3


 平日。一日のほとんどは退屈な学校の中。ようやく終わりが近付いてきた。あとはホームルームを残すだけだ。今日も何回の欠伸をしただろうか。ありふれた日常。昨夜は久々に刺激のある締め括りだったのに、その感動も薄れていく。

 僕は椅子に座り、机に肘をつき、窓の外を見ている。今日も天気がよい。教室で授業を受けているよりも、どこか広い場所で空を眺めていたほうが何倍も有意義だ。

「おい勇樹。カラオケでも行かね?」

 放課後、帰り支度をしていると、クラスの男友達から声を掛けられる。しかし、今日は無理だ。

「総合記念病院に入院してる父親が退院するから、病院に行かないといけなくて」

「いまからあの病院まで? 迎えなら母親に任せればいいだろ」

「そうだけど、まあ一応」

「なんだよ。病院で可愛い子でも見つけたのか?」

「え? いや」彼女の顔が頭をよぎった。

「まじで? 当たった?」

「ま、まさか。そんなはずないよ」首を振る。

「一目惚れする程の女なら、絶対に彼氏いるって」肩に手を置いて言われる。

「だから、違うって」また首を振る。

「ま、いいけどさ。また今度な」

 まったく、からかわないで欲しい。大体、予定がなくてもカラオケに行くのは気が向かない。行ったとしても、歌える曲なんてない。退屈なだけだ。結局、いつも部屋代は払うがドリンクを飲むだけで終わる。これならば、自転車で走りまわる方が楽しい。

 僕は帰宅準備を済ませると教室を出た。正門をくぐり道を歩く。家までは十五分程度の距離だ。徒歩通学だった。

 信号に引っ掛かり、足を止めた所で呟く。

「彼氏……か」

 友達に言われたことを思い出した。もちろん、それ位はわかってる。純粋そうで可愛いあんな子に、彼氏がいない理由がない。

 それに比べて、僕は彼女なんて出来たことはない。ルックスだって、性格だって、何を取っても自信はない。本当に平凡で普通の人間だ。今までの恋だって、臆病な僕が告白なんて出来るはずもなく、すべて片思いで終わった。

(あの子のことも、早く忘れないとな……)

 そう、これでいい。生まれつき凄い人間もいれば、僕みたいな人間もいるんだ。仕方がないんだ……

 思い返すと、今までもずっとこんな調子だった気がする。心の中で、恋愛なんてしている暇はない……と、言い訳をしていた。

 自宅が見えて来た。家は和風で瓦屋根の平屋。キッチン、浴室、トイレ。食事の間と親の共同寝室、あとは僕の部屋しかない小さな家だ。

 僕は玄関の扉を開けると学校の鞄を中に投げた。そして素早く部屋に走り、私服に着替えると用意していたリュックを背負い、庭に停めてある自転車に飛び乗った。

 右足でペダルを強く踏んだ。自転車は道を走り出す。総合記念病院までは、自転車で片道三十分程度。僕にとっては車に乗る距離ではない。母親もそれを知っているため、僕を待たず先に出発したのだ。

 顔に風を感じる。心地が良い。休日になれば、こんなふうに自転車を乗りまわす。心から楽しい時間だ。だが決して、サイクリングが趣味なわけではない。

 空を見上げた。青い空に、絶妙なバランスで雲が流れている。

(……いい、空)

 微笑んだ。


 長い坂を荒い息で上る。やっと病院が見えて来た。予想より遅れてしまった。空が綺麗で、少しでも長く見ていたかったんだ。

 自転車を停めると入口に走る。中に入ると病院内は涼しい冷気で満ちていて、やっと汗が引いた。

 父親の病室に入ると、殆どの片付けは終わっていた。やはり到着が遅かった。現在は父親と母親が主治医に頭を下げている。

「お父さんたちは支払いを済ませに行くけど、来るか?」

 父親が言った。退院するのが嬉しいのか、上機嫌に見える。

「僕はいいや、休憩室にいるから、終わったら来て」

「そうか、わかった」

 両親の背中を見送る。休憩室に歩きながら、友達の言葉を思い出していた。確かに、一週間の入院患者の帰宅準備は微々たるものだろう。母親一人でも手は足りるに決まっている。それでも顔を出したのはどうしてか。答えは行き先にある。友達も鋭いものだ。僕は昨日と同じように休憩室へと身を入れた。

 また彼女に会えるかもしれない……という期待が頭の片隅にあったのだ。まあ、確率は低いだろう。休憩室なんて、入院患者ならやはり自動販売機に用事でもなければ訪れない。それに、彼女が必ずしも三階の患者だとも限らない。

 案の定、休憩室には誰もいなかった。確かに、僕などに天使が微笑むはずはない。

 窓に近寄った。遠くに海が見える。そして、夏らしく緑を生い茂らせている木々は、もう少しで沈むであろう夕日を浴び橙色に照らされている。木々から聞こえるセミの声。すでに夕方なのに、虫達は元気なものだ。堂々と自信に満ちており、羨ましく感じる。

 窓からはあの長い坂も見える。車が一台下って行く。通院かお見舞いか、どんな用事で来たのかはわからないが、きっと車の中から海を眺めているはずだ。少しでも気持ちが安らげばいいのだけれど。

「勇樹っ」

 暫く外に見とれていた僕は、父親の声で振り向く。両親は休憩室の入口に立っていた。帰宅の準備は全て終わったようすだ。

「お父さんたち、もう帰るぞ。お前は自転車だろ?」

「うん、そう。僕もすぐ帰るから」

「早く帰って来るんだぞ」

 そう言って両親は休憩室をあとにした。また、部屋が静かになった。

 もう、暫くはこの病院に来ることはないだろう。そう思うと、少し淋しくなった。彼女のことはもちろんだけど、この景色も拝めなくなってしまう。

(……帰ろう)

 名残惜しくも僕は窓に背を向けた。退院したばかりの父親に心配も掛けられないし、帰らなくてはならない。

 休憩室を出る前に自動販売機に向かった。今日はすでにリンゴジュースの『売切』の文字は消えている。良かった。もし彼女が三階の患者なら、これで購入できる。

 僕は財布から百円玉を取り出し投入口へと入れた。そして炭酸飲料のボタンを人差し指で押した。やはり慣れた物を購入するのが良い。僕は転がり落ちてきた缶を掴んだ。

「あれ?」

 不意に声が出た。僕が購入した炭酸飲料に、またもや『売切』の赤い文字が光ったからだ。まったく、運がいいのか、悪いのか。僕はやれやれと一息つき、蓋を開けてジュースを口に運んだ。

 ――そのとき。

「あの……」

 後ろから声をかけられた。聞き覚えのある声だった。聞き違えるはずはない。

 慌てて缶ジュースを口から離し、振り返った僕の視界に入った人間は、やはり間違いではなかった。車椅子に乗った、あの……

「昨日は有難うございました」彼女は頭を下げる。

「あ、いや」

 僕は戸惑い、返答に困る。まさか、本当に会えるなんて。

「その、なんて言うか」彼女も戸惑いながら言った。

「……う、うん」

「お、美味しかったです。リンゴジュース」

「え?」

「あ、いえ、何言ってんだろ……私」

 大丈夫。君以上に僕、動揺してますから。

 ちょうど休憩室に中年男性が入って来た。男性も自動販売機に用があるようすなので僕たちは離れる。何となくお互い黙ったままで、少し気まずい。せっかく会えたと言うのに、僕は本当に臆病なものだ。

「あ、売切れかあ」

 自動販売機と向き合っている男性が言った。僕たちもその声に視線を向ける。どうやら彼は、僕が購入したジュースが飲みたかったようだ。

 男性は休憩室から出て行った。再び部屋は僕たちだけとなる。

 彼女が僕の手元を見ていた。僕は頭を掻いた。

「これじゃあ、あげられないよね」缶を持ち上げて彼女に言った。

「ふふ、そうですね」

 彼女は口に手を当てて笑った。空気が軽くなった。今回は売切に感謝だ。

「あの、少し……話せる……かな」

 心臓の音が聴こえてしまうかもしれないと思いながら、恐る恐る僕は言った。

「はい」

 彼女は頷いた。僕は心の中で胸を撫で下ろした。本当に現実なのか不安になる。

 近くのパイプ椅子に腰掛けた。彼女は長机を挟んで反対側に車椅子を寄せた。

「ええと、美味しかったって言うために、わざわざ?」本当の疑問だった。

「いいえっ」

 だと思う。

「これ……」

「百円?」

 彼女は百円玉を机に置いた。

「はい。昨日は、支払えなかったので」

 なんていうか、可愛いかった。

「そんなっ」もちろん貰えるはずがない。いきなりあげたのは僕のほうだし。

「でも……」

 僕は仕方なくこう言った。「僕、リンゴジュース飲めないんだ」

「え? そうなんですか?」

「うん。実は間違って買っちゃって。それなのに売切れにしちゃったし。ごめん」

「いえ、私こそ……」

「だからお金なんて、大丈夫。迷惑かけたお詫びってことで」

「……ありがとうございます。本当に」彼女は改めて頭を下げた。「あの、お名前……いいですか?」

「あ、僕、鈴里勇樹。高校一年」

「え? 私も高校一年ですっ」

「あ、そうなの?」

「はい、白凛県立高校っ」

「隣駅の? 近いんだね。僕は東第一高校」

「そうなんだっ。私、北川冬美っ」

「冬美……」

 彼女の名前を、初めて呼んだ日だった。

 冬美は同じ歳。高校も近場。これは良かった。歳は近いほうが心を開きやすい。

「私のことは冬美でいいよ。鈴里くんのことは……勇樹、でいい?」

「う、うんっ」

 女の子を下の名前で呼ぶのも、呼ばれるのも、初めてだった。

「勇樹は、誰かのお見舞い?」

「お父さんが入院してて。まあ、さっき退院したんだけど」

「退院……そっか。おめでとう」

「冬美は? いつから入院してるの?」

 会ったばかりだし、入院の理由は聞けなかった。

「私? 私はもう、一週間くらいになるかな」

「くらい? まだ一週間なのに、曖昧なんだね」

「ごめん。私、馬鹿だからっ」

「あははっ」

 ようやく少し盛り上がった会話。生まれてきて良かったとすら思える。

 しかし、楽しい時間が過ぎ去るのは早い。

「あ……私、そろそろ病室に戻らないと。検温の時間なんだ」

 冬美が休憩室の壁にある時計を見てから言った。

「う、うんっ」

 時間が許すならば永遠に話していたかったが、僕も帰宅が遅れると親に文句を言われるので仕方がない。話せば話すほど、別れが辛くなるのも事実。ちょうど良いかもしれない。

「じゃあ、僕はこれで」

「うん、お父さんが退院したなら、今日で最後だね。お礼が言えて……よかった」

「………」

 楽しかった……でも、お別れだ。

 そしていよいよ手を振ろうとした、そのとき。

「――あっ」僕はあることを思い出す。

「何?」

 まさか、実現できるとは思っていなかった。思い出してよかった。

「これなんだけど」慌ててリュックから取り出して、差し出した。

 冬美は両手で受け取り、視線を落とす。その紙には、青い空に浮かぶ色鮮やかな雲が写っていた。

「空の……写真? 綺麗」まじまじと見る。

「うん、来るときに空が綺麗だったから撮ったんだ」

 そう、来る途中、空を見たあのとき。本当に綺麗だった……。僕はベストな空模様になるまで待ち、日頃から持参しているポラロイドカメラで写真を撮った。そして、こんな綺麗な空の写真を君にあげたいと、心の片隅で思ったんだ。

「いらない……よね?」

「くれるの? 私に?」

「う、うん。良かったら、だけど」

 反応が怖かった。何て言葉が返ってくるか、心配だった。でも、君は……

「ありがとう、大事にするっ」

 冬美が初めて見せた、とても可愛い、満開の笑顔だった。

「綺麗……写真が好きなの?」

「うん、えと」

 普段なら話さないが、冬美に黙っている気にはならなかった。

「僕、写真家を目指してるんだ」

「写真家?」

「僕が目指してるのは、写真を撮って雑誌とかに提供したりする、フォトジャーナリストなんだけど」

「ふぉと?」

「うん。その写真の中の雲は『彩雲』って現象で、太陽光線が雲の中の粒で回折することによって様々な色になるんだ。稀に太陽に近い雲に見られて、日中よりは余り眩しくない朝とか夕方の方が見やすい。それに、慣れて来ると彩雲になりそうな雲もわかってくるんだ。今日は彩雲に変わるのを待ってたら、せっかく父親が退院なのに病院に来るのが遅れちゃったんだけどさ……あ」

 しまった、つい話し過ぎた。雲を熱く語るなんて、変な奴だと思われても仕方がない。

「ご、ごめん。意味がわからないよね」一応謝る。

 冬美の反応が心配だった。でも、やっぱり君は。

「すごいっ。なんだか勇樹ってすごいねっ」

「え?」本当に驚く。

「彩雲か……赤、緑、青、虹みたいで本当に綺麗。ありがとう」

 嬉しいな……でも、もうこれで。

「じゃあ、僕はこれで……」

 本当にさよならだ。

 父親はもう退院した。自分が入院でもしない限り、もうこの病院の三階になど来ないだろう。

 本当に、このまま帰ってもいいのだろうか。冬美だっていつまで入院しているか分からない。もう、二度と会えないかもしれない。そんなの、嫌だ……

「あのさ、冬美……」また、会いに来てもいい?

「なに?」

「………」なんて言えるはずがない。

「勇樹?」

「う、ううん、なんでもない」作り笑顔で言った。

 これでいいんだ。冬美だって、こんな僕と会いたいはずはない。

「……そっか」

「………」

 歯痒い気持ちで背を向ける。心から思う、本当に僕は、勇気がない人間なんだって。

「あのさっ勇樹」

 そう。このとき、君が呼び止めてくれなかったら本当に終わりだった。

「ん?」振り向く。

「その、嫌だとは思うんだけど」

「……?」

「綺麗な写真が撮れたら、また、くれる?」

「え?」

「やっぱり、駄目かな?」

「う、ううん。あげるよっ」

 君は何気なく言ったのかもしれないけど、心にひっかかる後味の悪い釣り針を抜いてくれる言葉だった。まあ、自分からは何も言えないなんて、かっこ悪いけど……。つくづく情けなく思う。

 それからすぐに手を振り合い病院を後にする。冬美の笑顔に送られるなんて、本当に幸せな気分だ。病院に来るとき、少しでも時間を費やし彩雲を撮影して良かったと思う。まさか、あんな笑顔で喜んでくれるとは予想もしていなかったが。

 帰り際の自分には溜息を吐いたが、もう自然と笑えた。冬美と話せたことが何より嬉しかったからだ。あの笑顔は一生忘れられないだろう。

(また、あの笑顔が見たいな)

 写真を手にして笑う冬美を思い出した。

 そう、僕は写真家を目指しているんだ。日頃から自転車で移動するのも、カメラを持参しているのも、もちろん写真のため。

 なぜ写真家? と色々な人に言われる。

 あれは中学一年のときだった。自宅の庭にはベンチが置いてあって、それに座って空を見るのが大好きだった。学校からの帰宅後だったり休日だったり、夜中だったこともあった。得に趣味なんてない僕は、暇があればあのベンチに座っていた気がする。

 綺麗なんだ……。みんな落ち着いてじっくり空を見たことがあるだろうか。毎日表情が違う空。当然、同じ空は存在しない……。今、空を見ている人間の数は何人だろうか? と考えたり、この空は繋がっているのだから世界のみんなが同じ空を見つめているんだ、と不思議に感じたりしていた気がする。

 そして、空を見ているとたまにある。今、ちゃんと見ておかないと後悔してしまいそうな空。そして、もっと沢山の人に見せてあげたい空。辛い気持ち、悩み事を浄化してくれて、自分は生きているんだ――って認識させてくれるような、そんな空。

 絵なんて書けなかった。ビデオカメラなんて買えなかった。僕は自宅にあったカメラで写真を撮ったんだ。

 自分で撮った写真、僕はそれを見て何より嬉しかった。自分が見ていた大好きな空を、沢山の人に見せられる。

 あの日から空の写真を取り続けた。だが空を見つめているだけでは写真の技術も成長しない。そのために、僕は市販の教科書や雑誌などを参考に自転車で色々な場所を巡り、視点を変えたり、背景の効果を考えることによって写真を勉強し、綺麗な空に出会えば撮影を行うようにした。少しずつだが、写真の腕も上がってきたと思う。

 今、ポラロイドカメラを使っている訳は、最初はカメラに詳しくなかったし、撮った写真をすぐに見られる物が理想だったからだ。でも、これも安くはなかった。写りもいいし、気に入っている。当時、貯めていたお小遣を全て使ったのだから本気の証でもある。

 まあ、現在はデジタルカメラが主体になっているから、プロを目指すからには再び地道に貯めて購入するつもりだけど。

 こんな風に写真のことを考え日々を過ごしていくにつれて、いつしか僕は写真家を夢と語るようになった。平凡な僕にはとても想像できなかった《夢を持つ》と言う心情を初めて理解した。

 しかし……

『写真なんかでメシが食えるはずがない』

『公務員こそが価値がある』

『生れつき才能があり選ばれた人間だけが夢を叶える』

『努力をしたからといって夢が叶うわけではない』

 親が僕に言う代表的な言葉だ。

 写真家、親はそれを夢とは言わず妄想と呼び、頑張れとは決して言ってくれなかった。現在使ってるカメラを買ったときもさんざん怒鳴られ、将来の話しになる度に鼻で笑われ。

 あれから三年が経つが、認めてもらってはいない。親からすれば時間を無駄にする娯楽だ。

 でも、親に反対される人なら僕以外にもいるだろう。しかし僕の場合は、友達にだって頑張れと背中を押してくれる奴はいなかった。

 みんな『夢はないから』『学力社会だから』などと言いながら良い高校に、そして良い大学に行くと張り切り、大人たちはその良質な学校を目指す姿を意味もなしに素晴らしいと言った。夢って一体なんだろう。

 夢を持つことで笑われ馬鹿にされるなら『夢』なんて漢字を存在させないで欲しかった。『夢を信じろ』なんて勝手な言葉、大人たちは教えなければ良かった。きっと将来の夢なんて小学生しか語ってはいけないと思っているんだろう。僕が幼い頃に教えられた『諦めない』と言う言葉は、なぜ、高校生になったいま口にすると、教わった大人たち、当人から笑われるのだろう。皮肉なものだ。

 ただでさえ平坦に生きてきた僕だから、こんな状態ならばいつか挫折するだろうという考えが頭の片隅にあった気がする。聞き飽きた言葉を耳にするのが嫌で、必然的に写真家が夢だと語ることが減ったのも事実だ。……でも、やっぱり嫌なんだ。なれる職業を目指すのではなく、なりたい職業を目指したい。

 いつか親に言い返してやるんだ。

『写真なんかでメシが食えるはずがない』

 現に食べている人がいる。失礼だろう。

『公務員こそが一番良い』

 その言葉を総理大臣が言ったら認める。

『生れつき才能があり選ばれた人間だけが夢を叶える』

 じゃあ僕は何に選ばれたか教えてくれ。それを探すために努力しているんだ。

『努力をしたからといって夢が叶うわけではない』

 確かにそうだ。でも言える。それでも夢を叶えた人は、必ず努力をしている。

 写真家、これは自分で見つけた夢だ。どれだけ馬鹿にされても、僕は心の奥深くで信じている。この道を。

 鼓動と比例して自転車はスピードを上げ、自宅までは昨夜よりも早く着いた気がする。もう暗いので帰りに下った坂道からは夕日は拝めなかったが、それも仕方がない。今日、これ以上の幸せを望むのは贅沢と言うものだ。


 帰宅後まず腰を降ろしたのは、自分の部屋ではなく、庭に置かれたベンチだった。昔を思い出したら、無性に座りたくなったんだ。玄関から出て右手にあるベンチは赤褐色の木で組まれた物で、三人も座れば窮屈なサイズだった。長い間、雨風にさらされガタがきているが、夢を見つけた小さな拠点でもある。もし壊れたならば、自分で修理してでも残そうと思う。最近はテスト期間だったため、部屋に篭り嫌々ながら勉強をしていたものだから、ここに座るのは久しぶりだった。久々だが、座り心地は相変わらずだ。

 今夜は涼しい、自転車を飛ばし温まった体を冷ましてくれる。僕は深く息を吐いた。この場所は落ち着く。庭には何もなく僕と似て平凡だが、ここが好きだった。

 ――空を見上げた。庭は小さくても、上には無限に広がる空があった。こうして上を向いていると、少しも窮屈には思わない。ベンチの周りには障害物はないために視界は広く、空の表情が良く見える。

 疲れているときは、ベンチに横になって眺めたりした。うっかり眠ってしまったこともある。あのときは夏だったから良かったけど、冬場なら危ない所だ。そう言えば、急な雨に打たれて起こされたこともあった。親に見られていて呆れられたものだ。

 真っ黒な上空には星が飾られていた。個人的には青空の方が好きだったが、夜空が嫌いな訳ではない。現在のカメラは夜空を写す性能はないが、いつかは夜の魅力も探していきたいと思っている。

 久しぶりに、もっと綺麗な写真が撮りたいと強く願った。冬美の笑顔を思い出したからだ。病院で言われた言葉を思い出す。

『すごいっ。なんだか勇樹ってすごいねっ』

 ……すごい、なんて言われて本当に驚いた。今までの人生の流れなら、不思議顔を返される方が自然だった。

(あんなこと言われたの、初めてだったな)

 単純なことで火が着く夢と言う名の蝋燭は、吐息の様な小さな風でも揺れ、消えかけることもある。周囲から飛ぶの非難の声は、その、風だ。

 冬美はその蝋燭の灯を、そっと両手で包んでくれたんだ。小さく燈る僕の夢火を、守ってくれたんだ。

 僕はリュックからポラロイドカメラを出すと両手で持ち見つめた。冬美……君は初めて認めてくれた人だった。

『ありがとう、大事にするっ』

 邪魔だと言われ続けた物に、満開の笑顔を返してくれた人だった。

 そう言えば、冬美は何処に住んでいるんだろう。高校も近いし、意外と近くに住んでいたりするかもしれない。そしたら、冬美が退院した後、会えるかな。一緒に写真、撮れるかな。……冬美は僕のこと、どう思ってるんだろうか。……いや、なにを無駄なこと考えているのだろう。あんなに可愛いんだ、僕なんて眼中にあるわけないじゃないか。愛想良く話してくれるのも、きっと冬美が優しいからなんだ。退院してから会えるかな、なんて、考えるまでもない。高望みすると失望するだけ。僕は冬美に会えるだけで十分だ。

 腕時計を確認すると九時を過ぎていた。僕は慌てて自宅に入る。まだ帰宅も伝えてないし、遅くなると良いことは言われない。

「おお勇樹。メシ食べろ」

 茶の間から父親が言った。今日は退院のおかげで機嫌がいいのか、帰宅は意外と遅くなってしまったが何も言われなかった。

 食事とお風呂を済ますと部屋に入りベッドに飛び込む。大の字になり天井を見上げた。自転車も長く乗ったし病院では緊張したため、身体は疲れている。

 気が付けば、僕は部屋の電気もつけたまま眠っていた。


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