ノアの箱船

朱宮あめ

プロローグ


 しんとした空気の中、何色にも染まらない真っ黒な法服を纏った初老の男性が、よく通る声で告げた。

「――主文、被告を死刑とする」


 その瞬間、傍聴席が一斉にざわつき出す。

「静粛に」

 判決を下した裁判長が牽制の言葉を放つ中、取材陣と見られる傍聴人たちはそそくさと法廷を出ていった。

「死刑……」

 香りかおりは呆然と、傍聴席から裁判長を見上げた。

 一人の人間の人生を終わらせる宣告をしたというのに、裁判長は涼しい面持ちのまま。香りは裁判が終わった後も、しばらくその場に硬直したまま動くことができずにいた。

 

 その後、どうやって家まで帰ったのかは覚えていない。きっといつも通りバスに乗って、電車に乗って、駅から歩いて家に帰ったのだろう。

 香りは暗いままの部屋で一粒の涙も流せないまま、ただ淡々と風呂へ入り、部屋着に着替えた。風呂を出てから一度冷蔵庫を開けたが、中にあるのは酒の缶ばかり。

 結局なにも口にすることなく、香りはベッドへ入った。

 真っ暗な部屋の中で、香りはようやく込み上げてきたものを嗚咽とともに吐き出した。

 一度堰を切ると、涙は留まることなく溢れ出す。

 何度も何度も、法廷での光景が蘇る。

 判決が下った直後、彼はちらりと香りを見た。なんの感情もない虚ろな瞳で香りを一瞥すると、すぐに目を逸らし、そのまま警官に促され、無表情に法廷を出ていった。

 あの瞳が、香りの心をさらに重くした。まるで全てを拒絶するような瞳。

 自分に返ってきたあの瞳は、あの日の香りだ。あの日、自分が彼に向けた拒絶の瞳と同じ――。


 とある事件の判決が下ってから一週間。

 それから毎日、香りは夜になると泣き続けた。夜になると、どうしようもなく涙が勝手に溢れてくるのだ。

 そうして泣き腫らした顔で仕事へ行く日々が何日も続いた。

 ――そしてあるとき、香りは夢を見た。

 見覚えのない真っ白な部屋。均整の取れた真四角の部屋の一部はガラス張りになっているが、向こう側はスモークガラスになっているようでなにも見えない。ただ白い部屋の光がガラスに反射して写っている。

 その中央には不気味な輪の形をしたロープが垂れ下がっていた。そのロープの正面には男が一人、俯きがちに佇んでいる。

 香りはハッとして、彼の名を呼ぶ。

「―― 黒中くろなかさん!」

 ほとんど叫び声のようになっていた。

 香りの叫び声に、白い部屋の中央に佇んでいた男―― 黒中凪砂くろなかなぎさがゆっくりと振り向いた。

 凪砂は手にロープを握っている。

 判決時と同じ虚ろな瞳と視線が絡まり、香りの胸が弾む。

「もしかして、ここは……」

 香りは無意識のうちに、手が白くなるほど強く握り込んでいた。目の前の光景に、嫌な予感がどんどん膨らんでいく。

「執行……室……?」

 凪砂のいるその場所が死刑を執行する部屋なのだと理解した瞬間、香りの全身から汗が吹き出し、急激に喉が乾きを訴える。

「まっ……待って! お願い! 嫌っ! 彼を死刑にしないでっ……!!」

 部屋の中央に立つ凪砂が、泣き叫ぶ香りを見てゆっくりと口を開いた。

「……の……」

「なに……!? なんて言ってるの?」

 どれだけ耳をすませても、凪砂の声は香りには届かない。香りは焦れったさで唇を噛み締めながら凪砂の口元をじっと見る。

「……ら、ぎ……?」

 香りはさらに目を凝らした。

『う・ら・ぎ・り・も・の』

 凪砂の呟いた言葉を理解したその瞬間、眩しいくらいに明るかった部屋の照明が消え、首を吊られた凪砂の残像が脳裏に焼き付いた。

「――っは!」

 香りは勢いよく体を起こす。

 風呂から上がった直後のように、全身がびっしょりと濡れていた。服や髪が体にぴっとりと張り付いていて気持ち悪い。

「はぁっ……はっ……はぁ……」

 香りは、荒い息を整えながら辺りを見回した。

「……夢?」

 香りは視線を動かす。しかし、どこへ視線をやっても真っ暗闇だった。

「な……なに……?」

 自分の部屋のはずなのに、なにかが違う。いつもなら電気をつけなくても、なにがどこにあるかくらいはわかるのに。手元の枕も、ベッド脇に置いてあるはずの目覚まし時計も。手を伸ばしてみても、なにも掴めない。

 目がまだ暗闇に慣れていないのだろうか。

 いや、それだけじゃない。ベッドに座った体制のはずなのに、なんの感触もない。毛布の感触も、なにも。

『――神条香りかみじょうかおり

 突然声が聞こえ、香りは文字通り飛び上がった。

 恐怖のあまり声が出なかった。助けも呼べないまま、香りはガクガクと震えることしかできない。ここは、自分の部屋のはずだ。自分以外には誰もいないはずだ。

「だ……だれ……?」

 ようやく出た震える声で、香りは声の主に聞き返す。

『私はそうだな……。団長とでも名乗ろうか』

 恐怖に震える香りの声とは裏腹に、その声はのんびりとしていた。

 声の主は男のようだが、少しだけ男の声にしては高い気がした。少年のようなまだあどけない声のように思える。

団長だんちょう……?」

『落ち着いてよく聞いて。黒中凪砂は、七日後に死刑が執行されて死ぬ』

「え……」

 団長と名乗ったその声の主が放った言葉に、香りの体中の体温が急激に冷えていく。あの悪夢が脳裏に蘇った。

『黒中凪砂を助けたい?』

 香りは溢れんばかりに目を見開く。たしかに聞こえた。

 真っ暗な空間の中、香りはきょろきょろと声の主を探しながら、

「助ける……? 助けられるの!? 黒中さんを、助けられるの!? あなたは誰? 何者なの? どうしてそんなこと……」

『君が望むなら、その機会を与えよう』

「望む。彼を助けられるなら、なんでもする。私はどうすればいいの?」

 香りが叫ぶ。

『今夜零時、栃木県のとある港から船が出る。その船に乗り込むんだ』

「船? 栃木で? でも、栃木に海なんて……」

『湖がある。日光にっこう中禅寺湖ちゅうぜんじこへ急いで。そこで真実を探し出して』

「真実を……?」

 香りは放心した。

「真実って、どういうこと? ねぇ、教えて。彼はやっぱり無実なの? それならなんで口を閉ざすの?」

 その間にも、団長の気配はどんどん薄くなっていく。

「待って! ねぇ、教えて! お願い! 待って――」

 しかし、団長の声が再び香りの耳に響くことはなかった。


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