亡霊の足跡

がみ

Prologue

ep.0 愛ゆえに

 早朝、手袋をつけた手で一軒家の門を慎重に、静かに開ける人影があった。


 周囲に人がいないことは確認済みだ。まだほとんどの人は布団の中で夢の中にいることだろう。


 目の前の一軒家は豪邸と呼ばれるに相応しい佇まいをしており、門から玄関の間には濃淡のあるオレンジ色の煉瓦が埋め込まれた道が伸びている。


 その左右に広い庭があり、花が植えられていたが、大部分は土の地面が広がるだけで、建物の絢爛には似合わない殺風景なものだ。


 玄関の扉の前までたどり着くと、音を立てないように扉を引き、靴を脱いでスリッパを履く。


 廊下を進んでリビングに入ると、椅子に座っている男がいた。六十歳ほどで、安物の部屋着のスウェットを着ている。


 身につけている物に反して、リビングは広く、高級な家具が並んでいた。ヨーロッパ産のソファや棚、テーブルや椅子にまでこだわりを感じる。


 これだけの邸宅に住んでいるのだ。経済的なゆとりは一般のそれとは桁違いだろう。



 「ん? やっと来たか。遅いぞ」



 その男は、約束していた時間よりも遅れてやって来たことに、あからさまに不満な態度を見せる。


 金があって、地位もあって、小さな会社でもトップに立つと一国の王様だと勘違いする者がいる。彼もそのひとりだ。



 「さて、とっとと話を終わらせるぞ。まったく、話ならこんな時間にすることもないだろう」



 彼は眠そうにあくびをしながら立ち上がり、次に舌打ちをした。


 自分だって普段ならこんな時間に起きていない。この男のためにわざわざ早起きしてやったんだ。お前のような人間のためになぜこちらが苦労をしなければならないのかと、こちらが舌打ちしたい気分だ。


 男がキッチンに向かうので、足早にそのあとを追った。もう足音を殺す必要もない。


 左手を伸ばして男の肩を掴み引っ張ると、彼は身体を反転させてこちらを向いた。


 機嫌が悪い上にさらに謎の行動をされたことに男は不満を瞳に宿して睨みつけてきた。



 「なんだ?」



 ポケットに隠していた包丁を右手に逆手で持って、躊躇うことなく男の喉元に突き刺した。そのまま強い力で男を押し倒すと、彼はダイニングテーブルの上に仰向けに倒れた。


 その衝撃で、テーブルの角に後頭部を打ちつけたようだが、そんな小傷はすでに気にならないほどの激痛だろう。


 犯した罪の重さを心に刻んでから死ぬといい。



 「がっ。くっ」



 刃物が喉に突き刺さった状態では、うまく発声ができないようだが、そこに突き刺したのは、それが目的ではない。


 返り血を浴びながらも、喉元に突き刺さった包丁をさらに動かして、縦に胸に下ろして引き裂いていく。


 鎖骨に弾かれる感覚があったが、肋骨の間に入れば、そのままさらに腹まで刃を動かす。


 男は痛みで気絶して動かなくなった。いや、すでに死んでしまったのかもしれない。


 そのほうが、都合がいい。お前の汚い血を浴びることは気持ちいいものではない。暴れることなく死んでくれ。


 着ている上着を裏返して着直し、浴びた血を隠した。このためにリバーシブルの風変わりな上着をわざわざ見つけてきたのだ。


 腹に突き刺さった包丁は抜いて、ポケットに入れていたビニール袋に手袋と共に入れ、上着の中に忍ばせる。


 あとは、少しだけ細工をしておけば、最初の目的は達成される。


 持っていたもう一組の手袋を両手にはめ、リビングを歩いた。



 できるならこんなことはしたくなかった。悪いのは、お前たちだ。


 ある日突然、見ず知らずの誰かのために犠牲になる人間の気持ちを考えたことはあるか?


 クズのために犠牲になるという自覚もないままに消されてしまうことが、どれだけ辛いことかわかるか?


 遺された人間の気持ちを一瞬でも考えようとしたことがあるか?


 ないだろうな・・・。期待するだけ無駄だ。



 テーブルの上で真っ赤に染まり息絶えた男を振り返る。


 人を殺したばかりだというのに、脳内で再生されたのは、微笑む若い女性と彼女の腕に収まる幼い男の子の無邪気な笑顔、そしてそれを見つめる男性の涙だった。



 本当にすまない。こんなことになるなんて、想像もできなかった。


 いつかそちらに行っても、もう君は笑顔を見せてくれないだろう。


 だが、これだけは知っていてほしい。


 愛している。


 心の底から・・・。

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