第15話 準備期間

 良枝さんと会った翌日、高速バスと内房線を乗り継いで実家に帰り、その日の夜、一杯やってて上機嫌であろう頃合いを狙って、名古屋の中西先輩に電話しました。帰路の高速バスの車中でも、どう断ろうか悩みましたが、結局、「先日、お話をいただいた再雇用の件ですが、申し訳ありませんが、お断りします」とストレートに伝えました。


「……まぁ、今の返事は聞かなかったことにしておくよ。

 近々、打ち合わせで木更津の会社に行く予定があるんだよ。

 そのときに足を延ばして、島崎の自宅に寄るから、

 この件について、ゆっくり話そう。

 それからでも遅くないからさ。

 今、うちの支店はガラリと雰囲気が変わって、

 とっても仕事がし易い職場になったんだよ。

 その話を聞いてから決めてくれよ」


「あと島崎、今回の再雇用の件、タキクミと相談したのか?

 この前、偶然、彼女とエスカ(JR名古屋駅傍の地下街)で会ったんで、

 お前の話題を振ったら再雇用について何も言わないんだよ。

 俺も敢えて黙っていたけど、もし彼女に教えてないなら、

 ちゃんと二人で話し合ってから、結論を出したほうが良くないか?

 どうせお前のことだから、採用決定まで変な期待をさせたくないとか

 余計な気配りをしているんだろうけど、

 今回の話は、お前さえOKすれば決まりだからな。

 今晩でも、すぐに彼女に教えてやって相談しろよ」


 案の定、すんなりと「はい、そうですか」とはならず、想定はしていましたが、滝谷さんの名前も出してきました。

 正直に女医の私設秘書の仕事を紹介されていることと、滝谷さんとは自分の中では終わっていて、以前、付き合っていた女性と復縁するつもりだと伝えました。

 再雇用の件は「そうか。次(の就職先)を決めているのなら仕方ないな」「女医の男性秘書か。島崎なら違和感ないかも」と意外なくらい簡単に引き下がったものの、滝谷さんに関しては、自分が紹介したからか、高校時代の同級生だからか食い下がります。


「復縁って、例の五年間も付き合っていたのに別れた女だろう?

 今さら、そんな奴とヨリを戻すなんて、お前、正気か? 

 終わっているなんて言わずに、まずはタキクミとの関係を改善しろよ。

 あいつは、島崎と付き合い始めてから、いい女になったよ。

 エスカで会ったときにびっくりした。

 昔の彼女を知っている皆が、そう言っているよ。

 お前たちは、傍から見ても、お似合いの二人だよ。

 タキクミは、昔から変なとこで意地っ張りだから、

 絶対に誤解があるんだと思う。

 彼女に言いたいことがあるなら、

 俺がいくらでも仲介してやるから考え直せよ」


 母親の看病をしている最中、結婚を強く迫られた上に、勝手に養子になる話を進められていたり、名古屋に住まないのなら関係を続けられないと言われて気持ちが一気に醒めたことや滝谷さんと会っているときでも、以前、付き合っていた彼女を思い出していたことを説明して、ようやく最後に「それなら仕方ないか」と納得してくれました。


 後日談になりますが数年後、鮎香瀬和子先生の名古屋出張が決まったとき「夜は隠れ家的な和食店で、ゆっくり食事したい」とリクエストされたので、最近のお勧めの店を聞いてみようと久々に中西先輩に電話してみました。

 しかし、すでに会社を辞めて携帯電話の番号も変わっており、大家さんに気に入られて、引っ越しさせてもらえないと、ずっと住み続けていたアパートも引き払った後でした。

 馴染みだった飲み屋と定食屋にも連絡して、消息を尋ねましたが誰も知らず、結局、このときの電話が中西さんとの最後の会話になりました。




 中西先輩への再雇用の断りとは別に、もう一つ、良枝さんから頼まれたのが減量でした。「鮎香瀬さんに会うまでに体重を52キロにできる?」

 自分では、それほど太ったという認識はなかったのですが、30歳近くになって、いつの間にか体重は60キロを越えていました。ただ元々、痩せ易い体質だったので、毎日のウォーキングと食事制限で一ヶ月ほどで達成できました。


 目標値に達したとき、初めて自分の意思で、キャミソールとスリーインワンを着て「お!痩せると背中やウエストのラインが全然、違うんだな」と鏡で確認し、脇と脛の体毛が気になったので剃りました。以前の私なら考えられません。この心境の変化には自分でも驚きました。


 良枝さんから電話があったとき、減量達成の報告と合わせて、この件を話しました。


「へえー、瑛斗って、一人のときキャミとかショーツとか着てなかったんだ。

 いや、普通に似合ってたし、なんかベッドでの仕草が艶っぽいんで

 てっきり普段からショーツとか愛用しているって思っていたから、

 そうじゃなかったことの方が驚きだよ。

 あ、そう言えば無駄毛の処理とか全然してないもんね。

 私に剃毛させることも含めてプレイかと思っていたけど、

 そういう理由だったんだね。

 でもまあ、今回、目覚めてくれたみたいだから、興奮しちゃうな。

 記念にエロいブラとかショーツとかプレゼントしてあげようか?

 次に会うとき着て欲しい。あ、いらないの? それは残念。

 まあ、店とかじゃ買い辛いだろうから、必要なら、いつでも言ってよ」



 名古屋の再雇用話は断ったし、減量も約一ヶ月で達成したので、鮎香瀬さんと会う予定はいつ頃になるのか良枝さんに尋ねると、自身の減量が終わっていないから、もうしばらく待って欲しいと言います。


「私は採用される身だから、印象を良くするための減量はわかりますけど、

 紹介役である良枝さんは痩せる必要ってあるんですか?

 別にそのままでもよいのでは?」


「それは違うって。私も痩せる必要があるの。

 アイリーンの例え話、覚えている?

 あ、御免!アイリーンって鮎香瀬さんのことね。

 彼女のあだ名なの。うんまあ、それはどうでもいいか。

 例の瑛斗をスポーツカーに例える話ね。

 私が今の体形のまま、あなたを鮎加瀬さんに紹介したら、

 彼女は『敷島はオーナードライバーの資格を自ら失くした』って

 絶対に思うから、それが嫌なの。

 あと、瑛斗が彼女と会う前に私は抱いて欲しいの。

 でも、元の体形に戻るまで、あなたの前では脱がないって決めているから、

 どうしても痩せなきゃいけないの。わかる?」


 所謂、良枝さんなりのポリシーみたいです。よくわからないけど、こういうときは「わかります」と返事するしかありません。



 良枝さんの減量完了を待つ間、暇だったので鮎香瀬和子さんについて調べました。珍しい苗字だったのでパソコンで検索すると、すぐに勤務先や経歴が判明し、良枝さんの言ったとおり、総合病院の小児科の責任者でした。

 1990年代半ばは、まだフェイスブックやツイッターなどのSNSはもちろん、ブログすらない時代でしたが、個人のホームページや掲示板といわれたBBSは盛んでした。

 残念ながら鮎香瀬さんは、自分では情報発信を一切やっていなかったのですが、ある難病のお子さんの御両親が病気に関するホームページを開設しており、そこに主治医として尽力する鮎加瀬医師の様子と彼女への感謝の言葉が綴られていました。


 良枝さんは、ちょっと個性的な面もあると話していましたが、そのホームページを読むと患者思いの仕事熱心な医師だとわかり、お子さんとのツーショット写真で、森口瑤子似の美人というのも確認できました。




 結局、鮎加瀬さんと会う日程が決まったのは、私が減量に成功してから約二ヶ月後でした。この間、良枝さんと会うことは一度もなかったのですが、電話は毎日ありました。

 私が就職して鹿児島や名古屋にいた頃は、良枝さんからの電話は、旅行前とか用事があるとき以外は、せいぜい週に2~3回でした。ところが再会してからは「瑛斗の声が聞きたい」「特に用事はないんだけど」「瑛斗の夢を見ちゃって」「さっきも電話したのに御免ね」などと、一日に何度も掛かってきます。


「何度も電話してごめんね。一人でいると『瑛斗、いなくなってないよね』

『心変わりしてないよね』『電話に出てくれるよね』って怖くて心配になって、

 掛けちゃうんだよ。我慢しなきゃって思うんだけど、

 前に別れたとき瑛斗が怒って、私の電話に出てくれなったでしょう?

 それがトラウマになってて、今度は大丈夫ってわかっているんだけど不安なの。

 瑛斗、私のこと面倒くさい女とか思ってないよね?本当に思ってないよね?」


 これを言われてしまうと何も言い返すことができません。名古屋時代の別れについては、「全然気にしていない」「私だって悪かった」と言う彼女ですが、やはり心に深い傷を負っていたようです。せめてもの罪滅ぼしとばかりに、ずっと彼女の電話に付き合っていました。

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