【リメイク版】八曜の旗印 加賀守護三男転生記

縞杜コウ/嶋森航

加賀平定

プロローグ

 よもや擾乱の戦国時代に身を投じることになるとは、夢にも思わなかった。しかし目の前に広がる光景は、残酷にも現実を突きつけてくる。これが御家安泰の名家ならばよかった。だが転生先は、領国を追われ没落した加賀守護・冨樫家であった。息子を養えない程に困窮していたという、あの冨樫家である。誰もが否定し得ない名家なのは不幸中の幸いと言うべきか、しかしこの体たらくを見て守護と崇める者は、もはやこの世には居ないと思った。


 落ち延びた先である越前国・金津城の一室には冨樫家主従数十名が居並んでいる。これが現時点の冨樫家に付き従う家臣の総員である。笑えないほどに力がない。権威すらもとうに寂れてしまった。


 ごく普通の人間に過ぎなかった俺こと野網脩志のあみしゅうじは、何の因果か三ヶ月前にその三男・冨樫靖十郎嗣延とがしせいじゅうろうつぐのぶに憑依した。冨樫家についてある程度の知識は持っていたが、三男がいたという記憶はない。名前も兄二人が父の偏諱を授かっているのに対し、俺は授かっていない。自身の記憶を辿ると、庶子ということだった。


 庶子で三男となれば、家督を相続する権限を持たない。それゆえに、歴史の表に出なかったのかもしれない。


 転生してから周囲の状況を見定めていたものの、守護復権を狙う冨樫家にとって、現状が絶望的な状況であることは疑いようもない。しかし一方で、俺はそれが一気に覆るような事件が起こることを知っていた。だからこそ悲観はあまりしていなかった。そして今、俺はその歴史の分岐点の観測者となろうとしていた。


「加賀介様、大聖寺城の下間筑前、備中が」


 諜報のため加賀に潜伏していた素破の一人が、興奮を隠せぬ様子で僅かに弾んだ声を響かせる。咳き込んでその先が曖昧に流された。普段は冷静さを欠片も崩さない男の変わりように、家臣は目を瞬かせている。一刻も早く報せを届けんと一晩で越前まで駆けてきたのだろう。


「焦る必要はない。落ち着いて話してみよ」


 父・冨樫加賀介稙泰たねやすが目の前で跪く素破一党の首領・植田順蔵綱蕃つなしげに事の仔細を尋ねる。


「はっ。ご存知かとは存じまするが、山科本願寺が敗れ申した」

「うむ。痛快な思いよ。坊主の身で分を弁えず図に乗った報いよの」


 父は痛快だと噛み締めるように反芻する。つい最近、山科本願寺が三好筑前守元長の仇討ちという名目で蜂起した法華一揆の一派によって、社坊ひとつ残さず灰燼と化すという大事件が勃発した。


 冨樫家は一向一揆に幾度となく煮え湯を飲まされてきた。その最たるものが、昨年、即ち享禄四年(一五三一年)に起こった本願寺の内紛である。大小一揆と呼ばれるこの内紛は、加賀だけでなく能登や越前をも巻き込み、泥沼の戦況となった。


「山科本願寺の敗北により証如は大坂へと走り申した。その敗報を受け、一向一揆を率いる下間一党は大坂に向かったようにございまする」

「間違いないのか?」

「はっ、真にございます」


 高揚を押さえつけているからか、震えの帯びた野太い声が筆頭家老・山川源次郎秀稙ひでたねの口から放たれる。


 越前金津城の一室は、静かな喜びでようやく満ちた。歓声が聞こえるほど大きいものではない。微かな希望が見えた。越前の溝江家を頼ってから、居候暮らしにずっと後ろめたさを感じていた皆々にとって、現状を打破しうる光明は、蜘蛛の糸を掴むような心境だったはずだ。食い扶持も一族郎党数十名となれば馬鹿にはならない。


 加賀は冨樫家から実権を簒奪し一向一揆が主導する特異な政治体制を築いていた。そして加賀の統治は賀州三ヶ寺と称された本泉寺、松岡寺、光教寺の合議によって運営されていた。しかし、本願寺の実質的な最高権力者である蓮淳の意向を受けて、北陸全土に門徒を抱えていた越前の本覚寺・超勝寺が加賀での専横を狙う。本願寺は急速な拡大政策で宗派、寺院同士の軋轢を考慮せず、逆撫でするような立ち回りを続けたのだ。


 この不義に対し、賀州三ヶ寺は不満を露にして討伐の兵を挙げた。だが超勝寺がこれを山科本願寺に報告したところ、『蓮淳の意向に背いた』として、逆に賀州三ヶ寺が反逆者として討伐の令が下されることとなる。賀州三ヶ寺には越前の朝倉や能登の畠山が助力したものの及ばず大敗を喫した。冨樫家は賀州三ヶ寺側に味方していたため、加賀を追われたという経緯があったのである。


「次郎、加賀に赴くのだ。下間一党が不在の今、天は領国を奪還する好機をお与えになった」


 次郎と呼ばれた嫡男・泰俊は、あからさまに顔を強張らせる。そして落ち着きのない様子で尋ねた。


「父上は如何なされるのですか」

「儂は残る」

「なりませぬ。加賀は守護たる父上なくして統治できませぬ」

「次期当主のお前が左様な弱腰で如何する。儂が戻っては国人も民も反発し、統制は出来ぬであろう」


 泰俊は物腰こそ柔らかいが、やや覇気に欠ける。この乱世において、名門冨樫家に再び陽の目を照らし得る器には到底及ばないというのが、家中での評価であった。一方の次男の泰縄は後に足利義晴から偏諱を授かるほど、聡明で覚えがいい。そこには図太さもあり、どちらが次期当主に相応しいかと聞かれれば、満場一致で泰縄が挙がるだろう。とは言え、嫡男である泰俊を押し退けて加賀を差配させるほど、今はまだ抜きん出てはいなかった。


「次郎、民と向き合うのだ。一向一揆が増長したのは、儂が民を蔑ろにした故の当然の報い。それを努々忘れるでないぞ」


 父は若き頃、未熟さから戦費が嵩む代償として重税を民に押し付け、民心が離れたのを察する事が出来なかった。そのせいで民は宗教に身を委ねることなり、それが他の宗派ならまだしも、運の悪いことに一向宗であった。


 そんな父が民の恨みも冷めぬまま再び統治すれば、要らぬ反感を買う恐れがある。そういう懸念があったのだろう。父は金津に留まることを選択した。


「……承知致しました」


 渋々といった表情で泰俊は了承する。史実通りならば、冨樫家が再び加賀で権力を取り戻すのは叶わない。そして覇道を歩む織田信長の陰で一向一揆に攻められ、滅亡に追い込まれるのだ。だが、俺はどうしても冨樫家が滅ぶのを避けたかった。俺は意を決して開口する。


「父上」

「ん? 靖十郎。如何した」

「願わくば、某も次郎兄上に着いていきとう存じまする」

「ふむ」


 父は微かに難しい顔を浮かべる。俺が憑依する前の靖十郎はとても聡慧とは言い難かった。歴史に名が一切残らないのだから、その程度は推して知るべしだろう。


 その靖十郎は、俺が憑依してから劇的に変貌した。この三ヶ月は徹底して父の補佐に就いていたからだ。溝江家から任された仕事を前世で培った処理能力でこなしていった。そのおかげで家中でも「靖十郎様はご立派になられた」という見方が大勢を占めるようになっている。


 そんな靖十郎が居なくなることを懸念してだろう。短い期間とは言え、父に『使える』能力を見せてきた。その存在感は確かに徐々に大きくなりつつあった。


 『父』としては決して思っていないだろうが、『冨樫家当主』としての父の胸中には「もし泰俊が居なくなっても泰縄が居れば御家を残すことは出来る」という思考があるはずだ。泰俊に加えて俺までも失う可能性は、父を必然の長考に導いた。


 それほどまでに加賀に戻るというのはリスクが孕んだ行為である。加賀一向一揆の主導者である下間一党が戻ってくるまでに事態を打破できなければ、加賀の敵対勢力は一網打尽にされる。


 史実通りならば、何の解決策も講じることが出来ずに加賀は再び一向一揆の支配下となる。しかし、俺にはそれを打破しうる知識がある。力がないとはいえ、加賀は今『百姓の持ちたる国』と呼ばれる体制に置かれている。本願寺の上層部が大坂への救援に向かったとなれば、残った実力者でもまとめるに手を焼く。それは大きな隙になるはずだ。


 折角得た好機をみすみす逃すわけにはいかないし、三ヶ月とはいえ冨樫家の家臣は俺に敬意を払ってくれた。力を完全に失した冨樫家に従うほどの、卓抜したその忠誠心を裏切りたくはない。家臣数十人を救うため、報いるため。俺は自らの力を活かすことに決めた。


「良いだろう。お主なら何か起こしてしまいそうな予感もする。その手腕に期待しよう」

「まるで失敗するような言い方ですな」


 薄く微笑む俺に、微かな笑い声が響く。


「失敗しても構わぬ。これはもとより、偶然天から降り注いだようなものなのだ。誰も責めることはない。だが一つ、手を抜くことなく全力で尽くすのだ。それは冨樫の名を継ぐ者の宿命よ。お主なりで構わぬ。よいな」

「はい、肝に銘じました」

「うむ」


 父は柔和な笑みを浮かべる。そこには一抹の自嘲が含まれているように感じた。この状況に強い責任を感じているのだろう。すっかり白髪で染まった頭髪を見て思う。その顔に純粋な笑顔を宿して欲しいと。そして父を救うには、加賀を名実共に取り戻さねばならないのだ。やってやる。どんなに辛くても、厳しくても構わない。なんの運命の悪戯か、冨樫家の三男に生まれたのだ。手を抜くことなく全力を尽くす。父の言葉を胸に刻み込んだ。

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