第8話 ビールと年の差恋愛|2015年5月

「とりあえずビール。果穂さんは?」


 佐々木にたずねられて、果穂はわたしも、と答える。店員のお兄さんが威勢のよい声でかしこまりましたと返事をしてバタバタと去っていく。

 メニューを開いて眺めてみるが、何を頼んでいいのか目移りして全然決められない。あっという間にビールを持ってきた店員にお決まりですか? ときかれて果穂はあせった。


「俺、決めていいですか?」


 メニューを渡すと、佐々木がてきぱきと注文をしてくれた。

 これでいい? ときかれて、果穂は三回うなずいた。ばっちりだった。栄養バランスも文句なし。


「果穂さん、こういうとこ、あまり来たことないでしょう?」


「うん、ない」


 果穂は正直に答えた。ここは、価格が安く、学生や若いサラリーマンが多い居酒屋だった。十人くらいの集団が手を打ち鳴らしていたり、合コンと思われる男女のグループがきゃあきゃあと華やかな声で笑っていたり、店員のよく響く声が右からも左からも飛んできたりして、とにかくめまぐるしい。狂乱という語がよく似合う。果穂たちが座っているのは、足元が掘りごたつになった小さな個室だったが、すだれで区切られているだけなので周囲の声は筒抜けだった。


「いつもはもっと落ち着いた店で、年上の恋人に全部お任せでデートをしてるんでしょう?」


 果穂は顔色を変えて佐々木を見た。


「誰に聞いたの?」


「誰も聞く人なんていないけど」


「あ、そうだよね」


 果穂は笑ってごまかした。誰かに聞けるはずはない。だって、誰にも話したことがないのだから。


——何で分かったんだろ。


 果穂はこっそりため息をついた。一年前に終わった恋なのに、今もなお、甲本隆の影は、二十歳の男の子に見破られてしまうほど分かりやすく自分を覆っているのだろうか。

 店員が付き出しの枝豆を持ってきて、果穂は我に返った。今は、年上の恋人のことを思い出して落ち込んでいる場合ではない。


「そうそう、聞いてもらいたいことって何?」


 と、果穂はさっそく切り出した。


 果穂が佐々木と知り合って、ちょうど一年になる。きっかけは、リフレクソロジーのお客さんとして来てくれている甲本結季から彼氏として紹介されたことだ。以来、何となく連絡を取り続けている。去年の秋には合コンの幹事も一緒にやった。結季から恋の悩み相談を受けていた果穂としては、佐々木が振られたことに対して共犯者のような後ろめたさがあり、彼が早く新しい恋をして失恋の傷が癒されることを心から願っていた。


「気が早いなあ。まだ料理ひとつも来てないよ」


 と、佐々木は言った。


「だって、気になるよ」


 今回の、佐々木の用件は、結季とよりを戻すための相談だろう、と果穂は考えていた。結季は佐々木を振って新しい彼氏を作ったが、その彼氏とも別れてまた別の彼氏を作り、その男とも別れて今はフリーのはずだった。それをどこかで聞きつけたのだろう。


「そう? じゃあ言うけど」


 佐々木はビールのジョッキをテーブルに置くと、背筋を伸ばし、改まった様子で果穂を見た。


「果穂さん、好きです。僕とつきあってください」


「え? わたし?」


 変な声が出た。


「そう。果穂さんです」


 果穂はしばらく黙っていた。佐々木が、なんてね、と撤回するのではないかと思ったのだ。だが、いくら待っても佐々木は笑わなかった。真剣な顔のままだった。隣のテーブルがわーっと盛り上がった。前後の文脈はさっぱり分からないが、「キス!キス!」とはやし立てる声だけが届いてくる。果穂と佐々木のテーブルも変なムードになった。とにかく何か言わねばならぬ、と、果穂は決意した。


「まさか、こんなところで告白されるとは思ってなかった」


「こんなところを指定したのは果穂さんでしょう? 俺はもっとちゃんとムードのあるお店を提案したのに」


 ふくれた佐々木を見ながら、だって、君、学生さんだから、と果穂は心の中でつぶやいた。もしそれを言ったら、バイトで稼いでるとか何とか言うに違いないが、バイトで稼げるお金なんてたかが知れている。果穂だってかつては学生だったのだから、背伸びをしたい気持ちも分かる。でも無理はよくない。


「で、返事は?」


 妙なことになってしまった。果穂は途方に暮れて佐々木を眺めた。目の前に座っているのは、赤ちゃんのときから知っている甥っ子「ゆきちゃん」と同じ年の男の子だ。たとえ真面目に告白されても、やっぱり「男の子」にしか見えない。


「あとにしよう。ほら、まだ、頼んだ料理も全然来てないし、気まずくなったら困るから」


 とりなしたつもりだったが、佐々木の責めるような視線にぶつかった。果穂は、あ、と叫んで口をふさいだ。


「ふうん。気まずくなるんだ」


 果穂は目を泳がせた。


「だってほら、わたし、佐々木君は知らなかったかもしれないけど、実はもう三十歳なんだよ」


「知ってる。関係ないよ、年の差とか」


「年の差はまだしも」


 と、果穂は口を挟んだ。果穂とかつての恋人の甲本隆もちょうど十歳違いで、果穂と佐々木の年の差と同じだった。だから、年の差が関係ないことは知っている。


「二十歳じゃあ、さすがにね……」


「二十歳の男は頼りない?」


「頼りないっていうか……」


 果穂は言葉を選ばないことにした。


「二十歳のときって、相手は誰でもいいんだよ。近くにちょうどいい異性がいたら、誰でもいいの。片っ端から恋しちゃうの。そういう年頃」


「だから、俺が告白しても信頼できないってこと?」


「そう。わたしなんかじゃなくて、ほかにもっと若くてちょうどいい人がいるって」


「うーん、俺は果穂さんがいいんだけどなあ。どうしたら信じてくれるんだろ」


 佐々木は考えこんだ。さあ次はどう出るか……。果穂は、もくもくと枝豆を食べながら佐々木の次の一手を神妙に待った。


「二十歳は圏外?」


「うん。そうだね」


「何歳ならいいの?」


「二十六歳くらい?」


 適当に答えた。


「あ、よかった。じゃあ、俺、セーフ」


 佐々木はポケットから財布を取り出すと、そこから免許証を引き抜いて見せた。


「先月、二十七歳になったとこ」


 そこには生真面目な顔をした佐々木の顔写真と、二十七歳であることを示す生年月日が記載されていた。


「なんで?」


「なんでって、一九八八年に生まれたから」


「そうじゃなくて。だって、幸彦くんや結季ちゃんと同級生って……」


「別に嘘ついていたわけじゃないよ。わざわざ言ってないだけで、聞かれたら言おうと思ってたけど、今まで一度も聞かれなかったから。ほら、これ、俺」


 差し出されたスマートフォンをのぞきこむと、そこに白衣を着た佐々木が立っていた。白衣と言っても、医者が着るような前開きのものではない。コック服に近い、体の横にボタンがついた詰襟タイプのものだった。


「大学入る前、看護師してた」


 果穂は言葉を失ったまま、白衣の佐々木と目の前の佐々木を見比べた。確かに同一人物だ。


「子どものときからずっと人を癒す仕事がしたいって思ってて、高校出たら迷わず看護の専門学校に行ったんだ。無事、看護師になれて、病院に勤務することができたのに、いろいろあって三年で辞めた。で、大学を受け直した。今は、大学を出て、どこか適当な会社に入って、給料をもらって、自分のことだけ考えて暮らしたいと思ってる」


 佐々木が果穂を見て笑った。


「果穂さんと逆だね」


 そのとき、お盆いっぱいに料理を並べた店員がやってきた。


「豆腐サラダと、お刺身の盛り合わせと、田楽と鶏肉のねぎ味噌炒めをお持ちしました。焼き鳥ももうすぐできあがります」


 テーブルが途端ににぎやかになった。


「あの、いろいろって……?」


「まあ、その話はまた今度。今日は果穂さんの圏内に入ってることが分かったから、それでよし」


 佐々木はビールを飲み干すと店員にお代わりを頼み、食べよっか、と、晴れ晴れとした顔で言った。

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