星浮く底にて月船思ふ

東海林 春山

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 こんな街、大嫌いだ。


 黒々とした波の上で、白い月の光が揺れている。眩しいほどのその光がふと滲んで、私は膝の間に顔をうずめた。それでも、ざざん、ざざんと繰り返す波音だけは変わらず私を囲み続けている。


 ――別に、そこまで田舎だとは思わない。

 ただ、ここにはバレエ教室がない。電車を何本も乗り継いだらやっとある。でもそこへ通うのは現実的じゃないし、頑張って通ったとして私が辿り着けるレベルなんてたかが知れている。

 この野暮ったい制服だって気に入らない。水色のシャツに大きなリボンタイ。顔をあげ、目元を腕でぐいと拭く。そして、忌々しいリボンを首から乱暴に外して岩の上へ放り投げた。

 私があの高校を選んだのも、制服が可愛かったからなのに。親は本当に、勝手だ。あと数日待ってくれたら。そうしたら。


 怒りに任せ、立ち上がる。それから何か思いのまま叫ぼうとして、……何を叫ぶべきかわからずに息を何度か吸い込んで飲み込むうち、呼吸だけが荒くなっていく。発散されない苛立ちは、肩を大きく上下させるのみで、何か意味のある言葉を紡ぐことはない。

 ふと視線を下へやれば、短い影が足元から伸びていた。満月の光は嘘みたいに明るく私を照らして白々としている。たまたま見つけたここは、大きな岩が平らに広がって海の上へ張り出しており、まるでステージの上みたいだった。私が立てなかったステージ。月のスポットライトが私だけを照らしている。観客が誰一人としていない舞台。


 革靴と靴下を脱いでみる。裸足で踏みしめる岩は、案外と親しげな硬さを伝えてきた。試しに前屈をする。地面に手をつきながら、鋭利だったり大きかったりする石がないか目を凝らしてみる。起き上がり、上半身は垂直にしたまま膝を外側へ慎重に屈伸する。幾度となく繰り返したその動きに、私の身体はふつふつと歓びに沸いていく。両の手と膝を地面へつき、片脚を宙へ繰り返し伸ばす。邪魔になりそうな石は手で払って遠くへ飛ばした。

 血が巡る。腱が心地よく伸びてゆく。

 立ち上がり、脚をその付け根から振り子みたいに左右へ大きく揺らした。身体中の関節が柔らかく、しなやかに温まってゆく。首をゆっくりと回し、目をつむって息を深く吸い込む。まぶたの向こうから月明かりが網膜へ射しこむ。


 強烈な光。舞台に立つ人間を浮かび上がらせる白い帯。


 目を開ける。もちろんここは、舞台なんかじゃない。踊り子を幻想的に見せてくれる照明係もいなければ、振り付けを導くオーケストラもいない。観客なんて、いるわけがない。

 それでも、私はここにいた。

 かかとを、そっと浮かせる。――トゥシューズを履いていないから、爪先で立つことは出来ないけれど。


 波音はやがて、弦の上を往復するチェロの声になっていく。水平線の隙間からそうっとオーボエが加わり、その朧げな輪郭をクラリネットが確かなものにする。引いては返す潮の満ち引きをホルンのハーモニーが支える。きらきらと降る月明かりを、フルートが華やかに彩る。重厚なチューバが荒々しく吹き鳴らされれば、それは岩にぶつかり弾ける白波になった。

 私を取り囲む海だけが舞台装置だったけれど、この耳には確かにフルオーケストラが響いていた。


 誰にも観てもらえず、スポットライトにも照らされることのなかった私の踊りを、今ここで、月の光を浴びながら披露するのだ。

 跳び上がり、足を交差させる。腕を大きく広げ、宙を抱く。

 細かくステップを刻み、頭のなかのオーケストラと戯れる。

 スカートの裾が広がるのも構わず、思うままに回転し、手脚を伸ばして世界と溶け合った。


 観客なんていやしない。踊るのは、今夜限りだ。もう、これでおしまいにする。

 ……でも、やっぱり。どうしようもなく楽しい。

 夏の夜気に冷え切っていた頬が、昂揚感に火照っていく。


 世界がぐるぐると回る心地よさに、ただ子どもが没頭するみたいに無心でターンを続けていたとき、ふと違和感を感じた。ぴたりと止まってその違和感の正体を探ろうとしたら、ぽちゃん、という水音がかすかに耳へ届いた。目の前の海は先ほどと変わらず黒く広がるばかり。すっかり荒くなった自分の呼吸さえ、寄せては返す波音にかき消される。

 人気ひとけのなさが急に恐ろしくなった私は、革靴に足を突っ掛け、荷物を乱暴に拾い上げてそこを離れた。



☀︎ ☀︎ ☀︎ ☀︎



 かんかん照りの太陽に熱されたアスファルトの上、額に浮く汗を腕で拭いながら、あてどなく歩いている。夏休みの宿題をやるのももう飽きた。一週間以上も家に篭り続けたためか、あるいは季節が夏の盛りに入ろうとしているのか、はたまた住み慣れていた場所よりもこの土地の太陽はぎらついているのか、暑さが地獄じみて感じられる。

 行くあてもなければ誘える相手もいないので、自然と足は海を目指した。絶え間ない変化のある波でも見ていれば気が紛れるはず。ひらけた砂浜の近くは大勢の楽しげな声で賑わっていて、そこを避けているうち、このあいだの岩場へと吸い寄せられていった。わりと高低のある大変な道のりを越えた先の場所だけれど、居心地はよかったように思う。去り際に感じた違和感も、この明るい昼間の時間なら怖くない。

 腕を伸ばし、足を岩にかけ、全身を使って奥へ奥へと進む。潮の匂いが強くなってゆく。高い岩を乗り越えたとき、Tシャツの裾からお腹が外気に触れたのを感じた。私の身長はまだまだ伸びるらしい。――もう必要ないのに。足下を見れば、ジーンズの丈も少し足りなくなっている。新しい服を買いたくても、この街で買い物ができるところといえば、駅近くのぱっとしないショッピングモールだけ。


「ほんと、最悪……」


 そうごちりながら、最後の岩を登った。これを下りた先に、このあいだの大きな岩があるはずだ。達成感を覚えつつ、石でできたそのステージを見下ろしたとき。


 そこには、先客がいた。

 制服を着た少女が、岩の真ん中で寝転がっている。緩いウェーブのかかった長い髪を地面に広げ、赤い花を口元にやり、まぶたを閉じていた。眩しい太陽の光を浴び続けてきた私の目に、その白い肌と花の赤は目眩にも似た感覚をもたらす。少女の寝転ぶそこはちょうど日陰になっていて、この暑さのなかで別世界みたいだった。

 眠っているかと思った彼女の腕が動いて、鼻先に花が近づく。制服の胸が高くなり、彼女が花の香りを嗅いでいるのだとわかった。立てられた膝に応じてスカートの裾が乱れたのも気にする様子はなく、裸足を岩の上で行き来させ、何度も足の裏をゆっくりと岩に擦り付けている。そして、彼女は赤い花びらを唇に挟んだ。その口元が、うっとりと微笑を刻む。

 見てはいけないものを見ている感覚に、私の呼吸は苦しくなり、心臓の鼓動は速くなった。

 すると、彼女の腕が、動きを止めた片脚へと気怠げに伸びた。儚げな指先が、その存在を確かめるように爪先からふくらはぎ、膝、太ももの上を順番に滑っていく。

 うわあ。いよいよ顔が熱くなって、私は後ずさりをした。と、スニーカーが石ころでも蹴ったか、硬い音が辺り一面に響いた。

 寝そべっていた彼女がバネみたいに起き上がってこちらを見上げる。その形相は恐怖に青褪めていた。咄嗟に謝ろうとした私に構わず彼女は急いで立ち上がり、それから生まれたての仔鹿みたいに数歩よたつき、そして岩の間を走ってどこかへ消えてしまった。



☀︎ ☀︎ ☀︎ ☀︎



 今日もまた、私は海のそばの大きな岩の上へ来ていた。昨日と同じ時間帯。同じくらいの、地獄みたいな暑さ。ただ違うのは、小さな期待が胸にあること。大小の岩を乗り越える全身運動を経て荒くなった息を整え噴き出す汗を拭い、ステージ状の岩に立つ。岩の淵には、目前の海を見下ろすようにして昨日の女の子が腰掛けていた。縮こまりそうな心臓を奮い立たせてその背中へ声をかける。


「こんにちは」


 女の子は肩をびくりとさせてから、そろりと振り向いた。その固く結ばれた口元と警戒心たっぷりの瞳に、私の心臓は結局縮んでしまった。でも、彼女の着ている水色の制服は、私が新しく通う高校と同じもの。だから、勇気を出して言葉を続ける。


「……あの、私こないだ引っ越してきて。同じ学校に通うことになった、二年の奈津子なつこって言います。えっと……あなたは何年生ですか?」


 彼女からの返事はない。頬を強張らせてますます口を引き結ぶその様子に、私の胸は後悔でいっぱいになった。


「あの……ごめんなさい。邪魔でしたよね。私帰ります」


 恥ずかしさに熱くなった顔を下げ、踵を返す。すると、


「ま、まって」


と小さく言う声が聞こえた。振り返ってみたけれど、彼女は口を開け閉めしては言葉を飲み込んでいる。先ほど制止を呼び掛けた際の発話もたどたどしかったように思われ、もしかしたら彼女はしゃべれないのではないか、と私は眉をひそめかけ、慌てて表情を取り繕った。彼女は一度瞑目し、深呼吸してから唇を湿らせ、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「おなじ……おなじ年だとおもう」

「――二年生?」


 こくり、と彼女は頷いた。そして、視線を辺りにやってから、「他の子は」と訊いてきた。友達と一緒ではないのか、という意味だろうか。答えにくい質問に、私はぼそぼそと返す。


「……友達は、まだいない。引っ越してきたばかりだから」

「ひっこし?」

「Q県から、こないだ。親の都合で終業式の日にこっちに来て、そのまま夏休みになっちゃったから……知り合いがいない」


 なるべく惨めな感じが出ないよう答えたのに、彼女はふっと遠い目をしてつぶやいた。


「――ひとりぼっちなのね」


 わざわざ言わなくてもいいことを。

 嫌なところを突かれてムッとしたけれど、でもなんだかすごく寂しそうに彼女が言ったから、こんな隠れ家みたいな場所で一人でいるあんたこそどうなの、という言葉は引っ込めた。



 それからなんとなく、毎日私たちはその岩の上で会った。

 数日付き合ってみて改めてわかったのは、この女はすこぶる性格が悪いということ。

 まずひとつには、私のことを「ぼち子」と名付けたのだ。ひとりぼっちの「ぼち子」。やっぱり、あんたこそどうなのって言ってやればよかった。

 そして、たいへん肥えた舌を持っているらしく、私の持参したお菓子を食べては率直にまずそうな表情を露わにし、「……よくこんなもの食べるわね、ぼち子」などとのたまう。最初はもちろん、人のものをもらっておいてなんなの、とカチンときた。

 私がお菓子を食べていると、興味のない風を装いながらもそれとなくねだって、差し出せば鼻を近づけて顔をしかめ、恐る恐るといった様子で口に運び、時間をかけてそれを味わい、――結果、まずそうな顔をする。それを毎回律儀に繰り返すものだから、そのうちなんだか妙に愛嬌を感じていったのも事実ではある。

 ごくごくたまに彼女の口に合うときもあって、その際はわかりやすく瞳がきらめく。ただの黒じゃなくて、よく見ると藍が混ざったような深い色の彼女の目に、星がチカリチカリと散った。素直に「美味しい」と述べればいいものを、「……悪くないわね」なんて小さく言うだけなのも、逆に可愛らしく思えてくる。

 どこにでも売っているお菓子にそういったリアクションをいちいちとる、ありえないほどの世間知らず。実は深窓のお嬢様だったりするんだろうか。



 私は夏休みの宿題をその岩の上でやるようになっていた。家にいると、親が「友達を作れ」と言ってくるのが鬱陶しいから。それから単純に、日陰で冷えた岩に寝そべって勉強するのは気持ちよかった。うるさいほどの波音も、一定のリズムで繰り返されると集中力を高めるのに一役買った。

 そうして私が毎日コツコツ宿題を片付けている横で、彼女は海を眺めたり、お気に入りの菓子をときどきつまんだりするだけで、何をするでもなく優雅に過ごしていた。数学に飽きた私が、


「あんた宿題もう終わったの」


赤い花をいじっている暇そうな背中にそう声をかければ、彼女はちらりとこちらのノートに目をやって、


「……そんなの。もう終わらせたわ」


と素っ気なく答える。憂いを溶かしたみたいな、思慮深そうな目。なんとなく、海の底ってこんな色なんじゃないかと思う。


「あんたもしかして頭良かったりする?」

「――ぼち子よりは頭の出来はいいはずよ」


 呆れる。


「いちいち感じ悪い返答ができるの、逆にすごいよね」


 彼女は眉をちょっと上げただけで、特に反論するわけでもない。私はため息をついて嫌味を言ってみる。


「あわよくばあんたに勉強教えてもらおうかと思ったけど、この調子で対応されたらさすがにイライラしそうだからやめておこ」

「ぼち子にわかるように教えるなんて、さすがの私でも出来そうにないから、やめておくのが正解ね」

「……あー、もうすでにイライラできた。あんたの人をイラつかせる才能ほんとにすごい」


 彼女は得意げに口元を引き上げるので、またしても呆れてしまう。

 ――でも、こんな風に思ったまま本人へ何か言うことなんて、以前の自分なら考えられなかった。


 いつ来たってこの岩場に彼女はつんと澄ました顔で居て、私の存在なんて歯牙にも掛けない、みたいな態度だけど、でもこちらが声をかければ、その瞳のなかにわずかな親しみがちらりと覗くから、懐かない猫がちょっとだけ心を許してくれたときのような嬉しさを私は感じていた。


 彼女の連絡先は知らないし、名前すら聞いていない。

 だけど、ここへ来れば彼女に会えるし、二人きりのこの空間では、名前を知らなくたって、「ねえ」と言えば言葉が交わせる。

 それが、妙に心地よかった。



☀︎ ☀︎ ☀︎ ☀︎



 今日はまた格別に暑かった。むんとした空気がべたりと全身にまとわりつく。いくら日陰とはいえ宿題をやる気にもなれず、私はただ岩の上で横になっていた。サンダルを脱いだ裸足の脚に、ひんやりした石の感触が気持ち良い。彼女も黙って寝転んでいる。岸壁に打ち寄せる波音だけが鳴っている。


 今日も制服姿の彼女は靴下を履いておらず、白くて長い脚が黒い岩の上にすらりと伸びていた。見るともなしにそれを見やれば、意外にもそのふくらはぎには見事な筋肉が付いている。まるでトゥシューズを履く人みたい。

 自分の脚をそっと触る。もう何日もレッスンやトレーニングをしていないそれは、すでに張りを失い始めていた。本能的な恐怖がのぼってくるけれど、もういいでしょ、と胸の裡で言い聞かせる。十代らしく好きに遊べばいい。でも、引っ越してすぐに行ったこの街のショッピングモールは規模が小さく、なんだか冴えなく見えた。鬱屈とした気持ちに、うだるような暑さが拍車をかける。首を巡らせて、陽の光に輝く海へぼんやりと視線を向けた。

 毎日海を眺めて過ごしていると、このだだっ広い海も、毎日、毎時間、毎秒、色んな表情を持っているとわかった。遠くに白波がいくつも立っているとき、何でも飲み込んでしまいそうなほど荒れてどす黒く恐ろしいとき、嘘みたいに凪いで穏やかなとき、底まで見通せそうなくらいに透き通っているとき、刻々と変わる空の色を吸って一秒たりとて同じ瞬間がないとき。

 だが、私だって女子高生なのだ、――飽きる。

 身を起こし、かすかな期待と不安を隠して、「ねえ」とそばの女の子へ声をかける。眠たげにしていた瞳がこちらを見る。


「どっか遊ぶのにいいとこ、教えてくれない?」

「……教えないわ」


 ふい、と顔を逸らして彼女はぶっきらぼうに言った。もしかしたらこの子も、たいして遊び場を知らないんじゃ、と疑念が湧く。それを直接的には言葉にせず訊いてみる。


「ずっと思ってんたんだけど。あんたのしゃべりかたってさ、お嬢様みたいっていうか、古風っていうか。実はいいとこのお嬢様なの?」


 のそりと起き上がった彼女は、珍しく動揺しているようだった。


「古風、なの」

「えっと……おしとやかって言えば満足?」


 私のフォローにも彼女の表情は曇ったまま、


「……ぼち子みたいに低俗な生まれじゃないの」


と言いやがった。いらっとするけど、確かにその俯いた顔は貴族みたいな品がある。なんて言い返そうか考えていたら、彼女はぽつりと言う。


「あれ、どうやるの」

「あれって?」

「満月の日に、ここでくるくる回ってた」

「――見てたの?」


 びっくりして問うた私に、彼女は一度口をつぐんだ。そしてこちらをまっすぐ見返して再び口を開く。


「地面から足が浮いているみたいで、魔法かと思った」


 その瞳のなかには、静かな熱気と星が瞬いていたから、今度は私が黙る番になる。気恥ずかしさから、私はわざと乱暴に立ち上がって言い放つ。


「私は教えるプロじゃないし、一朝一夕に出来るものじゃないけど。それっぽい簡単な動きなら教えてあげる」


 返事もなく立った彼女の顔は、確かに喜びで華やいでいて。初めて見た。ずるいじゃん。私もわけもなくニヤケそうになるのを、教師然とした顔つきでごまかす。そしてストレッチを一緒にやって、基本の腕のポジションや、どう体を開いて膝を曲げるのかなどを丁寧に教えていたところ……たいへん率直な「つまらないわ」という感想をいただいた。


「基本をナメたらそれっぽく踊っても格好良くならないんだから。それに、この地面だって本当は踊るのには硬すぎて……」


とぶつくさ言っていたら、彼女の目から星空は消え去っていた。


「……じゃあ少し回る系のやつやっていくから。真似してみて」


 腕を広げて片脚を曲げ、一回転してぴたっと止まってみせた。星空が戻っている。久しぶりの動きに、私の体は重たく、厚着でもしているかのような違和感があったのに、それでも彼女の瞳は「すごい」と言っていた。胸がくすぐったい。


「ゆっくりやってみせるから。こんな感じ」


 見様見真似の彼女の動きはもちろん洗練されてはいなかったものの、長い手足が見栄えする。


「いい感じ、いい感じ。次はこんなの」


 ちょっとずつ違う種類の回転を教えていく。普段のアンニュイな様子はなりを潜めて、真剣に、でも楽しげに踊りについてくる彼女は正直愛らしい。少し調子にのった私は、するすると回転しながら岩場を横断してみせた。


「ね。バレエっぽいでしょ」


 無言ながらも素直に笑顔を浮かべた彼女は、同じように足を揃えて二本足で回転して移動していく。ふわふわの髪と、制服のスカートが宙に舞う。あんな風に笑うんだ、と私はなんだか呆然としてしまった。岩場の淵で止まった彼女が、声を弾ませた。


「どう、ぼち子。なかなか様になっていたでしょう?」

「うん、綺麗だったよ――」


 そう返事をしている最中、ふらついた彼女が、二、三歩と横に流れて、あっと思った瞬間には、彼女の体は岩の外へかしいでいた。


「――っ」


 伸ばした手は当然間に合うわけもなく。足場をなくした彼女の姿が、見えなくなる。駆け出した自分の足音よりも、海の中へ何かが着水する水音が大きく響いた。声にならない悲鳴を飲み込み、眼下の海を覗き込む。名前を呼びたいのに、呼ぶべき名前がわからない。


「ねえ! ちょっと! ねえ!」


 ここの岩は海の上へ大きく張り出していて、直下には目立った岩もない。海底までの深さもありそうだし、今の海は荒れることもなく穏やかだ。けれど、私の叫び声に応える者はない。頭が真っ白になって、とりあえず海の中へ飛び込んで彼女を探そうかと決心しかけたとき、予想していたよりも遠くのほうで、ざばりと見慣れた顔が水面に出てきた。


「あっ、大丈夫!?」


 波間に揺れるその顔は、苦しげでも切羽詰まってもいなかったけれど、どこか思い詰めた雰囲気だった。


「怪我してない!?」


 彼女は何も言わないまま数秒そこに留まってから、くるりと背を向けてまた水中へ潜ってしまった。海を見渡してみるも、こちらへ泳いで戻ってくる姿は見つけられない。


「ちょっ……と、え、何? なんなの?」


 一度水面に上がってこれたものの、溺れてしまったのだろうか。恐怖に手足が冷たくなった瞬間、もっと遠くの海面にぷかりと現れた顔を見つけた。続いて片手を挙げてその人は声を張り上げる。


「ぼち子! 私は大丈夫だから!」

「そっち沖のほうだよ! とりあえず上がってきなよ!」

「いいから! 今日はもう帰って!」


 そう言い放つと、再び彼女は海の中へ消えた。

 いくら待っても、その日はもう、彼女が姿を現すことはなかった。



* ☀︎ * ☀︎



 翌日、いつもより早い時間に岩場へ行ってみたけれど、誰も現れないまま夕方になって、私は途方に暮れていた。宿題の一式も持ってきたものの、もちろん集中できるはずもない。

 ――やっぱり怪我してたのかな。連絡先、聞いておけばよかった。せめて名前だけでも。

 一直線に伸びる水平線をひがな一日悶々と眺めるうち、オレンジ色に焼けた空を映して、広い海は眩しいほどになった。帰ろうか、とため息をついて振り向いたら、そこには裸足のあの子がいたから、心臓が止まりかけた。


「やっと来た! 心配したんだから。昨日は何だったの。なんともない?」


 早口で尋ねた私に、彼女は無言を返すだけ。怪訝に思っていると歩み寄ってきて、


「あなた泳げる?」

「――え? うん……水泳教室に通ってたし」


答えた私の手を突然取って、海のほうへすたすたと歩いていく。

「何?」と問いかけようとしたとき、背中に衝撃を感じ、私は空中に浮いていた。視界いっぱいに迫りくる海面に、脳がものすごい速さで動き出した次の瞬間には、海のなかにいた。塩辛い水が鼻や口から入り込んできて、目が痛くなって、混乱と、それから怒りが体中を包んだ。

 あいつ、私のこと突き落とした。

 着衣したまま泳ぐもどかしさを振り切ってすぐに水面へ顔を出す。顔を拭い、しぱしぱする目を崖上に向けて叫んだ。


「ちょっと! 何すんの!」


 岩の上からこちらを見下ろす彼女は、てっきり意地の悪い笑顔でも浮かべていると思ったのに、張り詰めた表情をしていた。それから彼女は、見惚れるほど流麗なフォームで海に向かって飛び込んだ。わずかに跳ねた水が私に降りかかる。


「もう! なんなの!」


 再び顔を拭って文句を言う私のすぐそばにぬっと顔を出した彼女は、嗤うでもなく真剣な目でこちらを見つめてくる。普段はウェーブがかっている髪が濡れて彼女の頬に張り付いている。夕暮れの光が彼女の目の色をわからなくする。


「……」


 なんだか言葉を失くした私の手を掴むものがあった。導かれた指先がざらりとしたものに触れ、咄嗟に手を振り払う。


「なに――」

「人間は、私たちのことを“ニンギョ”と呼ぶの」

「は? 何言って……」


 水面に広がる彼女のスカートの下に視線を向ける。揺らめく海のなかで、光を反射している何か。

 せわしなく手足を動かし続けて海に浮かぶ私と違って、彼女は波一つ立てず、静かに浮いている。

 再び彼女によって片手が導かれる。すべらかな肌の感触と、きゅきゅ、としたくびれに続いて、予期せぬ硬い手触り。思わず腕を引っ込める。


「……」


 空と海のオレンジ色に包まれて、私たちはもう一度見つめ合った。今度は彼女の瞳の奥がよく見えた。怯えと寂しさ。


「――願いを叶えてもらって、人間になったの。でも、海に入ったら元に戻ってしまう」

「……」

「……信じる?」

「信じるも、信じないも……だって……」


 先ほど指先に感じた感触も、海の中でゆらりゆらりと揺れている、“脚”ではない何かも。そして、


「――見てみたい?」


 大きな不安と、わずかな希望を灯して見つめてくる瞳も。

 私は頷く。



* ☀︎



 海からせり出している低い岩へ、彼女は慣れた仕草でひと息に上がってみせた。波間に揺れながら、私は息を飲む。

 こちらへ背中を向け横座りする彼女のスカートの下には、見慣れた白い脚ではなく、何色とも形容できない鱗が夕暮れに照らされて輝いていた。“人間”ならばふくらはぎにあたる部分からは、向こう側が透けて見えるほどに薄く繊細なひれが、それこそシフォンドレスのように大きく広がっている。

 彼女は濡れた腕を心細げにかき抱き、肩越しにこちらを見ていた。びしょ濡れである点を除けば普通の制服を着た少女なのに、視線を下げれば、硬質の鱗に覆われたなまめかしい曲線がスカートから伸び、いかにも傷つきやすそうなひらひらとしたひれが揺れている。彼女が呼吸するたび、鱗は虹色に煌めいた。彼女の身体から反射された光が眩しくて、私は目を細める。


「すごい……綺麗……」


 吐息混じりに私がそうこぼした途端、彼女はその瞳にいつもの不遜な気配を取り戻した。向けていた背中をゆっくりと戻し、人間で言うところの膝部分に肘をついて口を開いた。


「私のおばあ様もよく言うわ。私の鱗とひれは、三百年に一度生まれるかどうかの、ここらの海じゃ一番のもの。とっても綺麗だって」

「そうなんだ。……触ってもいい?」


 私は熱に浮かされたみたいに無意識に腕を伸ばしかけたけれど、


「待って! 地上で人間の手に触られると火傷するっておばあ様が言っていたわ」

「そう……」

「……でも、ちゃんと冷やした人間の手なら問題ないとも聞いたことがあるの。海の中でよく冷やすのよ」

「うん」


 彼女のすぐそばまで泳ぎ、海から手を出して、まずはドレスみたいなひれにそうっと触れてみた。熱くないか様子を伺ってみても、彼女は黙って岩の上からこちらを見下ろしているだけだった。自分の手のひらがひれ越しでもやっぱり透けて見えて、その手触りは柔らかくて滑らかで、いつまでも触っていたくなった。でも何より美しかったのは鱗だった。近くで観察する鱗は、銀や藍、緑に水色、桃色から金、と様々な色を見せる。扇型の小さな鱗が一枚一枚その身体を覆っているのが信じられないまま触っていたら、


「――ぼち子、熱くなってきたわ」

「あっごめん」


 すぐに腕を引っ込めた私をちらりと見て、彼女はぼそりとつぶやく。


「……反対の手なら」


 言われた通り、もう一方の腕を海中から出して再び鱗に触れる。遠くで見るには硬そうだった鱗でさえも、その一つずつはとても薄くて頼りないものだった。好奇心から鱗を少し持ち上げてみようとした瞬間、指先に鋭い痛みが走って手を離した。鱗の先で指を切ってしまったようだった。揺れる海水が小さな傷を洗ってそれがまた沁みる。自分の手からふと視線を上げた先で、彼女はいたましげに眉をひそめていた。


「……ぼち子、唇の色がみっともないわ。人間はいつまでも海のなかにいられないのね。――もう帰れば」

「うん……」

「地上に戻れる? あそこからなら低くて登りやすいはずよ」


 指差されたほうへ顔を向けているあいだに後ろで水音がして、振り返ると彼女は海中へ戻っていた。顔を見せず背中だけ向けて、


「――また明日ね」


彼女は小さな声でそう言って、すぐに海へ潜ってしまった。


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