第3話 可愛いあざらしが好きで何が悪い


「ただいまー……」


 草壁と別れて、五分。

 一つの山を登り終えた様な徒労感と共に、春人は我が家に舞い戻った。玄関をくぐって、居間に入った声は自分でも死んでいると思う。


「ああ、お帰り、春人。おや、ずいぶんとお疲れだね」

「ただいま。あれ、父さん。今日はもう帰ったの?」

「ああ。剣道の師範は父さんだからね。つまり、いつ休んで、いつ終われるかを考えるのも父さんだ」


 横暴だ。


 腰に両手を当ててふんぞり返り、何故か得意げに笑う父に、春人は乾いた笑いしか返せない。

 父はへらっとした外見をしているが、剣道の腕は随一だ。現在四十歳だが、その時点で七段を有している。八段を取れる条件に達したら、すぐに八段に行けるのではとその業界ではもっぱらの噂らしい。

 父自身はこの数年で始めた家の裏の道場での師範にやり甲斐を見出したらしく、今は上に行くことには興味が無いらしい。この父はなかなかマイペースだ。


「生徒達、残念がってなかったか?」

「いんやあ。今日は早上がりって伝えてあったし、その分遊び回るってはしゃいでたよ」

「そう。……そうだよね」


 父の性格が性格なのか、順応出来る生徒達が自然と残っていく。師範の気まぐれに、小さいうちから柔軟な対応が出来るのは喜ばしいことなのか、嘆かわしいことなのか。春人には判断が難しい。


「あら、おかえりなさい、春人。手を洗って来なさいな。今日はホットケーキ焼いたのよ」

「食べる! はいはい! すぐ洗います」


 母の一声にしゅぱっと右手を元気よく上げ、春人は急いで洗面所へ向かう。そのまま手を勢い良く、かつ丁寧に洗って拭きまくり、すぐに居間へと取って返した。

 テーブルの上には、ほかほかの湯気がゆるりと波立つホットケーキが並べられていた。ほんわりしたきつね色の表面からほのかな甘さが香り、春人の食欲を美味しくくすぐっていく。


「いただきます! 母さんのホットケーキは世界一だからな」

「あらあら。嬉しいことを言ってくれるわねえ」

「父さんも、母さんのホットケーキと、それからハンバーグが好きだなあ。外で食べても美味しいし好きなんだけど、家で食べるとホッとするよね」


 目の前に座った父がほがらかに笑い、ナイフをほっくりと生地に差し込んで口に運ぶ。んー、ととろける様に顔を緩める父の姿に、春人も慌てて己のホットケーキに向き合った。

 ナイフを入れるとふんわりした感触ながらも弾力を感じ、かけられたハチミツとの絡まり方が既に目にも美味しい。

 一口大に切り分け、春人は待望のホットケーキを口に頬張った。


 途端、ふわっとした生地の優しい甘さとハチミツの滑らかな香りが口の中いっぱいに広がる。


 この絶妙な甘さと香りの絡み具合が最高だ。はふっと熱を逃がす様に噛み締めると、更に濃厚な匂いが香り立って堪らない。


「美味しい!」

「良かったわー。母さん、料理は得意じゃないけど、ホットケーキとハンバーグだけは自信があるから」

「父さんも好きだなー。今はこれ以外考えられない」

「俺は、父さんのシチューも好きだけどね」

「春人……! 可愛い! 大好きだ! 結婚しよう!」

「却下」

「まあ。父さんってば。浮気者ねえ」

「父さんは、母さんと春人がいれば何もいらない。つまり、結婚だ」

「……却下」


 ぱああっと天に召される様に顔を輝かせ、両手を組んで涙を流す父を、春人は一言で流す。それでも犬の尻尾でも生えたかの様に喜びをぶんぶん振り回す父を、母はあらあらと微笑ましそうに見守っていた。

 考えてみると、この両親の――特に父のノリは、あの草壁に通じるものがある。もしかして、つい最近までは普通に流せていたのも、このノリに慣れていた故ではないだろうか。

 とんでもない真実に気付いてしまった様な感覚に、春人がげっそりとやつれていると。


「母さんや、お代わり」


 父はちゃっかりと平らげ、お代わりを要求していた。先程まであんなに涙を流していたのに、ホットケーキは食べ進めていたらしい。食欲に忠実だ。


「お父さんは相変わらず早いわねえ。あと何枚?」

「まずは三枚で」

「父さん、俺の分も残しておいてよ」

「大丈夫だ。母さんはいつだって二十枚は作ってくれているからね」


 父が誇らしげに胸を張るのに対し、母は頬に手を当てて嬉しそうに笑う。何故ここで母が嬉しそうに笑うのか春人には謎だが、夫婦の間で何か通じるものがあるのだろう。スルーするに限る。

 今日はなかなかの厄日だったが、ホットケーキがおやつだったことで帳消しだ。やはり幸せと不幸というものは、バランスが取れているものだと深く納得する。



「あ、そういえば春人。ゴーたんがクリーニングから返ってきたわよ」

「え! マジか! やった!」

「部屋に置いてあるから、見てきたら?」

「うん!」



 ちょうど一回目のホットケーキを食べ終えたところだったので、春人は手拭きで手を拭いてから部屋に直行する。

 ばしんっと扉を開けた先には、ベッドの上にちょこんと白いあざらしが可愛らしく寝転がって出迎えてくれた。真っ白でふわふわなその姿に、春人の頬が一気に緩む。


「ゴーたん、おかえり」


 ひょいっと、あざらしことゴーたんを両手で高く掲げる。

 久しぶりに見ても、きりっとした短い眉も、黒くてつぶらなまんまるい瞳も可愛らしい。ちょんちょんと描かれた対の三本ヒゲに、きゅーっと今にも鳴き出しそうな口元は、言うまでもなくこの世の可愛らしさを詰め込んだ表情だ。真っ白な曲線を描く綺麗なフォルムはもちろん、尻尾の先まで可愛いとは、まさしくこのゴーたんのことを言うのだろう。



 春人は、このゴーたんが大のお気に入りだ。



 十年前に流行った『ゴーたんといこう!』というアニメの主人公が、このゴーたんというあざらしだった。当時はかなりの大流行で、ゴーたんのグッズが大量に出たくらいだ。年齢男女問わずに人気で、ゲームまで発売した。即座に売り切れたくらいのヒット作である。

 春人が持っているゴーたんのグッズは、この枕くらいのサイズのぬいぐるみのみだ。



 これは、小学生に上がった年に祖母からクリスマスプレゼントとしてもらった、大切な形見である。



 ぬいぐるみもゲームと同じでかなり入手が難しく、春人も店で偶然ちらりと一度見かけたきりだった。

 両親にサンタさんにとねだってみたのだが、その時は二人ともかなり難しい顔をしていた。今振り返ると当たり前だ。春人も一度しか見かけたことが無かったということは、どこの店でもすぐに完売するくらい、目撃することすら難しい品だったということなのだから。

 まだサンタの存在を信じていた頃、サンタでも難しいのかとしょんぼりしてしまった。

 だが、サンタを困らせる悪い子にはなりたくない。

 だから諦めていたのだが、祖母がクリスマスイブの終わった翌日、つまりクリスマスに訪ねてきたのだ。



『サンタさんから、伝言を託されたの。遅くなってごめんねって』



 にっこり笑った祖母の手には、可愛くラッピングされた大きな紙袋があった。

 手渡され、袋を開けた瞬間、中から覗いた可愛い顔に春人は感激して思わず抱き締めてしまったのを覚えている。

 それ以来、ゴーたんは春人にとって特別なものになった。可愛いものは元々両親の影響で好きではあったが、ゴーたんは十年経っても宝物である。


「まあ、可愛いもの似合わないって言われたことあるけど、……」


 別にいいじゃん、と春人は思う。

 春人は見てくれはそれなりに良く、可愛い系ではなくカッコ良い系らしい。両親共に外見が整っているから、遺伝だろう。すっきりした鼻筋とか、色素の薄い髪色が綺麗とか、黒曜石の様な瞳に射抜かれたいとか、色々言われたことはある。中学時代までは剣道をやっていた上に敵がほとんどいなかったので、騒がれていた自覚はあった。

 けれど。



〝カワイイものが好きとか。幻滅〟



「……勝手にイメージ押し付けて、幻滅とか! うっさいわ!」



 ばふん、っと近くのベッドを殴り付けてしまう。その際、ベッドに乗っていたゴーたんがぽよんと跳ねてしまったので、慌ててなだめた。

 人の好みにまで口を出さないで欲しい。ましてや、ゴーたんはその時にはもう既に祖母の形見になっていた。


 ゴーたんだけではなく、祖母まで否定された様でかなりへこんで以来、親友以外にはあまり好きな話をしなくなった。


 学習というやつである。それまでは、割と何でも話していた。

 春人の家族は、漫画も小説もゲームもテレビも面白ければ何でも良いという思考の持ち主で、恋愛もアクションもシリアスもBLも百合も男性向けも女性向けも何でも来いという感じだ。

 故に、学校で家族には内緒とか、BLは嫌だとか、男子が、女子が、とかそういう面倒くさい事情があるクラスメート達の話を聞いて、「うちは天国だな」と思ったものである。



「……。草壁さんは、女子でイケメンなんだよなー……」



 ふと、先程まで話していた彼女のことを思い浮かべた。

 ふわふわ可愛いマスコットの様な彼女は、声も言動もカッコ良くて男女問わずに人気がある。女子なのにと色々周囲に言われることは無かったのだろうか。

 どんな時でも我が道を行きそうな彼女が、少し羨ましい。

 けれど。



「……あいつも、言うのかな」



 男なのに、可愛いものなんて、と。



 想像出来ない様な気もして、むすっとベッドの上に頭を乗せる。横を向くと、相も変わらず愛らしく微笑むゴーたんと目が合った。

 やっぱり可愛い。

 いつか、再びゴーたんの話を親友以外の誰かにする時が来るのだろうか。

 そんな光景も想像出来なくて、春人は何となく心の底に沈んでいく様な思いを味わった。


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