第10話 名古屋からの訪問者

 私の母親は病気一つしたことがなく、たまに様子伺いの電話をすると「心配いらないって、いつも言っているでしょう」と怒るのがお約束だったので、入院の連絡を叔母からもらったときは、本当に驚きました。


 入院先は、実家から車で30分ほどの大きな総合病院でした。病名は膵臓癌で、かなり進行しており、リンパ節に転移も見られるので、担当医師からは手は尽くすものの、相当厳しい状況だと説明されます。


 結局、母は私が看病を始めて7か月後に亡くなりました。一度は退院して自宅療養となり、本人も喜んでいましたが、三週間で再入院となり、そのまま帰らぬ人となります。


 葬儀の後、しばらくは役所やら銀行やらの諸々の手続きに追われましたが、いつまでも無職ではいられないので、並行して再就職先も探し始めました。しかし実家の周辺ではバイトやパートばかりで、正社員の求人募集などありません。

 叔母は母の残した畑と実家の管理ならやってあげるから、県庁所在地の千葉市か都内に引っ越して仕事を探た方がいいと勧めてきます。自分でも、そうしようかと思い、物件探しを始めた直後、会社員時代の中西先輩が東京出張のついでに遊びに来てくれました。


 例のパワハラ課長は、私が退社して間もなく、重要な取引先の新任担当者を「挨拶がなっていない」と殴って、顔面骨折させる傷害事件を起こして、懲戒解雇になっていました。

 今までの彼の暴力沙汰は支店内だから有耶無耶にできたけど、社外、しかも大口の取引先の社員だったので、さすがに隠蔽できず、前代未聞の不祥事を重く見た東京本社から人事と法務の偉い人達が来て、支店内で聞き取り調査が行なわれた結果、課長絡みの数多くの暴力事件や問題を隠し続けていた支店長と部長が懲罰人事で降格と左遷になりました。

 ちなみに、このパワハラ課長、名古屋支店の現地採用なのは知っていましたが、愛知県出身だった前々支店長の親戚というコネ入社で、良しなに扱うことが歴代支店長へ申し送り案件だったそうです。


「お母さんの看病がなければ、奴が首になる姿を島崎も見られたのにな。

 気分良かったぞ」


 中西先輩は課長から目の敵にされ、何度も殴られていたので、すこぶる気分が良さそうでした。

 その後、美容師の彼女とは別れたとか、新しい彼女は22歳の新人女子社員で社内にバレないようにしているなど雑談で盛り上がりましたが、一段落すると大事な話をし始めます。

 

「新任部長から島崎に伝えるよう頼まれたんだけど、

 クソ課長の件では散々迷惑を掛けたから、

 島崎さえ良ければ、支店採用だけど再雇用したいんだと」


 新任部長は他支店からの着任ではなく、副部長が昇格したので今回の事情がよくわかっていたようです。本社の聞き取り調査の過程で、私は母親の看病を理由に辞めたけど、課長のパワハラに悩まされていたという証言が複数あったので、ラッキーなことに救済されることになったみたいです。


「その際は特例として、新卒時代のキャリアを丸々引き継げるようにするって。

 だから支店採用で中途社員の俺よりも昇給や出世が早いだろうから、

 課長昇進とかは、ほぼ同時か場合によっては島崎の方が先かもな」


「支店採用だから転勤がないので、ずっと愛知県内にいられる。

 県外転勤はあったとしても名古屋支店が管轄する静岡の浜松営業所と

 三重の鈴鹿営業所くらいだ」


「お袋さんが亡くなって一人ぼっちになったんなら、

 名古屋に戻って復職して、滝谷と結婚すればいいじゃないか。

 決して悪い話じゃないだろう?

 俺も、また島崎と営業コンビをやりたいから、ぜひ考えてくれよ。

 そうそう、行きつけだった例の定食屋の女将も島崎の隠れファンで、

 いなくなって、すごく寂しがっていたぞ」


 定食屋の女将って、良枝さんより少し年上だったような? そう言えば、残業になったとき、一人で夕飯を食べに行くと、いつも冷奴とか小鉢をサービスしてくれましたっけか。


「ところで滝谷とは上手くいってるか? 紹介した手前、気になっているんだよ」


「ええ、最近は遠距離カップルになったんで半年以上、会えてないんですけど

 電話やメールではやり取りしてますよ」


 先輩には少し嘘をつきました。本当は滝谷久美子さんとの関係は、かなり冷え切っていました。

 

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