木蘭の残り香 ~北魏僧曇曜の若き日~

kanegon

第1話 狼皇帝の都

 春の訪れとともに木蘭が他の木々に先駆けて白い花を競うように開かせて、甘い芳香を平城の都に振りまいていた。


 花の香りの甘さを楽しみながら、若き僧である曇曜は市街地を東の市場に向かって歩いていた。建物や城壁の向こうには、いまだ山頂付近に白く残雪を被った白登山が聳えている。かつて、漢の初代皇帝である劉邦が匈奴の冒頓単于と戦ったことで知られる古戦場だ。


 寺からの使いで市場へ買い物に向かう曇曜は、鶏卵のような丸い顔の太い眉を顰め、周囲を気にしながら街を歩いた。戦が近く、国中が殺伐とした雰囲気なので、スリのような犯罪も多いから気を付けよ、と祖師から言い含められている。


「戦か……もう北方の敵は駆逐し尽くしたんじゃなかったっけ」


 三年前にもどこだかの民族が夏なる王朝を僭称していたのを武力で滅ぼした、と聞いた憶えがある。四年くらい前にも、柔然という北方の騎馬民族を撃破して壊滅させたと聞いたことがある。それ以前のこととなるとあまり覚えていない。それにしても、大魏帝国はまだ戦う必要があるのだろうか?


「でも、狼皇帝だからな……」


 現在の皇帝は諡号で太武帝と呼ばれることになる。諡号というのは亡くなった後に生前の功績を参考にして贈られる名前のことだ。その名の通り、貪欲に北方騎馬民族に対して遠征を行って武力で魏の国威を敷衍した。その皇帝の本名はオオカミを意味すると言われているので、民衆の間ではこっそりと魏の狼皇帝と呼ばれているのだ。


 魏、といっても、三国志の曹操で有名な魏ではない。それよりも二〇〇年ほど後の時代、後世に北魏と呼ばれる王朝である。西暦でいうと四二九年にあたる。


 考え事をしながら歩いていたせいか、曲がり角の向こうから人が走って来ている音に気づかなかった。「うわっ」と思わず曇曜は声をあげて地面に尻餅をついてしまった。


 ぶつかった相手も転んでいた。中肉中背の曇曜よりもやや小柄な、粗末な衣服を着た少年のようだ。


「痛ぇな! 足首を挫いちゃったじゃないかよ! 気を付けろよ……って、お坊さんか」


 地面に座り込んだまま悪態をついた少年は、剃髪した曇曜の頭を見て、一瞬驚いた様子だった。


「いや、お坊さんであっても関係ないや。足を怪我して歩けなくなっちゃったじゃないか。父さんに軍帖が来て軍隊に招集されて遠征に行くから、そのための装備を買いに市場に行かなくちゃいけないってのに。どう責任取ってくれるんだよ!」


 顎の線が細いその少年は、整った顔立ちながら眉だけはしっかりと太く自己主張していて、興奮のせいか少し顔を赤らめて怒鳴っている。一方の曇曜は冷静にこっそりと懐を確認していた。ぶつかった拍子に財布をスリ取られていないかと思ったのだが、無事だった。偽の財布にスリ替えられている可能性も確認したが、そちらも問題無かった。


 この少年、スリではなく、本当に交差点でぶつかっただけらしい。


「少年よ、そちらがきちんと前方を確認せず走っていたのが悪いのではありませんか?」


 曇曜は立ち上がり、汚れた衣服の尻の部分を軽くはたきながら、仏僧らしい堂々とした態度で言った。


「うるせえな。人に怪我させたんだから、素直に謝罪して出すもん出せよ」


 まだ地面に座ったまま目を吊り上げて怒っている少年に対して、曇曜は少し年上らしい余裕で思案を巡らした。


「なるほど。拙僧は曇曜と申しますが、怪我をさせてしまったというのなら申し訳ない。その怪我をしたという部分を見せてもらえますか?」


「い、イヤだね」


 少年は急に尻込みした。まるで、曇曜の寺の近くに住んでいる人が飼っている臆病な痩せ老馬のようだった。


「それでは、怪我をしたのが本当かどうか分からないではありませんか」


「ぼ、僕が言っているんだから本当に怪我したんだよ。疑うのかよ」


「ほう。そこまで言うのであれば、賠償として市場で防具くらいは買ってあげましょう」


「えっ、ホント? さっすがお坊さん、慈悲の心があるから話が分かるね!」


 少年は元気よく立ち上がった。そして曇曜の袖を掴んで小走りで引っ張った。


 やはり足を挫いて怪我をしたというのはウソか。と曇曜は納得しながらも、自分が疲れない速度で小走りに付き合った。自分もどうせ市場に向かっていたのだ。市場に着いてから、足の怪我がウソであることを指摘すれば良い。

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