神子と裏切り者【1】




「この地図は?」


 テーブルの上に広げられた地図を見て、セフィアはロイに向かって問い掛けた。


「この街に伝わる地図ですよ。一般に知られていない抜け道も多数記されているね」

「抜け道」


 セフィアは、純粋に驚いた。今まで数々の旅を経験してきたが、そんな便利な地図があるなんて思ってもみなかったのである。そのセフィア驚き様を見て、ロイは悪戯が成功した子供のように笑顔をつくり、地図の一画を指差す。


「ここが我々のいる商業都市女神の涙の町。そして、こちらが」

「目的地、《始まりの誓い》という名を冠する村――ですね」

「ああ、そうだ。目聡いね」

「ええ、旅慣れてますから。位置関係でわかります」


 ロイに笑顔で答えて、もう一度地図に目を落とす。

《女神の涙》の町には赤い点が、《始まりの誓い》の村にはオレンジの点が打たれ、その点の隣に古代文字で街の名前が記されている。その他にもいくつも赤とオレンジの点が打たれていて、その点を繋ぐように青い線と緑の線が張り巡らされていた。

 ロイは、《女神の涙》の町と《始まりの誓い》の村の位置を確認させた後、今度はその二点を繋ぐ、青い線と緑の線を一本ずつ指し示した。


「青い線は、一般によく知られる街道です。《女神の涙》の町から北へまっすぐのび

《風の軌跡》の町を経由して《始まりの誓い》の村に向かうのが、一般的なルート。そして、こちらの緑の線が――いわば抜け道、この町の商人が利用する道ですよ」

 その緑の線は、北西にのび、《薄明かり》の町を経由して《始まりの誓い》の村へとのびていた。


「こんな道があったなんて……」


 この道なら、セトの部下の待ち伏せもなく、直線距離的には《風の軌跡》の町を経由するよりずっといい。

「お役に立てましたか?」

「ああ、感謝する、ロイ殿」

 

 湯浴みをしたため、結うことなく下ろされていた髪が、さらりと落ちてくることも構わずセフィアは頭を下げる。ロイは、クスッと笑い、落ち着いた様子セフィアの髪を一房手に取り、そっと口付けを落とした。


「いいえ、美しきホルスの神子様への贈り物が気に入って頂けたのならなによりだ。だが、お礼を言われるのはまだ早いですよ。我々はあなたにもう一つ、贈り物を用意したのですから」


 自分と十ほどしか歳の変わらない、歳若いこの神殿の主には、その仕草はとても似合っていたが、神殿のそれなりの地位に就く者が、セフィアの性別を知らぬはずがない。セフィアは、昼間応戦した人物を思い出し、ぶるっと身震いをして、慌ててそれを結い上げた。


「おや、もったいない」


 ロイがあげたのはおどけた声。本心からそうは思っていないのだろう。

 からかっていただけ……、か。

 本気で安堵したことは胸の内にしまっておくことにする。


「まったく、からかうのは止めていただけませんか、ロイ殿」


 セフィア呆れたように溜め息を吐いたが、ロイは笑うだけで、あまり効果はない。

 だが、本当に不本意ながらも、この男にも苦手なものがあったらしい。


「ロイ、戯れがすぎるぞ。お前の軽率な行動が《女神の涙》の町の品位を下げることになったら、どう責任を取るつもりだ」


 凛。

 そう表するに相応しい。否、そう表する他に表しようもない、生気に溢れ、活力に満ちた、良く通る女性の声が響いた。


「ティファ、来ていたのか……」


 ロイの声に続いて目を向ける。そこには――。

 綿だろうか、肌触りの良さそうなシャツに、刺繍の施されたジャケット――その服装はどう見ても男物なのだが――に身を包み、声からイメージするに相応しい女性が立っていた。

 日に焼けた茶色の髪を邪魔にならない頭の高い位置に結い上げ、手に砂除けのマントを手にしていることから、その出で立ちは旅装といっても過言ではない。

「来ていたのかも、何も、お前が呼びつけたのだろ」

 

 ティファと呼ばれた女性は、ロイの言葉にふんっと鼻を鳴らした。


「私は確かに君たちの商会に協力を申し込んだが、君を遣(よこ)せとは一言も言わなかったと記憶しているが……」

「だが、私を遣(よこ)すなとも言わなかっただろう? あの商会の中でお前と対等に話が出来るのは、私ぐらいだからな。私が態々出向いてきてやったんじゃないか」

 

 ティファの物言いは何とも不遜なものなのだが、ロイ相手にはこのくらい言わない効果はないらしい。

 現に、先ほどまでの笑顔はどこへやら、ロイが浮かべているのはなんというか……、複雑な表情。その表情を言葉で言い表すのは難しいが、強いているなら―――渋顔―――だった。


「まあ、兎も角だ。役者が揃ったことだし、話を続けようではないか、セフィア殿」


 来てしまったものは仕方がない。と、いった感じで、ティファにちらっと視線をやりはしたものの、ロイはセフィアに向き直った。そんなロイの対応に慣れているのか、ティファは気にせずテーブルに歩み寄り、「《女神の涙》商会のティファだ。よろしくな、神子殿」と軽く挨拶をすると、まるでそこが定位置ででもあるかのように戸惑いもせず、テーブルの一辺に腰を下ろした。

 ロイは役者が揃ったといったが、どうやら商人らしきこの女性が話の鍵を握っているらしい。セフィアは黙って二人のやり取りが始まるのを待った。

 だが…………、

 過ぎたのは、無言の時。

ロイの部下が皆に入れていったお茶は、もうすっかり冷めてしまっている。それでも、二人は時々相手の様子を窺うように視線を上げるだけ。顔は始終俯き加減なので、セフィアは痺れを切らし、声をあげそうになった。しかし声をあげようと息を吸ったその時、カチャリと食器がぶつかる音がして、ティファが冷めたお茶に口をつけた。次いで、口を開く―――


「ロイ、黙っている暇があるなら、こんな時間に呼び出した理由を御聞きしたいのだが、な」

「《女神の涙》商会のティファともあろう者が、その理由もおわかりにならないとは……。商会の情報収集能力も高が知れるな」

「ほう、協力を求めてきたのは神殿側だというのに、随分な言い草ではないか。私達はお前達の協力要請を蹴ることも出来るのだぞ」

「ふん、よく言う。そのつもりなら、最初からこの場に現れはしなかったろうに」


 口を開くや否や、始まったのは言葉の応酬。先ほどまでの沈黙が嘘であるかのように、言葉が―――

 跳ねる。跳ねる。跳ねる。

 飛ぶ。飛ぶ。飛ぶ。

 言葉を交わす度、二人の間でぶつかり合う火花が見える。

この二人、犬猿の仲もいいとこだ。

と、セフィアは思った。の、だけれど―――

「まーたやってるよ、あの御二方。しかし、久しぶりに会う度に夫婦喧嘩を始めるくらいなら、寂しかったと素直に口にすればいいのに」

 

 と、控えていた神官がぽろりともらした。

 なんだろう―――この敗北感。

 結局。

 いや、最初からまるっきり、

 夫婦喧嘩は犬も食わない―――だった、とは……。

 けれどもそう認識してしまうと、もう痴話喧嘩にしか見えなくて、セフィアはその喧嘩の終焉をひたすら待つことにした。

 それから数刻、加熱した夫婦喧嘩は一応終焉を迎えたらしい。肩で息をする二人に、先ほどの呟きをもらした神官が慣れた手つきで湯冷ましを渡している。そのカップがペアのものだと気付いたセフィアは砂吐きものである。

 まあ、それは置いとくとして―――その後の話はスムーズに進んだ。一通り喧嘩をしたことで、ロイとティファのやり取りが柔らかくなったことが理由としては大きい。


「では、神子殿をうちの商会の商隊に加えて、《薄明かり》の町までお連れすればよいのだな」

「ああ、出来るだけ早いうちに頼む」

「それなら、今夜にでも商隊が一つ出立するが―――どうする、神子殿」

「今夜……ですか?夜に出歩いて大丈夫なのでしょうか」


 出来れば急ぎたいが、本来日が沈むと共に眠りに就く昼の民が、夜に旅をするなど考えたことがなかった。そのため、セフィアには僅かな戸惑いが生じる。けれど、夜の旅というものは、ティファの言動から判断するに、《女神の涙》商会にとっては、割と一般的なことのようである。


「セトのことを考えているのかな?」


 口を挟むロイ。考え事を見透かされている。

 その言葉に反応して、すかさず、ティファが言葉を補った。


「ああ、セトか……。それなら、大丈夫さ。夜中の移動には必ずこの神殿の神官が一人同行する決まりだ。そう簡単には手出しできないさ」


 ああ、それでか。

 セフィアは妙なところで納得した。

 神官は神職といえど、決して結婚を許されていないわけではない。それでも、独身の者が多いのは、一重に出会いの場が少ないためだ。おそらく、ロイは同行した商隊でティファとであったのだろう。


「それなら―――ああ、でも、急に一人、同行者が増えて大丈夫なんですか」

「それも心配ないさ。今回の商隊の責任者は私だ。文句を言う奴などいない。いや、言わせない!」


 拳を握り締め断言するティファ。なんとも頼もしい。


「では、ご迷惑でしょうが、お言葉に甘えさせて頂くことにします」


 深々と頭を下げ、セフィアの商隊への同行が決定された。




 ガシャンッ!

 と、一際大きな音をたて、荷馬車が止まる。すると、ホロの隙間から光が射し、顔を覗かせたのはティファだった。


「神子殿、起きているか?」

「おはようございます。ちょうど、ついさっき目覚めたところです」


 言いながら、セフィアは掻き揚げたため乱れた髪を手櫛で直し、さっと結い上げる。

 ティファはその手が髪から離れるのを見計らって、茶色の紙袋と水筒を手渡した。


「朝ごはんだ。休憩をとったら、またすぐに出発するが。もう二刻もすれば《薄明かり》の町に到着する。準備を整えておくといい」


 紙袋の中を覗けば、ライ麦パンのサンドイッチとオレンジが一つずつ入っていた。ホロから覗く御者台では、御者の男が同じように紙袋から取り出したサンドイッチに食いついている。働き盛りの成人男性には少なすぎる量らしく、サンドイッチはものの数秒で男の腹へとおさまっていった。

 そんな様子を起き抜けの頭でぼうっと見ていたセフィアの隣で、ティファが苦笑した。


「ははは、ご飯といっても町に着くまでの繋ぎだからね。町に着いたら何か温かいものでも食べるといい。ちょうど、市も立つことだし」


 そう言って自分も綺麗に皮を剥いたオレンジを腹に収める。そして、商隊に指示を出すべく駆けていった。


 セフィア達商隊の一員が《薄明かり》の町に到着したのは、ティファの言葉通り、二刻ほど後のことである。積荷を依頼主に届け、市の露店で朝食をとるという商隊の面々に礼を述べ、セフィアは商隊を離れた。その時ティファが依頼主と次の仕事の商談をしていて、ティファに直接礼を述べられなったことは残念だったが、いずれまた会う機会もあるだろうと思い歩調を速める。が―――、

 どさりっ。

 突然の衝撃。

 それと共に目にしたのは、朝日を思わせる金色の髪を振り乱し、脇道から飛び出してきた少年の姿。

 その少年に行く手を阻まれ、セフィアはよろめいた。

 少年の方は、反動を殺しきれずに地面に倒れこんでいる。文句を言いたいのはやまやまだったが、それより先に少年を助け起こそうと、セフィアは手を差し伸べる。


「大丈夫か?」


 無論、少年はその手を取り、謝罪と礼を述べるものだとばかり思っていた。

 けれど少年は目を瞬かせる。

 ついで―――


「助けて!」


 少年の口をついて出たのは、お礼でも謝罪でもなく、切実に助けを求めるそれだった。

 助け起こすために差し出したはずの手に、縋るように力を込める少年に、セフィアは瞠目し、目を瞬かせた。その間も少年は、セフィアの腕を掴む手に力を込め、助けを求め続けている。


「助けて! 早く! 早くしないと、クロウが!」


 少年の慌てようは只事ではない。

 けれど、気が動転しているのであろう少年は、状況説明も侭ならず、助けて、助けてと連呼するばかりだ。

 どうしたものか―――

 考えを巡らせ、セフィアは今朝受け取った水筒のことを思い出した。


「確か、鞄の中にしまったままだったよな……」


 ぽつり、呟きをもらす。

 そして、腕に少年を貼り付けたまま器用に体を回し、鞄から水筒を取り出すセフィア。

 と、次の瞬間―――

 こともあろうに、腕に縋りつく少年の頭から、その中の水を、ぶっかけた―――。


 


◇◇◇




 冷たい―――

 と、感じてカイははっと我に返る。

 その冷たさの正体を探るように顔に手をやれば、顔からぽたりと水滴が落ちてきた。


「少しは落ち着いたか?」


 目の前にいたのは、水筒を手に持ち、神官のように白い衣装に身を包んだ美しい女性。その姿が、なぜか自分を助けてくれたときのクロウの姿に重なって、カイの目にはぶわっと涙が込み上げてきた。


「悪いっ! 冷たかったよな」

 

 突然涙を零し始めたことに驚愕したのか、目の前の女はおどおどし始めたが、カイは首を横に振ってそれを否定した。そして、ごしごしと薄汚れてしまった服の裾で涙を拭う。

 泣いている暇などない。

 クロウを助けなければならないのだ。

 と、しっかりした意思を持つと、涙でぼやけていた視界の焦点が定まってきて、カイは改めて女性に向き直った。


「あっちで、あっちで俺の連れが黒いマントの奴に襲われて―――でも、俺この町始めてで、どこに助けを求めていいかもわからなくて……。お、お願いです! どうか、助けてください!」


 と、カイは言う。

 一拍。女は何事か考えを巡らせ、


「おい! その黒マントの野郎、狼を模した銀細工の留め具をつけてなかったか!」


 と、カイに詰め寄った。


「えーと……」


 記憶を辿り……。


「たぶん、胸元に……」


 と、呟くカイ。その呟きを聞き、女の表情が豹変した。


「どこだ! 案内しろ!」

「え?」


 女にしては口調が荒々しいことも気に掛けず、カイは疑問符を口にする。

 確かに、助けは求めた。けれど、それは、精悍な男達の助けを連れてきてもらおうと思ったからだ。 だが、どうだろう。

 これではまるでこの女が、クロウを助け出す気でいるようにしか聞こえない。小柄で、細身なこの女が、クロウが苦戦を強いられている黒マントを倒せるようにはとても見えなかった。

 そのカイの考えが予想出来たのか、女は不機嫌そうに眉間に皺を寄せ、言い放った――


「俺が助けてやる!だから、案内しろ、って言ってんだよ!」





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