短編集

お餅。

ヒューマンドラマ バスの追悼

私は、その場から動けなくなった。バスのせいである。錆びて寂れてボロボロになった、バス。それは、私の母が村の中学校の通学用に、毎日乗っていたもので、今は新しいものに代えられているのだった。長い間お世話になったのに、大人たちは見向きもしない。小鳥が囁く声だけがする。バスのエンジン音は、いくら待ってみても、もう聞こえない。

赤い錆が鎖のように巻き付いている。火傷のようなただれた跡が、全身に広がっている。窓ガラスは自身を傷つけるかのように内側に倒れている。

 明日の朝、このバスはとうとう息の根を止められるのだと聞いた。誰も使わなくても、存在しているだけで、生きていると言えるかもしれないのに。

 私は奥歯を噛み締める。その頃にはもう、母もこの世にいないのだ。先程の病院で面会が叶わず、渡せなかった花束が、胸の中でかさかさ揺れた。ぐっと握りしめると、合図のように涙が落ちた。熱も気管支炎症もなく、まだ死の面影もなかった頃、私は母の、いろんな学生時代の青春を聞いていた。それはいつもこのバスと、ともにあった。せめて明日一日だけでも、生きられたならば、母は喜んだだろう。そしてこの場所に来て、涙の雫を目にたっぷりと溜めながら、バスとお別れをしただろう。

 私は後ろに回り込んで正面からバスの表情を見た。穏やかな顔をしていた。まるで、自分の全ての役割を全うしたとでもいうような。私は花束の花を一本ずつ抜き取ると、バスのサイドミラーの耳や、窓の目の周りに飾り付けをしてあげた。紫、黄、赤、青の花々は、バスの最後を彩ろうと、命懸けで輝いているようだった。

 バスの窓から眺めた、変わらないのに、いつもどこかが違う景色。幼馴染の小さな手と交わした指遊び、緩やかに揺れる身体。肩にもたれかかった思い出の人。それらを語る母の瞳は、いつもどこか遠くを見るようで、それでいて、幸せそうだった。

 私は空の淡い水色を見上げた。この綺麗さでは、空に共感を要求しても相手にしてはくれないだろう。明日、病院に行こうか、この場所に来ようか。どちらにしても、泣くだけだ。私一人が、泣くだけなのだ。

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