてしまったのか自分でも分からない。あるいは心のどこかでビッテルの何かを意識しているのか?




 チッ、なんなんだよ。コイツにはさっきから調子を狂わせられる……。



 そんな俺の戸惑いなんか知るよしもなく、ビッテルは照れくさそうに頬を指で掻きながら小さく頷く。


「えぇ、一人前の商人として独立しました。小さいながらも自分の店を持っています。でも独立できたのは、たまたま商売がうまくいっただけ。知識もノウハウもまだまだ未熟です。もっと努力を続けないといけません。で、年齢は十七歳です」


「俺と同い年か……」


 俺が思わずポツリと漏らしてしまったその呟きを、ビッテルはしっかり聞いていたようだった。半ば興奮しながら、瞳を輝かせて身を乗り出してくる。


 その予測不可能な反応とあまりの迫力に俺はたじろぎ、少し仰け反ってしまう。


「そうなんですかっ? これはなんという偶然なのでしょう! こうして僕たちが知り合ったのも、まるで運命か何かに導かれたかのようですね! ご縁があるに違いありませんっ!」


「そ……そうかな?」


「同い年なんですから、僕のことは『ビッテル』と呼び捨てにしていただいて構いません!」


「そ、それなら俺のことも『バラスト』でいいや……」


「はいっ! バラスト! えへへ、バラスト~♪」


 意気投合したと一方的に思い込んでいるビッテルは、その後もずっとハイテンションのまま自分のペースで話を続けた。しかも相手は海千山千の交易商人、さすがの俺も入り込む余地がないまま付き合わされてしまう羽目となる。


 途中でデザートや飲み物を奢ってくれたけど、どういうものでどういう味だったかなんて覚えてやしない。ただ、そんな状況でも辛うじて意識だけは店内にいるふたり組に向け続けていたから、途中で諦めて店を出ていくのはちゃんと確認している。


 ま、ずっとあんな調子で話しているのを見れば、いつ終わるのか想像も付かないもんな。俺も話に付き合わされて、ほとほとうんざりだよ……。







 レストランでの会話が落ち着いたあと、俺はビッテルと一緒に店を出た。そしてヤツの現在の滞在先だという、ガトーの屋敷まで一緒に向かうことにする。帰りの夜道で誰かが待ち伏せていて、ひとりになったところを襲われるという可能性も否定できないからな。


 だから帰る方向が同じだと嘘をつき、屋敷の前まで送り届けることにしたわけだ。


 もちろん、俺に対して好意的な感情を持っているビッテルは即座にそれを了承。それどころか、せっかくなので泊まっていけとまで申し出てきた。あっちの趣味があるんじゃないかと疑いたくなるほどの猛アピールだ。


 当然、そんなの真っ平ゴメンなので、敷居が高いとか何とか言って断ったけど……。


 ちなみにガトーというのはフォルスでも屈指の大商人で、商人ギルドの運営にも関わっている。当然ながら盗賊ギルドのマスターであるお頭とは面識がある。


 そしてガトーのところで厄介になっているということは、ビッテルはそれなりに大きな取引をしている商人ということになる。成り行きとはいえ、そんなヤツを助けることになるなんて複雑な気分だぜ……。


 そういえば、すでに帰り道のあちこちでうちのギルドメンバーの姿があるのを俺は確認している。ルナの報告を受けて、お頭が手配したのだろう。さすが決断と仕事が早い。


 これで商人ギルドに貸しが出来たし、きっとお頭はホクホク顔のはずだ。


「――バラスト、僕には夢があるんです」


 なんとなく話が途切れ、黙って歩いていた時のことだった。隣にいたビッテルが不意に切り出してくる。


 視線を向けてみると、ヤツは穏やかに微笑みながら顔をやや上に向けて満天の星を見やっている。


「どうした、藪から棒に?」


「今まで僕は、あなたほど気の合う人と出会ったことはなかった。だから僕の夢を語りたいと思ったんです。こんな気持ちになったの、初めてなんです。だからよろしければ聞いていただけますか?」


「まぁ……聞くだけなら……」


「自然界には弱肉強食という絶対の掟があります。でも僕たち人間は違う。助け合うことが出来る。それって素敵なことだと思うんです」


「…………」


「この世の中は不平等だ。だからこそ、僕は苦しむ人たちに手を差し伸べて助け合っていきたい」


「ふーん……」


 俺は適当に相槌を打った。あまり興味のない話だし、ご託を並べているようにしか思えなかったから。当然、心に留め置く気なんてさらさらない。


 だが、そんなこちらの想いなど知るよしもないビッテルは、熱を込めて言葉を続ける。


「僕は世界一の商人になりたい! そうなれば各地の領主や王たちも、僕の言葉を無視できなくなる。不当な重税や法律に対して、改善するよう迫ることだって出来るんです。剣を振るう力がない僕でも、戦うことが出来るんです」


「確かに少しぐらいは変えられるかもしれないな。でもそれだけだろ? あまり意味はないんじゃないか?」


 俺はにべもなく言い捨てた。するとビッテルはニヤリと頬を緩め、確信に満ちたような瞳で俺を見つめてくる。


「小さな雫も水面に落ちれば波紋となって、大きく広がっていきます。それと同じように、一人ひとりの力は小さくても、いずれそれが増幅して大きな力になる。誰にも止めることが出来ないほどに。その最初の一滴に僕がなれたなら、例えそのあとにこの命が尽きたとしても悔いはありません」


 そうビッテルが言い切った時、ちょうど俺たちはガトーの屋敷に到着した。


 敷地は高い壁に囲まれ、門の鉄格子の隙間から広い庭が見えている。城のような豪華な屋敷はさらにその奥に建っていて、そこまでの道沿いにはいくつもの魔法灯が連なって設置されている。


「バラスト、今日は楽しい時間をありがとうございました」


 ビッテルは俺に向かって深々と頭を下げると、門を通って屋敷の方へ歩いていった。途中で何度も立ち止まり、こちらへ振り向いて手を振っている。律儀というかクソ真面目というか……。


 その後、俺は屋敷の前を離れ、ギルドの方へ向かって歩き出した。





 夜も遅いせいかすっかり人通りはなくなり、辺りは静まり返っている。唯一、昼間には雑踏にかき消されてしまう潮騒だけがかすかに響いている。そこへ潮の香りを乗せた涼しげな海風がそよそよと吹き、俺の髪を揺らす。


 町は全てが漆黒の闇の中。ただ、夜目が利く俺にとっては、むしろこの状況の方がアドバンテージがある。もし不自然な動きがあれば即座に気付くことが出来る。


「――バラッタ」


 程なく路地の影からルナが現れ、囁くように声をかけてきた。そしてこちらへ近寄ってきて、隣を歩き始める。


「お疲れ、ルナ。ちなみにお前は本物か?」


「それならあんたの腹を殴らせてもらってもいい? きっと体はあたしの拳の味を覚えているはずだから、本物か偽物か明確に判断できるでしょ」


 ルナはニコニコしながら拳を握り、ポキポキと音を立てていた。しかもこの雰囲気だと本気で実行に移しかねない。


 だから俺は苦笑いを浮かべながら肩をすくめる。


「遠慮しておくよ。その反応はルナそのものだしな」


「あら、残念っ♪ ――で、あのふたり組はどうなったの? 辺りに気配はないみたいだけど」


「ずっと俺が一緒にいたから、仕事するのを諦めたらしい。途中で店を出ていったよ」


「そうなんだ。ちなみにあの優男は何者?」


「交易商人のビッテル――。商人だと分かってたら、助けようなんて気は最初っから起きなかったのにな。それに今回はアイツを助けたくて助けたんじゃない。ギルドの縄張りをヨソ者に荒されるのが癪だっただけだ」


 俺は苦々しく思いつつ、バレバレの嘘をついた。


 命が危機にさらされているヤツを見たら、どんな相手でも放っておけない――俺のその性格をルナなら絶対に知っている。それが本意だってきっと理解してる。


 でも助けた相手が大嫌いな『商人』という職業の人間だったから、俺は素直にそのことを口に出したくなかったんだ。


 なにより、どうもアイツは虫が好かない……。



(つづく……)

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る