第5話 パフェと恋|2014年5月

 インターネット上の合格発表のページに自分の受験番号を見つけたとき、幸彦は嬉しいと思うよりほっとした。来年はもう浪人をしなくていい、ということに安堵したのだ。大学生になれて嬉しいという気持ちは、そのうち湧いてくるのだろうと思っていた。が、入学式を終えて一カ月が経過した今でも、そういう気持ちは湧いてくる気配がない。一人暮らしを始めるのなら、毎日が大冒険だろう。新しい土地の道を覚え、自分で部屋のインテリアを考え、スーパーで買い物をして慣れない料理をし、やらなくてはならないことは山ほどある。しかし、自宅から通う幸彦にはそういう目新しいイベントはひとつも起こらない。変わったことといえば、通う場所が予備校から大学になって、いつもと違う電車に乗っているというくらいだ。


 浪人時代に考えていた「合格したらやりたいこと」は、合格発表から入学式までの一か月の間にし尽くした。入りたいサークルもないし、学生の本分である勉強をがんばろうにも、授業が始まったと思ったらすぐにゴールデンウィークが来た。そして、もっともまずいことには、多くの新入生たちが一生懸命になっている一大イベントに、幸彦は決定的に乗り遅れているのである。新入生の一大イベント、それは恋だ。気がつけば、色恋沙汰を乗せた電車は出発してしまったあとで、幸彦はぽつんとホームにひとり取り残されていた。


 原因は分かっていた。幸彦は薄いコーヒーをすすりながら、食堂の安いパフェをおいしそうに食べている甲本さんを眺めた。


 同じ予備校で浪人生をしていた甲本さんが、幸彦と同じ大学の同じ学部に入学したのは、予想もしていなかった出来事だった。甲本さんの第一志望は、彼氏(かつ幸彦の友人でもある)佐々木と同じ大学だったが、甲本さんだけが落ちて第二志望の大学に入ることになった。甲本さんの第二志望は幸彦の第一志望と同じだったのだ。


 ばらばらになってしまったとはいえ、佐々木の通う大学も同じ都内だったので、特にそこにドラマは生まれなかった。佐々木の感想は、「便利だな」だった。幸彦と甲本さんといっぺんに会えるかららしい。甲本さんの感想は、「ちょうどいいかも」だった。冷静になってよくよく考えてみれば、大学が違う方が、彼氏彼女としてわざわざ会うありがたみがあるからだそうだ。


 幸彦の感想は誰も聞いてくれなかった。甲本さんと一緒にいるのは楽しいし、可愛い女友達がいるというのも、なかなか得難いポジションだ。でもそのおかげで、新しい出会いは近寄って来ない。いつもふたりでいるので、つきあっていると勘違いしている人もいる。かといって、甲本さんをひとりにすると、誰とも打ち解けず、堅い顔したままひとりで黙っているので、何だか放っておけないのだ。


「恋ってもっとすごいものなのかと思ってた。頭がそのことでいっぱいになって、何もかも犠牲にしてもいいって思うような」


 なんでこんな話題になったんだっけ、と思いながら、幸彦は甲本さんの顔を眺めた。上唇の端に生クリームがついているが、甲本さんは結構真面目な顔をしていた。


「なんで?」


 とりあえず、シンプルに聞いてみた。恋の何たるかについて幸彦が語れることはほぼ皆無だ。それに、幸彦は甲本さんの家庭の少々複雑な事情を知っており、幸彦が知っていることを甲本さんは知らない。下手なことを言って藪蛇にしたくはない。甲本さんが言いたいのは、昨日見たドラマの話とか、そういうことなのかもしれない。


「昔ね、お父さんが職場の若い女性と不倫してて、あやうく家族を捨てるとこだったから」


 甲本さんの直球の答えに、幸彦は顔をひきつらせた。つついていない藪から蛇が飛び出してきた。


「お父さんもお父さんだけど、相手の女の人もどうかしてるって思った。その人、わたし、見たことがあるんだけど、お父さんと全然釣り合わない若くてきれいな人だったんだよね。それなのにあんなおじさんと恋愛するなんて、頭がどうかしちゃったんじゃないかって思った。だから、恋したら頭がどうかしちゃうのかなと思って」


 確かに『相手の女の人』からその話を聞かされたとき、頭がどうかしちゃったのかと、幸彦も思った。甲本さんの言う『職場の若い女性』とは幸彦の叔母であり、東大出の秀才、果穂のことなのだ。そこまで考えて、幸彦は、自分がこの話を今初めて聞いた設定であることに気がついた。


「え、お父さん、不倫してたんだ」


 ワンテンポもツーテンポも遅れて、幸彦は驚いた声をあげた。そして言ったあとに、あまりのしらじらしさに赤面した。不倫、という言葉も初めて発音した。だが、甲本さんは自分が話すのに一生懸命で、幸彦の反応は気にしていない。


「彼氏ができたら、お父さんや、その人の気持ちも分かるかなって思ったんだけど、ますます分からなくなった」


 あいまいに幸彦はうなずく。幸彦が観察している限り、佐々木はともかく、甲本さんは恋に浮かれて頭がおかしくなっている様子はまったく見られない。


「もしかして、わたし、恋してないのかな」


 幸彦はさらに顔をひきつらせた。


「佐々木が聞いたら泣く」


「だよねえ」


 甲本さんは他人事みたいに笑った。女は怖い、と幸彦は思った。


 その日、家に帰るとめずらしく果穂が家にあがりこんでいた。親戚なのだから家に来ていても不自然ではないが、姉妹である母と果穂の間にはなんだか微妙な距離があり、居心地が悪いのか、果穂は用事がすんだらすぐに帰りたがる。でも今日はくつろいでいる。幸彦の母親も上機嫌だ。


「どうしたの?」


 と、幸彦は母親の方に聞いた。


「果穂のお店に行ってきたの。マッサージ、よかった。感動しちゃった。なんか体が生き返ったみたい」


「マッサージじゃなくて、リフレクソロジー」


 果穂が訂正した。


「あんまり感動したから、今日は腕を振るって御馳走しちゃおうと思って、夕食に招待したの」


 果穂はソファーに寝転がって、見るともなしにテレビを眺めている。幸彦がソファーを見下ろすと、果穂は、よ、と片手を挙げておじさんみたいな挨拶をした。どうも、と幸彦は頭を下げる。今までさんざん果穂にひっぱりまわされていたくせに、自分の家で会うと、どう接していいのか分からない。この家の中では果穂は叔母だ。叔母としての果穂には慣れていない。


「大学どう?」


 果穂が言った。幸彦は母親がキッチンにいるのを確認してから、小さい声で、


「正直、大学に何しに入ったのか分からなくなった」


 と、言った。


「そんなもの、終わってから分かるんじゃない?」


 適当なことを言っている、と思いながら、幸彦は果穂を横目で見る。じゃあ、「不倫の恋」も、終わった今は、何かが分かったのだろうか。会社をやめてリフレクソロジストになった理由も分からないと言っていたけれど、それもいつか、終わったときに分かるのだろうか。とんでもない、と幸彦は首を振った。終わってから分かるなんて、遅すぎる。分からないまま進むから不安なのだ。


 起き上がった果穂が振り返って幸彦を見た。髪がくしゃくしゃになっている。この色気のない人が、甲本さんの父親と、何もかも犠牲にしたくなるような恋とやらをやったのだろうか。


「失恋の意味も?」


 と、幸彦はたずねてみた。


「それはまだ分からないかな」


 と、果穂は言った。


「ゆきちゃん、甲本さんと仲いいんだね」


 不意打ちをくらって、幸彦はひっとしゃっくりのような声をあげた。果穂はにこりと笑うと、立ち上がって母親のところに行ってしまった。


 なぜ知っているのだろう。甲本さんの父親が果穂に話したのだろうか。だとしたら、まだふたりは終わってないのだろうか。それとも清い交際というやつだろうか。幸彦はひとりで悶々と考えてみたが、どこにもたどり着けなかった。幸彦の頭の中にある、恋愛のパターンはテレビドラマで見たような話か、芸能人のゴシップ記事しかなく、そういうものに果穂をあてはめると、観光地にある顔のとこだけくり抜かれた記念撮影用パネルのような、ちぐはぐな味わいになってしまう。真面目に考えられるわけがなかった。


 その日の食卓は料理も会話もにぎやかだった。果穂のリフレクソロジストとしての腕に対抗するかのように、母は主婦としての技を見せつけていた。果穂はおいしいおいしいと大げさなくらい喜んで、ときどきレシピを聞いたりしていた。母親は目尻を下げて、作り甲斐がある、と何度もつぶやいていた。屈託なく笑っている母を見て、自分が大学に合格した時と同じ顔だと幸彦は思った。分からないことが続く不安が、母には耐え難いのだ。果穂の腕を認め、ちゃんとお店をやっていることを知って安心したのだろう。


「会社辞めたときはどうなるかと思ったけど」


 母親が言った。


「あとは結婚相手を見つけるだけね」


 幸彦は思わず果穂の顔を見た。果穂はにこにこ笑って、


「そうね、いい人いないかな」


 と、すまして言った。

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