第一話〜④

「まあ、いつも鞠のように転々と元気なお嬢様にああも落ち込まれると、御屋敷全体が蜘蛛の巣でもかけられたように居心地が悪くて。元気が戻って良かったです。これでまたいつも通り、お嬢様を追い掛けまわす事で一杯いっぱいの日常に戻るだけですわ」

 タラの言い草にマシューは声をあげて笑った。


 先刻の運河沿いの遊歩道を全力疾走していた少女の姿を思い出す。あれが日常というのだから、コール家の使用人は確かに大変だ。

「さて、呼吸も整った事だし、そろそろお嬢様を追い掛けないと。お嬢様のあの足なら、きっともう運河港に着いている頃ですわ。マシューさん、ご馳走様でした」

「いやいや、私も久し振りに楽しかったよ。お嬢様に宜しく言っておいてください」

「分かりました。では」


 タラは深々と老人にお辞儀をし、遊歩道を運河港に向かった。

 もちろん、スカートの裾を掴んで、駆け足で。



     *   *



 ビウスには、水路が網の目のように張り巡らせてある。

 水路は商人達が外国から仕入れた荷を自社の倉庫に運び入れ易いように建造され、同時に街に訪れた旅行客の好む交通手段としても利用されていた。


 遊歩道を走っているエリザベスの横目には、物資を積み替えた小船が何艘も行き交っているのが見える。これまで擦れ違った小船の中にコール商会の船はなかった。父の船はまだビウスに入ってはいないのだろうか。

 もう、目の前には街のシンボルである石造りの橋と、橋向こうの港の一部が見えている。この橋を越えれば運河港はすぐそこだ。


 ビウス橋の中程に差し掛かった時、港に停泊する無数の交易船の中に見慣れた青い塗装の船を見付けた。こちらからは船尾しか確認できないが、間違いなく父が経営するコール貿易商会の船だ。帆を畳んだ船上では多くの逞しい水夫が荷下ろしを始めている。

 その水夫達の中に、一人だけ身形の異なる男がいた。男は手に書類を持ち、それを覗き込みながらあれこれ指示を出している。

「お父様、おとうさまーっ」


 ビウス橋の欄干から身を乗り出して手を振った。

 船は随分と離れた桟橋に船体を寄せていたが、エリザベスの声はしっかり届いたらしく、父はこちらに向かって大きく手を振り返してくれた。遠目にも笑っている様に見える。嬉しくなって、エリザベスはさらに身を乗り出した。

 力一杯両手を振り回した時、欄干の模様の凹凸に引っ掛けていた靴先が滑った。

 上半身の殆どを欄干上に出していたエリザベスは、突然、視界が回転して父の姿も碧いビウス港も見失った。短い悲鳴を上げて反射的に両目を塞いだが、水面への衝突の衝撃が全くやってこないので、顔を覆っていた両手を恐る恐る外してみた。すると、眼前はビウス川の碧い水色では染まっておらず、漆喰で積み上げられた石橋の堅牢な側壁が間近にあった。


 エリザベスは下方を見下ろしてみた。

 ちょうど橋桁を通過した船があって、たまたま甲板に出ていた水夫と目があった。水夫は遠ざかりながら、唖然とエリザベスを眺めていた。

 船が通過した後の水面は大きく揺れて乱れていたが、少し波が落ち着いた頃、自分の背後に人影が見えた。その人は片手でドレスの腰の大きなリボンを掴み、もう片方の手で欄干を掴んで自分の身体を支えていた。

 ようやく、状況を把握してエリザベスは真っ赤になった。


 エリザベスは完全に逆さまの宙吊りで、ドレスの裾が川面に向かい傘の様に広がって下着のドロワーズが丸見えの状態だった。

「え? ええっ?」

「暴れるなっ」

 慌てて下着を隠そうとバタついたら、身が竦んでしまうような怒声が下った。

 有無を言わさぬ迫力に固まっている間に、その人はいとも容易くエリザベスを橋の上に引き上げた。よろけて尻餅をついてしまったが、お尻の痛みを気にしている場合ではない。急いで乱れた裾を直し、座り込んだ格好のまま深々と頭を下げた。

「あの、助けて頂いてありがとうございます。お陰で運河に落ちずに済みました」

「助けられたら礼を言う程度の躾はされているようだな」

 そんな言葉が返ってくるとは思わず、吃驚して顔を上げた。


 目の前には、見たことのない黒髪の男が立っていた。観光客だろうか。男は、ついさっき身が竦むような命令を発したとは思えない優しく穏やかな表情でエリザベスを見下ろしていた。


 何故か、鳩尾の辺りが痛みを発し、エリザベスは無意識に胸元のペンダントを握っていた。

「立てるか?」

 不意に手が差し伸べられた。

 一瞬の迷いが生じたが、触れたいという想いが沸々と湧いて、素直にその手を取った。

 立ち上がると男は思っていたよりも背が高かった。エリザベスが小柄だった所為もあるが、男の肩はエリザベスの頭の天辺よりもずっと高い位置にある。間近に見上げた顔は整った綺麗な顔立ちをしていた。座り込んでいた時には黒く見えた瞳は濃紺だった。歳は二十代前半か半ばくらいだろうか。


 ふと、男の襟に留められた徽章に気が付いた。

『貴族の方だわ』

 徽章は親指の爪程の大きさで、赤い地に二本の宿り木の枝が輪を描いていた。その宿り木の輪の中には身をくねらせた黒い蜥蜴が二股に分かれた舌を出していた。少し、怖い印象を受けた。


「怪我は無いか?」

「あ、はい。ありません。本当にありがとうございました。私、エリザベス・コールと申します。もし、宜しければ貴方のお名前を聞かせて下さい。是非、御礼をしたいのです」


「コール?」

 エリザベスの言葉に目を見張って、男は運河港に停泊している貿易船の一つに視線を向けた。青い船体の貿易船の船尾には、遠目には分かり難いが確かにコール貿易商会と社名が記されていた。多くの水夫が手を止めてビウス橋の上の出来事を眺めている。肝心の経営者は、猛烈な勢いで岸壁沿いの歩道をこちらに向かって走って来ていた。

『ブラッシュ・コールの娘か』

 男は表情を歪めたが一瞬の事だった。エリザベスに対して柔らかい微笑みを向けると、横に首を振った。

「お誘いは嬉しいが遠慮させてもらう。すぐにこの街を発つ予定なのだ」

「そんな。それではせめてお名前とお住まいを教えて下さい。このまま貴方を返してしまっては、両親に叱られてしまいます。私……」

 そこまで言って、エリザベスは口を噤んだ。男の優しい笑みの中に、困惑が滲んでいたのだ。


 しつこく訊ね過ぎてしまっただろうか。

 眉尻を下げた少女に、男は今度ははっきりとした苦笑を浮かべた。

「では、こうしよう」


 男の右手が伸びて、エリザベスの左頬に触れた。右手は頬を伝いつつ翻り、中指の爪がエリザベスの唇に触れて離れた。不意の行動に驚いて固まっていると、男はその指先を自身の顔に寄せ唇を這わせた。


 エリザベスは全身の肌が粟立つ感覚を覚えた。しかし、不快とはまるで逆の、寧ろ心地良ささえ感じる胸の高鳴りも同時にあった。鳩尾の辺りの不思議な軋みが急速に発熱して身体中に広がってゆく。その熱は閉じた毛穴によって体外に逃げるのを阻まれて、小柄な身体の内をたちまち満たしてしまった。それでもなお、体温は上昇を続けた。


 今度は別の意味で両目が潤み、真っ赤になって俯いた。

 それを見て、男は小さく笑んで踵を返す。


「あ、あの、お名前……」

 エリザベスは慌てて背中に呼び掛けた。だが、男は振り返ることはなく、人で溢れた繁華な通りへと歩いて行く。運河沿いの遊歩道を越えたところで馬車が一台横切ったのを切っ掛けに、エリザベスは男の姿を見失ってしまった。


「エリザベス!」

「きゃあっ!」

 突然、背後から父に抱き締められた。父の顔色は真っ青だ。

「エリザベス、エリザベス! 怪我は無いか? どこか痛めたところは? ああ、もう本当にお前という子は!」

 ブラッシュは大きな両手を娘の両頬に添えた。身を離して、本当にどこにも怪我が無いかを確認した後、安堵して長く大きな空気の塊を吐き出した。

「無事で良かった。お前にもしもの事があったら、私は生きていけないよ。喧嘩したままなんて、そんなのは悲し過ぎる」

「お父様」

 今にも泣き出しそうに顔を歪めている父に釣られて、エリザベスの両目にも涙が滲んだ。


「お帰りなさい、お父様。私、お父様の気持ちをちっとも理解しないで、いつも我儘ばかり言って、本当に、本当にごめんなさい」

「ただいま、エリザベス。良いんだよ。私にとってお前は何よりも大切な娘だ。誰よりも幸せな結婚をして欲しい。あんな碌でなしの馬鹿息子になんぞやるものか。向こうには手紙を書いたが、明日の商工会の集まりできっちり断ってくる」

 エリザベスは父に抱き付いて頬に長々とキスをした。

「ところで、お前を助けてくれた御方はどうされた? 御礼をしなければ」

「それが……」

 エリザベスは商店が建ち並ぶ通りに目をやって口籠った。

「行ってしまったのか」

「あのね、御礼はちゃんと言ったのよ。名前もお訊ねしたの。でも、あの方、何も教えて下さらなかった。もう、ビウスを出るのだと仰って」


 父のガッカリした顔を見て、エリザベスは懸命に訴えた。

「徽章を付けてらしたから、貴族ということは分かってるの」

 男が付けていた徽章の特徴を説明したが父は首を傾げた。

「近在の領主ではなさそうだな。すまない、どうしても思い当たらない」

 何度も名前を訊ねたのに、あの人は何も教えてくれなかった。あんなふうに困った顔をされてしまっては、何も訊けなくなってしまう。結局、上手くはぐらかされただけの様な気がして、エリザベスはしゅんと肩を窄めた。


 気落ちしている愛娘の髪を父は愛しそうに撫でた。

「仕方ない。向こうにも事情というものがあるのだろう。家紋は分かっているんだ、誰か知っている人が居るかもしれない。調べておこう。また会えたなら、御礼はその時にきちんとしよう」

 また会えたなら。父の言葉に小さく頷いてエリザベスは頬を染めて俯いた。


 そんな娘の姿に父は目を丸め、しかし、すぐに察して苦笑した。どうやら可愛い一人娘は命の恩人に特別な感情を抱いてしまったようだ。

「ジェズが知ったら、あの子はがっかりするだろうな」


 ジェズとは、エリザベスの幼馴染みの少年だ。

 生まれは貴族だが爵位は有しておらず、遠い昔に出世街道から滑り落ちた、由緒正しい貧乏貴族の子弟だ。幼い頃に両親を病で亡くし、親戚をたらい回しにされていたところを父親の知人だったブラッシュに引き取られて、エリザベスと兄妹同然に育てられた。


 その少年は今、遠縁を頼って王都で兵役に就いている。

 毎月手紙のやりとりをしていて、今のところ大きな怪我もなく元気でやっているようだが、それがエリザベスには面白くないようで、先月に届いた手紙で射撃の訓練中に上官に腕を褒められ、以来、何かと目をかけてもらっていると喜んでいる少年に「軍人なんて辞めて帰ってきたら良いのに!」と、頬を膨らませていた。

 ジェズの思い切った行動が、兄妹ではなく一人の男として見て欲しいあまりに起こしたものだと察する事が出来るほど、エリザベスは大人ではなかった。

「ジェズがどうかしたの?」

 うっかり口から出た言葉に、エリザベスはキョトンとしている。


「いいや、何でもないよ。それにしても、お前、一人で来たのかい?」

「いいえ。途中まではタラと一緒だったの。でも、タラってば足が遅いんだもの。途中で置いてきちゃった」

「また走ったのか」

「ごめんなさい」

 だって、早くお父様に会いたかったんだもの。そう言う娘に、一度は眉間に寄せた皺を緩め、ブラッシュは改めてエリザベスを抱き締めた。


 ふと、遠くから呼び声が聞こえた。運河沿いの遊歩道をメイド姿の女性が必死な顔で走っていた。

「タラだわ」

「迎えも来たことだし、帰ろうか」

「一緒に帰ってくださるの? まだお仕事が残っているのではないの?」

「もう殆ど片付いているよ。あとは店の者に任せても大丈夫だ。それに私がいないと大変だぞ。お前、黙って家を出て来ただろう。きっとエレーヌはカンカンだ」

 エリザベスは、家の玄関で引き攣った顔で待ち構えているだろう母の姿を想像して、恐ろしさに身を竦めたのだった。

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