第3話 お弁当とリフレクソロジー|2013年9月

 ようやく日常が戻ってきた、と思いながら幸彦は予備校の教室の中を見回した。昼時は休憩室として解放されているこの部屋の中は、九月も半ばを過ぎたというのに、クーラーが効きすぎるほど効いている。食べ物のにおいが混じり合い、ときどき笑い声も聞こえるが、ほとんどの受講生はひとりで飯を食べている。佐々木はカップラーメンをすすり、甲本さんはシュークリームにかぶりついている。十浪中の通称「地縛霊」は、窓際で菓子パンを食べている。


「今日も愛ママ弁当か」


 佐々木のからかいに、幸彦は仏頂面で応じた。仏頂面なのは、からかわれて恥ずかしいという子供じみた感情からではない。この弁当が最近の幸彦の憂鬱のもとだからだ。朝早く起き、栄養を考えてせっせと作ってくれるのは確かに有難い。だが、「全力で幸彦をサポートするために、お母さんパートやめたから」と言われたときにはめまいがした。ただでさえ、重たかった母のプレッシャーがさらに重みを増してしまった。予備校にいる間も、弁当を通して監視されているような気持ちになる。じゃこ入りの卵焼きを頬張りながら、幸彦は甲本さんをちらりと見た。コンビニに昼食を買いに行かなくなると、甲本さんとの会話もなくなった。一日に一回、佐々木と馬鹿話をしながらコンビニまでぶらぶら歩いていくのは、気分転換になっていたのだ。だからといって、弁当はいらないと言う勇気はなかった。あなたのためにこんなに一生懸命やっているのだと、泣かれかねない。だから幸彦は弁当を見るとため息が出る。気にするな、と自分に言い聞かせる。合格しさえすれば、すべて解決するのだから。


 朝起きて家で暗記科目をし、予備校に行って自習室を確保して勉強し、講習を夕方まで受けて、また少し自習して帰る。それが幸彦の日常だ。でも夏の間は、その日常が乱された。遠くの県の大学に入学したやつらが、夏休みになって帰ってきたからだ。

 幸彦が浪人しているのを知らないで呼び出すやつもいたが、知っていて呼び出すやつもいた。別に嫌がらせなんかではない。友達なんだから呼ばないほうが水臭いと、よく分からない気を使っているのだ。呼び出される幸彦のほうも、放っておいてほしいのか、無視されたくないのか、よく分からなかった。当然母親は、友人と出かける幸彦にいい顔をしなかった。やることやってるから大丈夫、と言って家を出てきたものの、本当はそう言い切れるほどにやることをやっている自信もないので、遊んでいてもいまいち楽しくなかった。あまり興味の持てない大学の話を聞きながら、帰って勉強した方がいいんじゃないかと落ち着かなかった。



——しかし、いいよな、幸彦は。浪人させてもらえて。


 そう言ったのは志望校のランクを落として現役合格した竹本だった。


——俺の親なんか、浪人は絶対許してくれなかったもんな。一年、二年浪人したって、いい大学に入れば就職にも有利だし、取り戻せるって説得しても、まったく聞く耳持たないし。


 確かに、浪人するにはお金もかかる。親の理解も必要だ。今の自分の境遇は恵まれているのだと思う。だけど、いいよなと言われると反発したくなる。うまく言えないけれど、何かがひっかかる。


——一年、二年で済めばいいけどな。


 幸彦は地縛霊の後姿を思い浮かべながら自嘲気味に笑ってみせたが、違和感は強まるばかりだった。



「今日どうする?」


 と、佐々木が言った。今日は午後の講習がない。そして、誰が考えたのか知らないが、浪人同士の交流会というものが催されるらしい。うんざりだった。夏休みの間、さんざん呼び出しにつきあわされたのだから、そろそろ集中させて欲しい。


「自習する」


 と、幸彦は答えた。


「俺は行こうかな。甲本さんも来るみたいだし」


 と、佐々木は言った。幸彦は動揺を悟られないように、携帯電話に目を落とし、ちょっと行きたいかも、と思った自分を制する。何のための浪人だ。そういう楽しいことは志望校に合格してからいくらでもやればいいじゃないか。


 そのとき、メールの着信音が鳴った。叔母の果穂からだった。


『ゆきちゃん、今日時間ある? ちょっと足貸して』


 いつも唐突に登場しては幸彦をかき回して去っていくこの叔母の行動には慣れたつもりだったけれど、今日のは新たなパターンだった。


『顔じゃなくて?』


 そういえば、どうして、用事があるときには「顔貸して」と言うのだろうと思っていると、すぐに返事が来た。


『足だけでいいよ。リフレクソロジーの勉強を始めたから、実験台になってもらおうと思って』


 数時間後、幸彦は果穂の部屋で脚の高いベッドにあおむけに寝転がり、天井を見つめていた。足だけでいいと言われても足だけ貸すわけにはいかないから、体ごとやってきたのだ。果穂の説明によると、リフレクなんとかとは、足のマッサージのことだった。ただのマッサージじゃなくて足の裏のハンシャクを刺激して内臓を活性化し……という説明のほとんどはよく分からなかったが、足が必要ということの意味だけは分かった。


 連れてこられて、果穂の着古した膝丈の短パンに着替えさせられて、見慣れない専用のベッドに寝転がって、幸彦は初めて自分が何をしているのか、実感がわいた。じゃあ、行くよ、と足を触られ、慌てて足を引っこめる。


「ごめん。足汚いから洗ってくる。シャワー貸して」


 果穂のバスルームで足を洗いながら、変な事になった、と幸彦は考える。果穂は大まじめだ。本当に足しか目に入ってないんじゃないかと思う。もう一度寝転がってみたものの、果穂に触られる前によけてしまった。むずがゆい。だいたい、足を人に触られる機会などそうそうない。それも女の人になど。


「ちょっと真面目にやってよ」


 果穂は、ふくれて幸彦をにらんでいる。馬鹿言え、真面目にこんなことできるかよ、と幸彦は心の中で反論する。母親よりも十歳若い果穂は、幸彦にとって叔母というより姉に近い存在だった。でも姉ならこんなに照れたりはしない。果穂からしたら、俺は子供にしか見えないのだろうけど、と幸彦はこっそりため息をつく。

 えいっという声が聞こえて、次の瞬間、激痛が走った。


「いってえ」


 思わず大声で叫んで、幸彦は足をひっこめようとした。しかし、足はしっかりと果穂の手ににぎられていて逃げられない。


「今のは素直になるツボ」


「嘘をつけ。そんなものあるわけないだろ。真面目にやれよ」


 言ったあとに、そのセリフがさっき果穂から言われたものと同じだと気がついた。果穂がにこにこしながら幸彦を見ている。


「分かったよ。真面目にやります」


 よろしい、と果穂がうなずいた。幸彦は観念して足を差し出す。果穂の温かい手が足の裏にぴたりとあてられる。オイルを使っているのか、するすると心地よく手がすべっていく。足の裏なんか触られたらくすぐったいと思って構えていたのに、少しもくすぐったくなかった。痛くもない。こわばりがほぐされていく。足だけじゃなく、体の中からぽかぽか温かくなっていく。

 ほどよい力だった。見ると果穂は指だけじゃなく腕を伸ばして体重を移動させながら、体全体で幸彦の足に向かっていた。手が足の上を動いていく。手というのはこんなにも表情豊かなのかと驚く。果穂の顔をそっと盗み見る。おだやかな顔だった。いったい何を考えているのだろう。覚えた手順を頭の中で繰り返しているのだろうか。

 毎日酷使しているというのに、日頃は足を意識することなく生活している。足だけじゃない。腹も背中も腕もだ。入試問題を繰り返し解く日々の中で、最近の自分は指と脳と目だけの生き物になっている。

 ふと気がつくと、森林の中にいるような、澄んだ香りが部屋にただよっていた。そういえば音楽も鳴っている。五感が取り戻されていく。果穂の指によって起こされた内臓が、ほかほかとあたたまっていく。


「すごい」


 と、幸彦はつぶやいた。


「なかなかいいでしょう?」


 と、果穂は笑った。幸彦が、すごいと言ったのは、初めて受けたリフレクなんとかの効果についてだけではなく、複雑そうなそれをなめらかにやっている果穂のことでもあった。かなり練習したのだろうか。


「なんで」


 幸彦の口から疑問がこぼれでた。なんで会社をやめたのか、なんでこれを始めたのか、ききたかった。でも、幸彦は続きを言わずに口を閉じた。おしゃべりをしているのがもったいない気がした。


「なんでなのかな。まだ分からないの」


 果穂の声がやわらかく降ってくる。


「これからもいろんな人にきかれるんだろうな。でも、やっぱり分からないって答えると思う。続けていけば見つかるのかな」


 足の裏を心地よい刺激で押されていく。気持ちよくてまどろんでくる。ぼんやりした頭で、分からないなんて言ったら相手を怒らせそうだなと幸彦は考えた。でも、他の人にどう思われようと、果穂ならちゃんと分からないと言えるのだろう。そんな果穂が幸彦にはまぶしかった。


「いいな。果穂は自由で」


 言ったあとに、後悔した。自分が言われて嫌なセリフを果穂に言ってしまったからだ。自分が言われたときに感じた、説明できないもやもやした気持ちを思い出して、幸彦は、ああ、とつぶやいた。どうしてもやもやしたのかが少し分かった気がした。いいなあ、なんて口にするやつは本当にうらやましいなんて思っていないのだ。そういう道もあるんだろうけど大変そうだから自分は進まないよ、と言っているのだ。


「ゆきちゃんさ」


 と果穂が言った。幸彦は身構えた。甘えたことを言っているという自覚があったから、何か手厳しい言葉が飛んでくるのだろうと思った。ふいに温かな感覚に包まれた。体の力が抜けていく。果穂の手が足の裏をぴったりと包んでいた。


「どうした? 何かあった?」


 優しい声だった。別に何も、と跳ね返すように答えてから、幸彦は口をつぐむ。

 俺、何かあったのだろうか?

 胸の真ん中に空洞のようなものがあって息苦しかった。そういえばこの感覚はずっと続いていた。落ち着かない。何をしていても、これが気になっている。


「最近さ、何か落ち着かないんだよね。体の中心に穴があって、吸いこまれてしまうような感じ。痛いとか苦しいとかじゃないんだけど」


 うまく説明できない。こんな訳の分からないことを言っても、果穂を困らせるだけだろうなと幸彦は思った。リクレクなんとかは別に魔法でもなんでもない。本人もよく分からないものをハイ治りましたって治せるわけじゃない。


「ゆきちゃん、それはね、さみしいという感情だよ」


 幸彦は驚いて果穂を見つめる。果穂は幸彦の足に話しかけるように、優しく微笑んでいる。何も言えなくなって、幸彦は目をつむった。体の力を抜いて身を任せていると、頭の中の余計な思考も消えていった。


 左足を終え、右足に移る。やがて、左足を終えたときと同じ工程にさしかかる。ああもう終わってしまう、と幸彦は思った。残念なようなほっとしたような気持ちだった。


「はい、終わり。どうだった?」


「よかった。頭もすっきりした。勉強に集中できそう」


 と、幸彦は言った。さみしさにも効くみたい、と言ってみようかと思ったけれど、恥ずかしかったからやめた。


「そう、それはよかった」


 果穂の額に汗が浮いていた。その汗を見ながら、もう一度「なんで」ときいてみたかった。果穂の声でもう一度「分からない」という言葉をきいてみたいと思った。

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