第14話 寛容の圧力

個人における対立は、多くの場合、感情的な対立へと発展する。それがいかに専門的な分野における高度な対立であっても、それをあくまで学問上のことと分離してとらえ、プライベートではあくまで親友だ、というような人格者は極めてまれなのだ。人格を売りにしている宗教家であれ、悟りを開いたと自称する宗教家であれ、宗教上の対立が感情の対立に至るというのは通例だ。しかし、このような対立はむしろ、恵まれた部類に属する対立である。というのも、そこには「対立の場」が確実に存在するのだから。


感情的な対立は、「許せない」という言葉に集約できる。それは、過去の事実に由来するものであったり、思想上の問題であったり、価値観や文 化の差であったりする。あるいは、純粋に生理的な感覚や感情、いわば「面白く無い」という場合もあるだろう。また、相手の存在自体が生命や財産に対する脅 威であるような場合も、許せない、ということになる。それは合理的な場合も、非合理的な場合もあるが、日常の中で対立の由来を吟味することは、あまりな い。なぜならば、許せないという一時の感情は、現実の中では具体的な対立に至る前に緩和され、消滅あるいは幽閉される運命にあるからだ。


実社会の中で、個人的な対立を表に出すことを、コストとベネフィットから考えた場合、コストが大きすぎる場合がほとんどである。裁判という 合法的な手段で大金を得られるような場合を除いては、対立のコストに見合うだけのベネフィットは得られない。また、対立は個人にとって以上に、社会や組織 のとっての大きなコストとなる。協調性が強く求められ、寛容が奨励されるのは、それが美徳だからではなく、極めて打算的な要請と言えるだろう。教育の大き な目的の一つは、この個人的な対立を、いかに円満に社交的にこなせるようにするかという事でもある。


特に、和を重んじる日本社会では過剰な協調性が求められ、対立の成熟を阻んでいる。抑圧された対立のエネルギーが、いじめという「機会」を得て、代理の対象に向かって噴出する。そこには、いじめへの参加という協調性までが顔を出すのである。日本に特有の「いじめ」という病理は、この過剰な協調性の産物だと思う。言い換えると、「健全な対立の不在」が問題なのである。


まず、許せない、という心理をネガティブなものとして否定したり、無視したりすることが不健全であるということを理解する必要がある。会社 の同僚と飲みに行って、上司の悪口に花を咲かせることを、みっともない、と馬鹿にしてはいけない。どのような形であれ、この心情を表現すること、自覚する ことは大切なことだ。我慢という抑圧が心を歪め、人を純粋な感情から阻害して行く。この怖ろしさに気がつくべきだろう。


もっとも、酒を飲んで同僚と愚痴を言い合うだけでは、対立にはならない。問題は、それですませて良い対立なのか、より本格的に対立しなけれ ばいけない問題なのか、という点を見極めることにある。すべてを、短期的かつ個人的なコスト/ベネフィットで判断して対立を回避するという姿勢は、長いも のにはまかれろ、勝ち馬に乗れ、ということだ。それこそが信条という人もいるだろうし、ある程度はそれもやむを得ないと考える人もいるだろう。しかし、そ れでもなお、譲れない事がある、という強い思いを持つ人は少なくない。その背景には、未来は私たちの意思で変更可能であるという信念がある。より良い世界 を求める意思がある。そのような未来に対する責任を自覚する人たちが、その責任を自覚しない人たちと対立することは当然のことだ。


対立を表に出すということは、非対称であった対立を対称化することでもある。そのためには、より良い対立の場が必要なのであり、より良い対立の技法が必要なのだ。暴力や陰謀や陰口ではなく、正面から言論で対立することが必要なのだ。


現代は開かれた世界であり、またフラット化した世界である。インターネットによって、誰でも情報や言説を発信できる。それはまた、対立の基盤、対立のインフラとも成りえるだろうし、また積極的に、そう活用するべきでもあるだろう。


対立の由来を吟味し、対立をネガティブなものとして否定することなく、問題によっては利害を超えて対立する意思を持つこと。また、より良い 対立の場を作ること。そして、対立の経験を積むこと。過剰な協調性を排除すること。寛容の圧力に安易に屈しないこと。それが未来への責任であり、希望であ り、人間らしさなのだ。


日常の中でも、うまく対立することは、対立を我慢することよりも、はるかに勝っている。うまく対立するとは、対立の真相を、許せない理由 を、うまく伝えることだ。言うのは簡単だ。力関係で劣るような場合には、そんな事をしたら立場が危うくなり危険であったりする。そのような場合には対立を 表面化させ、かつ、自らが有利になるような戦略を描かなくてはいけない。必然的に第三者を巻き込むことになる。こうして、個人的な対立は、単に個人と個人 の対立ではなくなって行く。

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